戦国時代

■ 韓,魏,趙 ■

申不害(韓)
 (戦国)を付けさせていただきます。
 戦国時代の思想家。法家の祖。黄老に基づき刑名を主とする。韓の国に行き、昭公に仕え、相となる。内政を整え、外に対しても韓の独立を全うさせる。

藺相如(趙)
 戦国時代の趙の名臣。和氏の璧と城十五城を交換しようという秦の昭王への使いとして赴く。昭王が約束を果たさないのを見抜き、機転によって璧を全うして帰った。また趙王と秦王が[水黽]池にて会したとき、秦の威に屈しなかった。
 位が高まると名将廉頗は喧嘩を吹きかけようとしたが、相如は逃げるようにして相手にしなかった。人々は彼の臆病さを非難したが、藺相如の意図は二人の仲が悪くなって、趙の国が他国につけ込まれる隙を作るのを避けるためであったという。その真意が分かると廉頗は謝罪して二人は刎頸の交わりを結んだ。
九十六百二十三

李牧(趙)
 戦国時代末期、匈奴戦に活躍。大敗させた匈奴は十数年間、その境界を犯さなかったという。後に秦も破るが、それにより秦に王との離反を画策され、殺された。中国武将列伝に詳しい。
百三

信陵君{魏無忌}(魏・趙) ?-前244
 戦国四君子の一人。魏の安釐王の弟。秦が趙の都・邯鄲を囲んだ際、彼の姉が趙王の弟・平原君の夫人であることから、虎符(国軍の委任許可証)を盗んで魏の十万の兵を率いて趙を救った。そのまま趙に留まったが秦に滅ぼされた後、魏に戻り函谷関の戦いで秦を敗る。秦の離反策に会い、魏王に退けられ憂悶のうちに死した。
 身分の低い門番の侯エイを辞を低くして食客として迎え、後に虎符を盗むアイデアを受けたエピソードが有名。
百十五二百三十一

平原君{趙勝}
 戦国四君子の一人。惠文王の弟。秦が邯鄲を囲んだ際、毛遂を用いて楚と連盟した他、魏にも救援を求めた。結局、趙の国を守り、その功績もあって惠文王と孝成王の時に宰相であった。他の四君子と同様、食客を多く抱えた。
二百三十五

西門豹(魏)
 戦国時代の魏の人。文侯の時、ギョウの長官に任ぜられた。灌田をし、その恩恵を人々は被った。当時、巫女が人々の信仰を集めていたが、その巫女を殺し、その信仰を改めさせた。せっかちで自ら皮革をぶら下げて速度を緩めたという。

呉起(魏) Wu4Qi3 前440頃-381
 戦国時代の政治家。魏の文侯を補佐して魏を大国とした。武侯の時,疎まれて楚の悼王の所へ行き,悼王死後に殺された。死ぬ際に,悼王の亡骸にしがみつき,これを射た敵対者達はその後に責任をとらされて殺された。すなわち死して復讐をするという凄まじさであった。
 書に兵法書『呉子』があるが兵法書と言うよりどちらかというと政治の書だという。

■ 楚 ■

屈原(楚)
 楚の政治家。対秦強硬派で、初め懐王に信任されたが讒言により退けられた。懐王が秦に幽閉され死んだ後も襄王にて放逐され汨羅の淵に身を投げて死んだ。死ぬ前に漁師とやり取りで、周りから孤立しながらも正しき孤高の道を歩もうとすることを訴えた話が有名。
 南方の伝説などを多く盛り込んだ彼の作った詩が『楚辭』に修められている。ちなみに端午の節句は彼の死を供養する行事として始まり、粽を食べるのも同様である。
百十二
『屈原』目加田誠(岩波新書)

■ 燕 ■

楽毅(燕)
 燕の将軍。前284年、趙・楚・韓・魏・燕の兵を率いて斉を討って功績があり、昌国君に封じられる。恵王に疎んじられたため趙に逃れた。よく君に仕えて出処進退を誤らなかった。

