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2.広告送信者向目次

STOP スパム送信

インターネットメールでダイレクトメールDMを送ろうとする方々へ

どんな広告・宣伝メール配信なら許されるのか?

あなたのメールがspamになる三要素


spamメールの基本
 
●何故spam(スパム)は悪いことなのか?

spam(スパム)の語源と定義
逮捕も出ているマルチ商法型spam
ルール破りの商品広告spam
子供や女性へも届く卑猥なアダルトサイトspam
仕事を邪魔するspam

●spam容認論
大反対!!

・「私の送ったのはスパムではありません
・「資本主義で広告活動は正当
・「無くすのなんて出来ない
・「受手側が捨てればいいだけ
・「アドレスを公開しているのが悪い
・「私は嫌じゃない
・「苦情は一部
・「歯止めが效かないってそんな大げさな...


更には「リンク集・主張頁」の
啓発・報道リンク集
には第三者による「spamは問題行為」の指摘がたくさん!

「別にいいんじゃないの〜」という人へ
spam容認論反対
2001/3/1 初版 2001/08/15 第二版
2002/07/09 第三版 2002/07/09 第3.2版
2002/11/22 第3.4版 2003/01/19 第3.5版
2004/04/18 第3.6版

1●私の送ったのは○○であってスパム(迷惑メール)ではありません
2●「資本主義で広告活動は正当なものでしょ
3●「無くすのなんて出来ないよ
4●「受手側が捨てればいいだけでは
5●「アドレスを公開していること自体が問題では?
6●「私は貰っても嫌じゃないんだけど
7●「スパムを送ってしまったけど苦情は一部だけでしたよ
8●「チラシなどと違って歯止めが效かないってそんな大げさな...


「私の送ったのは○○であってスパム(迷惑メール)ではありません」

 初心者スパマー堂々スパマーを中心に上のようなことをおっしゃる方が時々いらっしゃいます。ではYahoo!Japanでの定義を見てみましょう。

スパムメールとは?
http://help.yahoo.co.jp/help/jp/mail/spam/spam-02.html

スパムメールとして代表的なものは以下のようなメール です。

 スパムメールの送信者は、様々な方法でメールアドレス のリストを入手し、様々なアドレスから、ウェッブ上のあ りとあらゆるところへメールを送信します。 

 また、以下のような記事もあります。

日経BP社ITPro
米国ビジネス・ユーザーは『取引実績のない企業からのメール』をスパムと定義、と米調査
http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/USNEWS/20030501/12/

 調査から,スパムかどうかの判断基準となるのは,過去の取引の有無であることが分かった。回答者の54%は,それが勝手に送られてきた大量発信のメールであっても,過去にビジネス上のやり取りをしたことがある企業が送信元であれば,「スパムとはみなさない」と答えている。

 どうですか?あなたの考えるスパムとは違うかも知れませんが、それが現実なのです。「インターネットメールでダイレクトメールを送ろうとする方々へ」に書いたように、自分勝手なスパム迷惑メールの定義でそれを行うことは許されません。

 私はスパムの基本というべき3本の柱を「あなたのメールがspam(大迷惑メール)になる三要素」で書いています。あなたのメールがそれに当てはまらないか、そしてそれぞれのいけない理由にあなたが十二分に反論できるか、よく考えてみましょう。

 「一方的な広告メールの送りつけ=電子メールDM=スパムメール」ということは多くのマスコミが提示しています。スパム関係リンク集・報道編も是非確認して下さい。また、各ネット業者の掲げているアンチスパムポリシーも参考になるでしょう。

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「資本主義で広告活動は正当なものでしょ」

 確かに資本主義で広告活動は必要です。
 しかしそこには一定のルールがあるのを忘れてはなりません。すなわち広告を見せられる側にも了解の上で見せられる、何かの対価の上で見せられるのが大部分なのです。

 たとえば民間放送ではTVCMが番組を成り立たせていることは皆が知っています。一方で日本放送協会(NHK)は多くの人の受信料で成り立っており、だからこそ広告は許されません。どんな会社も対価無しにTVというメディアを使って広告をすることは許されないのです。

