春秋時代


■ 鄭 ■

祭足{祭仲}(鄭)
 春秋時代の初め、勃興期の鄭で活躍した宰相。
 周王室を助けた武公の子、荘公の寵臣。将として周の軍隊を敗るなど、鄭の力を見せつけた。荘公が弟の段を大都市に封じたことに反対したりもする。荘公がトウ国から公女を娶るときの使者となったことから、その太子、忽の助言者となる。やがて忽が即位して昭公となるが、その時に自派の太子(宋の重臣の娘が生んだ突)擁立を目論む宋によって誘拐され、突の即位を約束させられた。それにより突は祭足とともに帰国すると昭公は亡命し、突は[厂萬]公として即位した。
 やがて[厂萬]公に疎んじられ殺されそうになると、[厂萬]公が外国へ行った隙を狙い、昭公を呼び戻す。しかし高渠弥に昭公が殺され、その後擁立した子ビも斉の襄公に殺されると公子嬰を即位させた。その後に死亡。
 [厂萬]公は帰国し、祭仲の叔父を罰した。
八十二百三十八

公孫僑{子産}(鄭)
 字が子産。国を司ること40年余り、晋楚両強国の間でありながらよく鄭を守った。初めて成文法を制定するなど、法治国家としての統治を試み、各国に影響を与えた。

公子突(鄭)
 鄭の公子。母の国,宋を力を背景に即位。しかし時の実力者,祭足を殺そうとして,逆に亡命する羽目になった。
五十八

擁糾(鄭)
未詳
六十四

頴考叔(鄭(頴))
未詳
六十二

■ 魯 ■

曹沫(魯)
 胆力を以て莊公に使えた。齊との戦いで敗北を重ね、その結果、魯は土地を割譲して和睦をすることになった。和睦の席、齊の桓公を短刀で脅し、領地割譲を反古にさせた。

■ 齊 ■

連称(斉)
 斉の襄公に対して反乱し,公孫無知を擁立。

管至父(斉)
 連称とともに斉の襄公に対して反乱し,公孫無知を擁立。

管仲(斉)
 斉の桓公を覇者にするのに軍師として活躍。管鮑の交わりとして、鮑叔ととの友好が有名.
二十一

鮑叔牙(斉)
 管仲と若い頃から親しくつき合い、彼の才能をかっていた。彼は小白につき、管仲はライバルの糾についたが、結局小白即位して後の桓公となった。「天下に覇を唱えたければ、私よりも管仲を採用すべきです」と管仲を推薦し、それにより桓公は覇者となった。管仲は「我を生みしものは母、我を知るは鮑叔なり」と言っていたという。
二百八十六

隰朋{隰成子}(斉)
 管仲と同時期の政治家らしい。

晏弱(斉)
 桓子とも言う。魯の公孫帰の魯国での失敗を予測した。

晏嬰(斉) ?-前500
 弱の子。春秋時代の斉の政治家。霊公、荘公、景公に仕え、節倹力行を主義とし、謙虚な態度などで知られた。
百五十七

孫ピン[月賓](斉) Sun1Bin4 前4世紀頃
(春秋)を付けさせていただきます。
 春秋時代の兵法家で孫武の子孫とされる。ホウ涓に讒言され[月賓]刑(足を切り取られる刑)にされたことからこうよばれる。斉の威王の軍師になりホウ涓の率いる魏軍十万を大破した。
 長い間『孫子』の作者が孫武か孫ピンか不明であったが、1972年、考古学的成果によって、孫武の記した『孫子』とは別に孫ピンによる兵法書があったことが明らかになった。
四十七二百八十七