■ 齊 ■

孟嘗君(斉・魏) ?-前279頃
 戦国時代に臣下の身でありながら多くの食客を抱え、諸侯を動かすほどの力を持った四君子の一人。本名は田文。彼の客は幅が広く鶏鳴狗盗の故事が有名。すなわち、秦に招かれ、殺さそうになったとき食客の働きで虎口を脱した。
百四十六二百八十三

馮驩
 戦国の齊の人。本籍は不明。孟嘗君に仕え活躍した。
 最初孟嘗君の所に訪れて食客になった頃、「あ〜、飯に魚も入っていないんだね〜、ぶつぶつ」「外に出るのに車もないんだね〜、ぶつぶつ」「立派な住まいも用意してくれないんだね〜、悲しい身分だねえ。あ〜あ、もう故郷に帰っちゃおうか」と剣に向かって嘆いていたという。孟嘗君はそんな彼の要求に応え、厚遇した。後にそれらに値する活躍をすることとなる。
 孟嘗君は食客が多いため、金貸しをやってそれらを養っていた。薜という町での取り立てがうまくいかない。そこで食客としてだらだらしていた馮驩を派遣。ところが馮驩は借金をチャラにしてしまった。「孟嘗君のお株を上げたのです」とシャアシャアと言ってのけた。ところがこのお陰か薜は後々まで孟嘗君の有力な根拠地となった。
 後に他の食客が全て去る中で一人残って「あ〜、みんなつれないねえ、なんの為に抱えていたんだか...」と愚痴る孟嘗君を強く諫めた。さらには策を奔走して彼を齊で厚遇されるようにした。
二百三十四

君王后
 襄王の皇后。
二百十五

■ 秦 ■

韓非(戦国末) Han2Fei1 ?-前233
「韓非子」とは同じ人物と見なしました。
 法家の一人。始皇帝は彼の著作を読み「この人に会えたら死んでも良い」と憧れたと言われる。実際、始皇帝の元に招聘されるも李斯の策略に落ちて殺されたという。他の方の頁に詳しい.
三十四六十七百八十五二百六十四二百九十三

商鞅(秦) Shang1Yang1 前390頃-前338
 秦の政治家。秦が富国強兵を成し遂げる進めるための第一歩を築いた。もともとは衛の皇族出身で衛鞅ともいう。政治を任された秦の孝公の死後は、自分自身の作った法律で国外逃亡もままならず、反対派に殺された。
 しかるに彼の死後も秦の国政方針は変わらず、その結果秦は天下統一への道を進むことになった。

范雎(秦)
 諸侯に遊説し、魏王に使えることを試みる。最初、中大夫の須賈に使えるが、齊王が范雎を評価したのを憎んで、罪に陥れ鞭打たれ、瀕死の状態にされた。
 秦に逃れ、張禄と名を替え、秦の昭王に仕えた。遠交近攻の策を説いて諸侯に侵攻した。
二百五十七(無)

白起(秦)
 秦の名将。昭襄王に仕え,各種の戦功があった。范雎と不和になり,自殺させられた。死ぬ前,戦争後に大量虐殺をしたことを悔いたという。
二百九(無)二百二十四

李冰(蜀の太守)
 戦国時代の秦の人。昭王の時、蜀の郡主となり息子と共に灌漑を行った。これ以後、蜀の地は水害に悩まされることながなくなったとされる。
五十

呂不韋 ?-前235
 戦国末、商人出身の秦の宰相。秦の昭王の孫、子楚のパトロンとなり、候補者の一人に過ぎない彼の秦王への即位を助けた。子楚の子の政が位につくと初めは敬われたが、やがて疎んじられ自殺させられた。始皇帝の実の父親は彼であるとも言われる。
 「呂氏春秋」の編者でもある。

