皆様による人物紹介の頁
二百二十一〜二百四十

 書いていただいた方々、本当に有り難うございます(^^)


二百四十:Fri May 7 00:36:28 JST 1999

人物名:搆ウ起
投票者の方:木内@時世経久 < cap44380@pop01.odn.ne.jp >

 字は仲居。南郡当陽の人。斉末梁初の武将。
 南斉の勇将として名を馳せていたが、梁武帝の義挙に呼応。建康占領に功績を挙げ左将軍に至る。その後、益州刺史劉季連を討伐すべく、元起は蜀地方に進出。地の利を生かした劉季連の抵抗に苦戦を強いられるが、しかし民衆の離反、糧食の枯渇により劉氏は降伏。元起はそのまま益州の占領政策を任された。元起自身にはそれほどの政才はなかったものの、優れた幕僚に恵まれ、占領政策も順調に進行する。だが二年後、北魏軍が梁州に侵攻した際、援軍の要請を受けたにも関わらす元起はこれを無視。勅命を受けようやく援軍を発したが、すでに梁州は北魏軍の手中にあった。元起は罪を問われ、これを恥じた彼は獄中で自殺する。四十八才。
 元起が蜀討伐の命を受けた時、易者に占わせたところ「蹇」の卦が出た。それを見た彼は嘆息し、冗談混じりで「まさか昜のようにはなるまいな」と言ったが、まさにその通りになったのである。蜀の劉氏を滅ぼした搦≠ヘ、やはり蜀の地から生還できなかった。
 というわけで、「偶然の一致」部門では、南朝代にはなかなか貴重なお方なので記帳させていただきました。けっこうな良将なのに、可哀相なお人。


二百三十九:Sat May 1 01:46:04 JST 1999

人物名:明の永楽帝 
投票者の方:和 < >

あ〜この人って人気ないですかねえ。陳先生や田中(芳樹)サンもあまり扱っていないので、マイナーなのかな?でも、この人戦さは強いんですよ。親父の洪武帝もそうだったけど。中国史上、一番戦争の強い皇帝親子…。父子ともども、清濁併せ持つってところがいいんですけどねえ。戦上手の皇帝って言うと、唐の太宗もいるんですが、何か、後世の評ばかり気にしてる、優等生肌の李世民より彼のほうが愚直(?)で好きですね。でも、この2人、共通点も多いんですよ。どちらも身内殺してるし。(永楽帝の方は、ハッキリと殺したかはわかんないんですけど)両者が戦場で対峙してたら…凄いことになってたでしょうねぇ。あ〜こんな邪道なことばかり考えてしまう…。


二百三十八:Sun Apr 18 16:50:45 JST 1999

人物名:賈復
投票者の方:赤い人 < >

 賈復は光武帝の武将。敵と相対しても怯まず猪突猛進。光武帝は彼を失うことを恐れ出陣させなかった。その為、諸将が戦功を誇り合っていても、語る戦功がなかった。公孫述討伐への参加を願い出ても許されなかった。 馮異は謹んで戦功を誇らなかったが、賈復は誇る戦功が無かった人。 そんな彼に幸あれ。


二百三十七:Wed Apr 14 16:09:41 JST 1999

人物名:高斬離
投票者の方:花名王 < a982327@mi.sanno.ac.jp >

えーと、これで良いのか自信ありませんが……。
こ、この人に入れておられる方がいまして、ついついとつられてしまいましたぁぁ。
小説で読んだという、あまり威張れない入り方ですが魅力的でした。
その後で実在しない人物という可能性もあると聞いて、納得するあたりは冷めておりますが(汗)。


二百三十六:Thu Apr 8 15:11:09 JST 1999

人物名:永楽帝
投票者の方:榎並岳史 < >

どなたも気づいていないようでしたので、おいしい一票を投じさせていただこうと思います。永楽帝は明王朝第三代皇帝(本人は終生二代皇帝だと主張していましたが)で、鄭和に南海大航海をやらせたり、北方に撤退したモンゴルをみずから討伐したりと、なかなかスケールの大きな人物です。ただ、甥である建文帝から帝位を簒奪したり、即位後に父親である先帝・洪武帝のような残虐な粛正をやったりするなど、暗い一面も持ちあわせていました。そういった意味で、功罪いずれも巨大な人物ですが、私は彼の功績とその才能−−とくに軍人としては、中国史上でも屈指の男だったと思います−−に敬意を表して、一票投じたいと思います。