 街角の広告はどうでしょうか?一般に街角の広告でも必ず広告主はその権利料を払っています。すなわちそのスペースを利用するための代金です。

 ではそれを見せられる側の私たちは何故それを見なければならないのでしょう?
 電車に乗る際、街角を歩く際、広告は嫌でも目に入ってきます。しかしながら私達はそれを行う際に一定の恩惠を受けていると見なすことが出来ます。すなわち電車内・駅内での広告は電車料金を少しでも安くする方向に働いています。また街角の広告はその周辺の店を利用するという恩惠を私たちが被っていると見なすことが出来ます。実際、人通りの多い場所ほど、すなわち人々が恩惠を受ける場所ほど、たくさんの広告が並べられています。

 しかしながらこれも非常に微妙な問題で、景観問題は一つの社会問題になっています。歴史的景観を重んじる町では許容範囲以上の広告は認められません。それは受け手側が広告によって受ける恩恵よりも、広告から受ける精神的被害が大きいからだと見なすことができます。繁華街のけばけばしい看板を、古い街並みの残る宿場町で認めることはないでしょう。それを人々は「その場の雰囲気に合わない」などと表現します。

 新幹線に乗ったときに田圃(たんぼ)などにポツンとある広告はどうでしょうか?人によっては折角の日本らしい風景が邪魔され、嫌だと思う人もいるでしょう。けれども新幹線自体が田舍の静かなたたずまいの中で騷音と振動を撒き散らす鉄のかたまりなわけです。もしも広告を置くのに、田圃の持ち主が対価を受け取っているのなら(多分そうだと思うのですが....)、新幹線の利用者は田圃の広告を見せられることで、新幹線という便利な道具を使わせて貰っていると見なせましょう。
 つまり広告とはそれだけ慎重に提供されるべきものなのです。

 ところがインターネットはどうでしょうか?spam送信者は我々になんの恩恵もたらしていません。
 一方でインターネットでは広告による無料プロバイダーや無料メールなどがあります。これらは本来有料のものを、広告を見せられることで無料になると言う仕組みであり、まさしくTVCMと同じです。これこそ健全な資本主義らしい広告方法と言えます。
 それらを利用する人は広告が入るのを承知して、無料・格安のサービスを受けているのです。

 しかしそれ以外のspamに分類されるメールは、そのような恩惠を全く受け手側にもたらしていないのです。それどころか本来、半公共性を持ったインターネット回線を不当に濫用していると言えるでしょう。これは全くの自由主義・資本主義のルール違反なのです。

 もしspamを完全に容認したならば、spamの行く末はどうなるでしょうか?たくさんの広告希望者が安易に大量の広告を無差別に送るようになるでしょう。「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということで、大量の広告メールを流される結果、回線を無駄に浪費し、円滑なネットワーク維持が出来なくなります。
 また「贅澤品を買わない人々」へ「贅澤品の広告」が、「女性や子供」へ「成人男性向けの広告」が、「宗教などに興味のない層」へ「宗教勧誘のお誘い」が....というように全く無駄な、場合によっては害悪さえ伴うメールが横行するのは目に見えています。

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「無くすのなんて出来ないよ」

 この項目を作った2001年3月から13ヶ月後、日本でスパムメール規制法が国会を通りました。そして2002年7月から施行されています(詳しくはこちら)。

 「ポストへのチラシなどが無くせないように、電子メールのスパムもなくせないよ」。そういう言い方をする方がいたから作ったこの質問項目でしたが、私が贅言を吐かなくても、世の中の動きは上の疑問への返答になることでしょう。

 物事に対して最初から諦めるのは決して誉められたことではありません。無くすのが出来ないなどと言うのは無くそうとする前から言うことではないのです。確かにこの世の中には「なくすべきだろうけど無くならないもの」というのが多くあります。そして、スパムは規制法が出来てもおそらく簡単には無くせないものでしょう。

 けれども、それならそれでどうしたら無くせるのか、どうしたら少しでも抑制することが出来るのか、それを考えていくことが大切なのです。

 「無くそう」「抑制しよう」とするには、まずspam問題に対する社会的な問題認識が重要です。それから以降は制度・技術的な問題になると考えます。インターネットというのは、確かに中央集権的な統制機関はありませんが、しかし一方で高度な技術を背景にしたシステムですから、実はその気になれば取り締まりは可能なのです。

 たとえば以前と違って今は完全に送信者が判明できないメールは送れなくなりつつあります。もし送信者が特定できるならば、spamを送った送信者が社会的な罰を受けたり、ネットに関するアクセス権の停止を受ける等の措置を取るようにすれば良いのです。