樊於期 ?-227
 秦の武将であったが罪を得て燕に逃亡した。燕の太子丹は彼を匿った。秦は彼の首を欲しがって懸賞を掛け,一方で彼は家族を殺され秦に恨みを持つ。
 荊軻は丹に秦の始皇帝の暗殺を頼まれるが,尋常では始皇帝に謁見できないと判断,樊於期の首を所望したが丹は拒絶。自ら樊於期の元へ赴き,仔細を話すと「恨みを晴らすにはその手もあったか!」と言ってその場で自らの首を跳ねた。
 始皇帝は荊軻が樊於期の首を持ってきたことに喜び,謁見を許した。

■ 諸子百家,その他 ■

蘇秦 Su1Qin2 ?-前317
 縦横家。合縦策を用いて反秦同盟を結成。しかし後に秦の反間によって破られ、車裂きの刑にされた。
九十四

張儀
 縦横家。蘇秦と共に鬼谷子の元に学び,連衡策を用いて,秦の覇権に貢献した。不遇だったとき,境遇を嘆く妻に「ワシの舌はまだあるだろ?これさえあればこれから十分活躍していってやる」と大言壮語したエピソードがある。
二百十一

莊周{莊子}
 孟子と同世代であり、儒家に対して道家の道を説いた。唐玄宗に尊ばれたという。その著書『莊子』には寓言が多い。
二百七十七

墨テキ{墨子}
 諸子百家の一派である墨家の創始者。儒教の別愛、すなわち親しい度合いにより愛情を段階に分ける思想に反対し、人々を同様に愛する兼愛を主張した。そこでは人類の平等を説くとき、絶対の神の存在を説く宗教的な面をもつ。
 勤労を節約を主張し、また平和主義を主張したが、その主張は攻められている国に武器を持って救援に駆けつけるという、戦闘的平和主義であって、墨家集団が土木技術を持っていたことから職人集団を核としていたという説もある。
百七十

孟勝
 墨子の弟子で巨子となった後、楚の陽城郡にて城を守る。陽城君は呉起の反対派であり、呉起追放に参加、罪を得、陽城は没収されることになったが、孟勝は城を守って奮闘、部下183名とともに殉職した。
四十三

荀子{荀卿、荀況}
 年齢五十歳で齊国の稷下の学に入り、齊の襄王の最後の先生であった。讒言され、楚に移り、春申君に仕えた。孔子の説を受け継、『荀子』を記した。そこでは人の性質はそのままでは外れることが多いために「礼」によって教化されるべきだという「性善説」を唱えた。それをさらに押し進めると法律で規制すべしと言う考え方となるが、法家はこの学の一派から派生したとされる。漢代には『孟子』よりも重んぜられたらしい。
二百四十九

恵施
 戦国時代の政治家、名家すなわち論理学者。宋の出身。『荘子』には彼と荘子のやり取りが多く収められている。
百五

扁鵲
 鄭の人。医術が有名であった。
二百七十八

白圭
 戦国時代、洛陽の人。水利家、経済思想家。名を丹と言い、圭は字である。すなわち「人の必要のない物を買い、人の必要な物を売る」というやり方で財を成した。『史記』貨殖列伝に見られる。
 一方堤防を修復し、治水に貢献したという話しもある。一人だという説と二人だという説があるらしい。
二百九(無記)

荊軻(戦国末) Jing1Ke1 ?-前227
(秦)を(戦国末)に替えさせていただきました。
秦が始皇帝により天下を平定しようとする直前、始皇帝の所に刺客として赴いた任侠の人。史記に伝えられる勇気と節義ある逸話が人々の涙を誘い、任侠の代表人物として語られる。
十一十五百四十二

KEIKA

高漸離
 燕の筑弾き。荊軻と、もう一人狗殺しと意気が合い、三人で非常に仲が良かった。
 荊軻の死後、その関係者が処刑された中で逃げた。後にその優れた筑弾きの腕が認められ、宮廷音楽家として採用されたが、荊軻の関係者ということで眼を潰された。
 しかし実は荊軻の為の復讐の思い冷めておらず、筑の中に錘を入れて、これを用いて始皇帝を暗殺しようとした。しかし盲目の悲しさで失敗。無論これにより殺された。任侠の人である。
二百三十二百三十七