二百三十五:Thu Apr 8 12:03:18 JST 1999

人物名:平原君(趙勝)
投票者の方:澤村相如 < >

こっちに来るのは久しぶりですが、信陵君の投票を見てこの人に一票。平原君は大物気取りで苦労知らずの貴公子というイメージをもたれている。確かに趙の衰亡の因をつくった上党地方の割譲を受け入れたのも彼であり、その前には斉人田単を登用して失敗したりと失政が多い。さらには孟嘗君や信陵君に非礼をなじられて謝ったりと、あまり好ましいエピソードを持たない人物ではある。司馬遷にも、濁世の貴公子ではあったが大局を見る眼がなかった、と評されている。しかし誤りを指摘されるとすぐ反省するところは、根が素直で善人であることを感じさせるし、貴人らしいおおらかさにあふれている。これは癖の強い個性揃いの『史記』の中でも特異なキャラクターである。まあ、だからといって評価されるべき人物ではないんですが、あらゆる本で彼を悪く言う傾向が強いので、その見栄っ張りで人のよい性格が嫌いになれない私は彼の弁護ではなく自分のためにこれを書きました。


二百三十四:Tue Apr 6 17:48:51 JST 1999

人物名:高儼
投票者の方:藤棚 < >

高儼は北斉第四代皇帝武成帝の第三子で父母の寵愛を受け幼少にして高官につきます。武成帝の死後、和士開、穆提婆ら偲倖(皇帝の個人的な寵を受けた人)の専横に反発し士開を殺してクーデタを起こし後主(五代目皇帝)と対決しました(571)。しかし北斉の重鎮である斛律光の仲介によって決戦にはいたらず、結局後主の命を受けた劉桃枝に殺されてしまいました。ときに24歳であったとか。 中国史人物雑伝のほうの「和士開の放恣を憎み、これがころされると喜んだ。」というのはひょっとして斛律光の事ではないでしょうか?斛律光が「さすが、皇帝の一族はやることが違う」というような事を言ったという話がありますから。


二百三十三:Mon Apr 5 16:48:20 JST 1999

人物名:陳湯
投票者の方:榎並岳史 < >

えっと、実は熱狂的に好きというわけではないのですが、一票も入っていないので、気の毒になってしまいました。
陳湯という人は、前漢の後期に北方異民族の討伐に功績のあった人で、「漢書」にも、立派な列伝がたてられています。ただ、田中芳樹氏が著書「中国武将列伝」で述べられていたように、むちゃくちゃな性格の人なんですね。それで何回も左遷されているのですが、その度ごとにいろんな人にとりなされて、うまいことやっていくんです。興味を持って「漢書」の列伝を読んでみたのですが、周りの反応は「あいつがいなくなってくれるならこっちも大歓迎だが、自分達を巻き添えにしていきかねないぞ」といったもののようで、周りの人の弱みを握ってわがままいっぱいに振る舞う、そういう人物のように私には思われました。私自身、彼とは友達にはなりたくないなあと思いながらも、その傍若無人な生き方には、あきれを通り越して、むしろ痛快さを感じてしまいました。そんなわけで、彼のわがままに一票!ということで、お願いします。


二百三十二:Mon Apr 5 16:26:29 JST 1999

人物名:趙匡胤
投票者の方:榎並岳史 < >

とにかく、一番好きな人です。お人好しすぎるほどの穏やかさも、子供っぽい駄々のこね方も、円熟した大人のしたたかさも、すべてがこの人の魅力になっていると思います。


二百三十一:Sun Apr 4 22:03:08 JST 1999

人物名:信陵君
投票者の方:渡辺 省 < >

 国王の弟でありながら、賤しい人間にも頭を下げたとゆうのが凄い。義理の兄(平原君)の為に、自分の地位を棒に振って国を出奔した態度といい、実に潔い。全身、侠気の塊ですね。
 政治家としても有能だったし、最後には連合軍の総指揮者となって秦を追い詰める。「智・勇・仁」三徳兼備の名将と言えば、この人しか居ない!
俗に「戦国四君」と総称されますが、他の三君とはひと味も二味も違います。