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「受手側が捨てればいいだけでは」

 spamを定期的に受け取ったことのない第三者の方がこのような発言をする場合、その方にspamの不快さを伝えるのはなかなか容易ではありません。

 郵送DMとの違いによる不快感はなかなか自分で定期的に受け取らないと実感できないものです。その場合には何故不快なのかを「時間的な損失を受けること」「強制的に読まされること」を話して理解してもらうしかりません。それらの方々にも
「spamはこんなに不快に思う人が多いのだ!しかも問題なのだ!」
という点だけは理解して貰い、将来的にspam行為だけはしないようになってもらわねばなりません。

 また後述のように、自分は貰っていても気にしないという方もおられますが、そういう方に理解して頂くのは一層困難で、もはやその方の「他人の気持ちへの想像力」に頼るしかありません。

 spam送信者の方にはspamの問題性をなんとしても理解して頂かなくてはなりません。spamが単に受信者が捨てれば良いだけで済む話ではないことは

・「あなたがspammerにならないために
・「何故spamは悪いことなのか
この頁の一章−「資本主義に広告は必要でしょう?−広告にもルールがあります」

で大体書きました。spamは受け手負担過大であり、「自由主義・資本主義のルール違反」なのです。

 もしもspamを許すならば、spamの増殖は止められず、メール使用者は大量のspamメールから自分の必要なメールを掘り出すという、全く無駄な作業に毎日追われることになるでしょう。そんな馬鹿な広告はありません。

 確かに郵送DMや電話勧誘もそういう類似の問題点を持っていますが、しかし各種要因の結果、受信者の時間的・精神的負担に歯止めがかかることは「何故spamは悪いことなのか」で前述しました。

 spamの場合には、歯止めが效かないので、ひたすら受け手側が負担し、かつ不快感を増大させることになり、人々はその労力に疲れ果て、やがて「電子メールは使い物にならない」という風潮に結びつきます。

 まさしくspamメールは人々のコミュニケーションを拡大させるはずのインターネットメールを崩潰させる危険性を孕んでいるのです。

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「アドレスを公開していること自体が問題では?」

 インターネットの醍醐味は普段から知り合っている人と電子メールでやり取りするだけではありません。ホームページや掲示板、メーリングリストなどといった、新しい「場」で、新しい出会いをすることにもあります。自分の趣味に関するホームページを作り、その感想を見た人が送ってきてくれる。これほどインターネットらしい、そして楽しい出会いはありません。

 最近では、いたずら電話や広告電話を防ぐため電話帳に電話番号を載せないという人々も増えてきました。それが可能なのは電話がもともとコミニュケーションを新しく広げるという為のツールではないから出来ることなのです。その点で、会ったこともない人からメールが送られてくることを期待したインターネットメールとは大きく違うのです。

 spamの問題でアドレスを公開していることに責任を求める人は、電子メールを所詮電話と同じレベルでしか考えてない、インターネットのコミュニケーションツールとしての醍醐味を十分に味わっていない、またはその必要性を感じていない人と言えるでしょう。

 一方で、だからといって「広い出会いを求める」というのが、怪しげな広告をいろいろ見たいという意味ではないのは当たり前のことです。メールアドレスを公開しているのは、別にspamを貰いたくて公開しているわけではないのです。本来、電話帳に電話番号を載せるのが広告電話を貰いたくて載せているわけではないのと一緒です。

 もしこのspamの傾向を許すならば、電子メールを公開するのはそのようなspamを貰っても良い人だけ、ということになり、そのような奇特な人は少数派でしょうから、結局インターネットの電子メールは「内輪でしか使えない」ものとなり、インターネットが持つ可能性を狹めてしまうと言えるでしょう。

更に詳しくは「スパムの後ろ向き解決に反対する!」で書いています。

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「私は貰っても嫌じゃないんだけど」

 ある物事には気にする人と気にしない人がいます。また同じ人でも気にすることと気にしないことがあります。このような多様性を認めるのが自由主義の社会です。
 資本主義は自由主義と密接に結びついています。一方で共産主義は必ずしも自由主義と親和性が高いわけではありません。その結果が20世紀における共産主義の敗退であったと見ることも出来ます。「結果の平等」を重んじるよりも、人々の自由への欲求の方が更なる基本的な欲求であり、それは無視できなかったのです。

 しかし自由主義といっても何から何まで認めるのではありません。それは自由を拡大していくと人々の間の自由がぶつかり合うからです。その結果、自由主義は仲裁機関を必要としますし、また人々は互いの意思を尊重しなければなりません。そうしないと周り回って自分の自由も認められなくなってしまうからです。spamは「余計なメールを貰いたくない人」と「宣伝・広告をメールで送りたい人」の自由がまさしく激しくぶつかっている部分です。

 その一方で、傍觀者の人すなわちspamに対して「私は貰っても嫌じゃないんだけど」という人がいても当然良いのです。そういう人は無料プロバイダーや無料メールアドレスをなんの不快感もなく使えるのでしょうから、実にお得な人間だということが出来ましょうし、TVの場合にはCMをうっとおしいと思うより楽しんでしまうのかもしれません。幸せな性格と言えるでしょう。そういう方がいても全然悪くはなく、十分にあり得ることです。

 しかし一方でspamが嫌な人もいるのです。嫌な人もいるからこそ、お金を払ってまでも広告のない快適なサービスを求めるわけです。spamの是非を、ある意味「どーでもええ」人の価値観で行うのは無意味というものです。そのような人にとっては極端な話、「広告がつくことによる無料化」と「広告がつかないことによる有料化」の区別でさえ感覚的に理解できない、鈍感な人であるとも言えます。

 反spamメーリングリングリストで、spamを煙草の煙に例えて下さった方がいました。巧い例えだと思います。嫌煙権を主張することはもはや多くの人に決して奇異なことではないでしょう。けれども実際に「どーしても喫煙者と同席するのは嫌だ」と考える人はどれくらい多いのでしょうか。

 私なぞは父親がヘビースモーカーで耐性がつき、また楽しそうに吸っているのを見ているので、自分では煙草を吸いませんが、他人の煙草の煙はあまり気になりません。「嫌煙」は私にとっては比較的「どーでもええ」のです。この点で私は鈍感なのです。しかし私のような意見がまかり通るならば、今の「公共的な場所での禁煙区域の一般化」にはならなかったでしょう。私も「嫌煙」を主張する人の意見はもっともなことだと思いますし、その人々の意見は尊いものだと思います(一方で今はあまりに喫煙者の自由がなくなっている気がしますが....)。

 各人がある事柄に対して鈍感なのは構いません。けれどもそれを他人に押しつけるのは、まさしく自由主義を踏みにじる行為であり、ひいてはそれは自由主義・資本主義の微妙なバランスを理解していないと言うことが出来ましょう。貰いたくない人が貰わなければならない今のspamの現状は、どう考えてもおかしいのです。

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●「スパムを送ってしまったけど苦情は一部だけでしたよ」

 スパムメール(一方的に送りつけられた宣伝等のメール)の被害を受けた場合のアドバイスとして、以前から言われているものに

スパムメールに対して絶対に返信をしてはいけない

というものがあります。その理由としては、悪質な送信者は返事を受け取った場合、「しめしめ、このアドレスは強引に送れば一応読まれると言うことだ」と認識し、その人達のメールアドレスを付加価値のあるものとして他者へ転売したり、一層スパムをたくさん送るようになるから、と言われてきました。

 その事実に関しては異論も出ていますが、ともかくも、スパムに悩まされて調べたことのある人は『返事は厳禁』というセオリーを教えられています

 「送らないで下さい、と返事をした人には二度と送ってはいけない」という法律が出来た日本ですが、そういう中ですら、たとえばインターネットサービス大手のYahoo!JAPANなどは従来の習慣に沿ってスパムメールに返信してはいけないことが書かれています。

スパムメールが届いたら?
http://help.yahoo.co.jp/help/jp/mail/spam/spam-03.html

 心あたりのないメールやスパムメールには返信しないでください。「不要な場合には返信してください。送信者リストから削除します。」などと返信をすすめたり、送信者リストから削除するためのサイトのURLが案内されていることがありますが、このような誘いには応じないようにしてください。

 スパムメールの送信者は、一度に数千通のメールを送信して多くの方々に迷惑をかけるだけではありません。メールの受信者から返信を待って情報収集を行っている場合もあります。受信者から返信があれば、そのメールアドレスは確実に存在することが確かめられます。あなたのメールアドレスはより多くのリストに載せられてしまう可能性もあり、その結果もっと多くのスパムメールを受け取ることになるかもしれません。 