二百三十:Wed Mar 24 21:30:55 JST 1999

人物名:高漸離
投票者の方:菜月 < cat97090pop21.odn.ne.jp >

中国古代のミュージシャンで、歴史に残らないまま消えていくはずの無名の芸術家が、あの荊軻と出会ったばかりに、始皇帝の暗殺を謀り、「筑を奏でるテロリスト」として永遠に歴史に名を残す…なんともドラマティックな人物だと思います。超一流の筑弾きとして、人一倍繊細な神経を持っていたはずの彼が、荊軻への思いのためにテロリストとなり、盲目にされてもなお始皇帝をねらうという人生は、まるで物語のようで、郭抹若氏以後、どうしてもっとこの人物が小説化されないのか不思議なくらいです。私は、荊軻が燕にとどまったのは、高漸離の筑の魅力に引かれたためだと考えています。きっと、気品のある秀麗な人物だったに違いありません。その筑の音に、あの始皇帝でさえ深く心を動かされたのですから。


二百二十九:Sat Mar 20 14:52:29 JST 1999

人物名:菫賢
投票者の方:とら < orca1@d1.dion.ne.jp >

すみません。選択誤って、1票「前漢」で入れちゃいました。消してください。お願いします。 菫賢くん…後漢の皇帝、哀帝くんの寵童だったひとで、傾国の美少年、美青年だったといわれています。彼のおかげで、哀帝の御代は、菫氏一族の専横甚だしかったと、漢書は伝えております。マイナーですみません。m(__)m 入れようと思っていた衛青くんが、思いがけず、霍去病より上位で嬉しかった!んですが、芸がないと思い、新規登録です。


二百二十八:Sun Mar 7 15:04:51 JST 1999

人物名:奢香
投票者の方:貴州水西宣慰使安氏家譜 < >

明封順徳夫人禄得氏奢香序 按:黔建置志:靄翠遺其妻奢香見太祖願効力開西鄙,世世保境,以乞除都督馬〓,太祖許之。御賜姓安氏。平遠州人物志:宣慰靄翠,遺妻奢香,率土酋入貢方物、馬匹。太祖太悦,雜賜文綺、織錦、珠翠、如意冠、金環、繍衣,翠死,香代立。循例赴闕,封順徳夫人。又黔西土司志:洪武十七年,香開偏槁、東水以達烏蒙、烏撒及容山、草堂諸境,且立龍塲九驛,歳歳貢馬匹廩積,以通往來,而西南益闢。二十三年五月己酉,攝貴州宣慰使奢香遣其子阿的入朝且請肄業太學,許之。十月,香又遣其子大者助婦率土酋入貢,上賜安的三品服,命還。十一月,置貴州宣慰學。二十六年正月,奢香貢馬。二十九年,香死,朝廷遣使祭之。提學副使呉國倫次奢香驛詩云:我聞水西奢香氏,奉詔曾謁高皇宮。承恩一諾九驛通,鑿山刻木穿蒙茸。至今承平二百載,〓柯〓道猶同風。西溪東流石齒齒,嗚咽猶哀奢香死。中州男兒忍巾幗,何物老嫗亦青史。君不見蜀道之闢五丁神,〓爲萬卒迷無津,帳中〓叱山河走,誰識奢香一婦人。


二百二十七:Thu Mar 4 12:41:53 JST 1999

人物名:石奮(万石君)
投票者の方:maitreya < maitreya@tkf.att.ne.jp >

史記列伝の中でちょっと好きな人物です。
(今手元に資料がないのでもしかしたら字が違うかも。)
戦国趙の国が何故か好きなので、趙盾・藺相如とも思いましたが、
有名なのであえてマイナーな人にしてみました。


二百二十六:Mon Mar 1 17:13:41 JST 1999

人物名:相・・柄廖
投票者の方: < aaa72810@pop07.hongo.ecc.u-tokyo.ac.jp >

斉の桓公の恩義を忘れず太子照をかばい斉に帰国させ後見するあたり、また、
不意討ちを潔しとせず、楚軍の渡河を待って、堂々と攻撃し敗北するあたり、
宋の襄公は生き様がかっこいいと思います。


二百二十五:Thu Feb 25 14:22:07 JST 1999

人物名:伍員
投票者の方:藤井 < tada3@coral.ocn.ne.jp >

生き方最高!!格好良すぎ。人気があるのが良くわかります。


二百二十四:Tue Feb 23 12:58:05 JST 1999

人物名:白起
投票者の方:Marechan < W.Tagami@tkac.xm.mitsui.co.jp >

不敗の名将白起に僅か2票しか集まっていないのを見て、思わず投票
してしまいました。人気投票となると、やはり、三国志関連のヒーローが
圧倒的に強いのですね。うちでは私より愚息の方が三国志には詳しく
妙な対抗意識もあって、私自身はどちらかというと、三国志以外の分野
を中心に読んできました。中国史は幅広く、自分の思いがたった1票に
しか託せないのも少々寂しいです。他にも何人か投票したい人物が
いるのですが、構わないのでしょうか?