 スパムメールのリストから削除する、と約束するようなサイトには登録しないようにしてください。このようにして案内されるサイトは、中には合法のものもありますが、ほとんどの場合は削除などは行われず、メールアドレスの情報収集が行われて、スパムメールの送信者に利用されてしまう恐れがあります。 

 その結果、スパムメール被害者達は「苦情を言いたくても我慢して苦々しく送信者を見て、ゴミ箱フォルダに捨てる」というのが一般的な対処になってしまっています。つまり、送信者から判断する場合に「苦情の返事が少ないから」あるいは「広告に対して喜ばしい反応があったから」といって(真っ当な送信者にとっては)「全く安心が出来ない」のです。

 送った相手のうち1%が良い反応をして、1%が苦情を送ってきたとしても、その両者とも被害者の中では少数派であり、「残りの大部分は恨めしく思いながら苦情すら送れないでいる」と考えた方が良いでしょう。

 そもそも、スパム送信者は転売されているメールアドレスを買ったり、あるいはネット上のメールアドレスを収集するツールを使ったりするわけですが、そのようにして選ばれた宛先の者達は大概、同じような形で悪質な業者からのしつこいスパム配信の被害を受けています。

 そんな被害者にとっては
「スパムメールを送ってくるような会社=まともでない=とんでもない」
という認識を持っています。本当は良いイメージを広げたいはずの広告が、スパムではむしろイメージダウンをもたらすことに注意せねばなりません。

 なお、日本では2002/7より法律が出来、その中でスパムメール送信者への拒否を行うことで再度受け取らなく出来るようにする形に表面上はなりました。しかし従来の慣習との矛盾で、spam被害者達の対応を大変難しくしています(質問集回答参照)。

 なお、インターネットの非営利機関JPNICの見解も参考になるでしょう。

JPNICスパムに関するFAQ

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●「チラシなどと違って歯止めが效かないってそんな大げさな...」

  インターネットのスパムが、チラシや郵送DMと違って歯止めが效かないと言う点に関して、中には「そんな大げさな...」と考える人がいるかもしれません。

 しかしながらそれを見事に証明してしまったのが携帯電話の「迷惑メール」に他なりません。

迷惑メール関連記事(ZDnet)
http://www.zdnet.co.jp/mobile/0203/04/n_meiwaku.html

 マスコミが「迷惑メール」などという名前を定着させてしまいましたが(ってその前に使っていたのはわたしじゃ...汗)、それはまさしく「スパムメール」でした。

 その発生理由も「パソコンからいくらでも送れるから」というメリットが極めて大きかったのであり、これはインターネットだからこそ可能だったのです。

 日本ではたまたま携帯電話と、それに付属していた電子メールがパソコンの電子メールより先に普及しました。しかも「送信者情報をたどれない」という携帯電話メールの規格の欠陥がスパムの歯止めの一切を無くしてしまいました。その時に起こったのがスパムの大増殖だったのです。

 携帯電話のスパムでは送っていた業者は「出会い系サイト」「アダルト系サイト」という、世の中の商売から言えばごく一部の業者でした。しかしながら彼らが「少しでも釣れればよい」という発想のもとに送りまくった結果が「受信者によっては一日数十通にものぼることすら珍しくない迷惑メール受信」だったのです。

そのような状況にもかかわらず、多くの人を怒らせ、社会問題となり、法律整備まで進んでしまいました。

 この壮大なる馬鹿馬鹿しい実験により、日本人はパソコンでスパムメール問題を痛感する以前に「スパム被害」を体感してしまったのでした。

 そもそも、スパムはメール人口が増えるほど被害が大きくなります。なぜでしょうか?

からです。

 しかもインターネットは国を越えます。その結果、日本のみならず、世界のメール人口が増えつづける限り、スパムの被害は加速度的に増大していく可能性が大きいのです。つまり、携帯迷惑メールの問題では、
たかが日本人の3〜4割に携帯メール人口が達しただけで、スパムが社会問題となり、法整備まで出来てしまった
とみなすことが出来るわけです。日本のネットユーザの中にも、英文のスパム被害の大きさをひしひしと感じている人が増えています。

 スパムの歯止めの效かないという点は決して大袈裟な話ではないのです。

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迷惑メール撲滅私的調査会/広告メール送信者向頁/スパムの基本とその問題性/
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