二百二十三:Tue Feb 16 13:27:54 JST 1999

人物名:羊舌ハン[月八十]{叔向}(晋)
投票者の方:鳥羽一司 < toba@meister-net.co.jp >

某文庫を呼んだ私はずっと「ようぜつきつ」として憶えていました。


二百二十二:Sat Feb 13 14:06:45 JST 1999

人物名:猗房
投票者の方:ゆうこ < >

この人物はマイナーですが、大好きです。 宮城谷氏の小説「花の歳月」の主人公です。 貧しい名家の彼女が漢の王室に入り、後に文帝の皇后になるまでの波瀾万丈の人生には圧倒されました。 他にも、王室に入る時に別れた弟・広国との再会の事が「史記」にも描かれています。 また、老荘思想のファンだったらしいです。


二百二十一:Sat Feb 13 01:00:11 JST 1999

人物名:章昭達
投票者の方:木内@時世経久 < cap44380@pop01.odn.ne.jp >

字は伯通。南北朝代、陳の武将。呉興武康の出身。
 親父さんは法尚といって、梁代に揚州の地方官を務めていた。じいさんも斉代に広平の太守をしていたと言うから根っからの文官の家系のはずが、なぜか昭達は武官への道をたどる。
 腕っ節と気っ風のよさで鳴らしていた青年時代、彼はある怪しげな占い師と出会う。占い師は昭達の顔を見るなりこう言った。
「あんさんの顔は、ほんまにええ人相してますなあ。せやけど完璧すぎる。なんかこう、ちっさい傷でもあれば、もう人生成功を約束されたようなもんですわ」 もちろん、昭達は鼻で笑って気にもしなかった。しかしその後、酔って馬から落ち、額に傷をつくってしまった。占い師の言葉を思い出した昭達は、喜んで占い師に傷を見せに行った。ところがその占い師は傷を見るなり、あきまへんなと素っ気ない一言。小さい傷って言っただろうと息巻いた昭達ではあったが、鼻で笑った身としてはそれ以上ツッこむ事もできない。やがて勃発したのは侯景の乱。昭達は義勇兵を募って建康にはいり、侯景軍を相手に奮戦した。いや、奮戦したはいいが、飛んできた一本の矢が彼の片目を傷つけてしまう。傷の痛みに唸る昭達のもとに、みたび現れたのは例の占い師。彼は昭達の傷を見るなり言った。
「うーわ、これや。これやがな! もうあんさんの人相完璧。言うこと無いわ。こんなちっさい傷で、もう金と女と出世は絶対間違いなしや。せや、金持ちンなったらおごってくれや、な」「あほかあああっ!!!」と昭達が叫んだかどうかは知らないが、結局建康は落城し、昭達は隻眼となって故郷に戻った。と、昭達はその故郷で一人の青年と出会う。陳という姓を持つその青年、叔父が侯景軍と戦っているあいだ、故郷を護っているのだという。陳青年と意気投合した昭達は、その右腕となって侯景軍と激しい戦いを繰り広げた。そうこうしているうちに、陳青年の叔父がひょっこり呉興に帰ってきた。美々しい甲冑に身を包んだ男が陳青年の叔父だという。その叔父は名乗った。「俺が陳覇先だ」。陳朝の開祖である。
 陳青年の名はセン(草冠ににんべんに青)。後の陳の文帝となる人物だった。皇帝の卵と仲良くなった奴が不幸になったためしはあまりない。昭達も、文帝の即位とともに見る見る出世。もちろん昭達自身の武才もあったが、最後は車騎大将軍にまで登り詰めた。人生、何が幸いなのか本当にわかりませんというよい見本かも知れない。ちなみに、彼の息子大宝は領地で圧政をひいて官位を剥奪された挙げ句、叛乱を起こして一族皆殺しにされてしまう。占いの効果も、やはり昭達の代までしか効き目はなかったようだ。


「中国史人物投票」筆頭ページに戻る
便利な「案内板のページへ」行く

「私的中国史調査会」ページに戻る