■ 晉 ■

驪姫(晋)
 晋の献公に寵愛された。息子の申生を皇太子にすべく、義理の息子達を夫に陥れた。
二百十八

重耳{晋文公}(晋) Wen2Gong1 前697-前628
{晋文公}(春秋時代)を付けさせていただきます。
 春秋時代の覇者の一人。
 父親である献公が驪姫の讒言を信じたことで殺されそうになり、国を出奔。各地を遍歴し、十七年後に晋の君主となる。即位後の外交政策の中で、恩は恩、仇は仇として各地、各人に返すと共に、晋の国策としても成功、会盟を催して諸国をまとめた。
六十一二百八

介子推(晋)
 重耳の放浪時代の忠臣。彼の苦難を助けたが、即位後重耳は彼への恩賞を忘れたために、母と共に山に引きこもってしまった。重耳は彼を見つけようとして山に火をつけたところ、焼け死んでしまった。異説もある。
七十五

趙盾{趙宣子}(晋)
 晋の大夫。襄公の時、中軍の将となり国政に携わる。襄公が死んだ際、秦にいる太子雍を迎えようとするが、太子逼が即位し靈帝となる。靈帝に殺されそうになり亡命しようとするも、国外脱出前に一族の趙穿によって靈帝が殺され復帰した。
 記録官の董狐は、趙盾が国外脱出を果たさずに復権し、趙穿も罰さなかったことから、これを「趙盾が君主を殺した」と記録した。それに対して趙盾は無念を抱きつつ諦めたという。
 また靈帝に派遣された刺客であるゲイ[金且]麑が屋敷に夜遅く忍び込んだ所、趙盾は既に起きていて登朝の準備をしていたことから、その忠臣ぶりに殺せなくなったエピソードもあり、前者のことと併せて彼の篤実さが窺える。

趙鞅{趙簡子}
 晋の大夫。趙宣子。定公の時,范氏,中行氏に攻められ,晉陽(太原)に逃走。しかしその後逆に攻め入り,范氏,中行氏を齊に追放した。
百七十五(無)

士会(晉)
 晋の大夫。秦に走り、その権謀の才を用いられた。晋はこれを憂い、帰順を説き、晋に帰ってから国政を握った。
二百七十四

羊舌キツ[月八十]{叔向}(晋)
 晋の大夫。別名を叔[月八十]字を叔向とも言う。博識で礼を説く。楚に招かれたとき、楚は彼を侮ろうとしたがその博識に太刀打ちできなかった。徳治を勧め、子産が刑法を定めたことに対して手紙を送り批判した。
二百二十三

■ 宋 ■

宋襄公
 庶兄の目夷に位を譲ろうとしたが許されず宋公の位を継いだ。齊の桓公の役割を引き継ぎ、覇者になろうとするが実力不足で失敗した。
 楚との戦いで敵が河を渡り終わるまで待っていたというエピソードは後世、蔑み意味で使われる。しかし戦争や体制の秩序が崩壊しつつ、またそれを憂える人々がいた春秋時代、そして戦争というものが忌まわしい行為であり、宗教的意識の抜けなかった春秋時代に、襄公は仁義というポリシーを持って旧秩序を維持しようとしたわけであり、その行為は現在のような「戦争は何より勝てば意味がない」という概念のもとでは単純に考えるべきでない。いや、戦争にモラルを考えることは近現代でも難しい問題であろう。
二百二十六

■ 呉,越 ■

闔閭{闔廬}(呉)
 別名、闔廬とも言う。
 諸樊の子。僚が既に即位していたのを殺し、自ら呉王となる。伍子胥孫武を起用しての楚を討ち、大いにこれを破り、内部まで侵攻した。そののち越王句践に破れ、その傷がもとで死んだ。息子の夫差と句践の話は後の話。
 蘇州西北郊外の虎丘に墓がある。

范蠡
 政治家、商人。越王句践を助け共に苦心して呉王夫差への復讐を果たさせた。が、句践がその目的を果たすと「越王は臣下と一緒に苦労を共にすることは出来るが、楽しむことは出来ない性格だ」と見なして一族共に齊に移り住んだ。鴟夷子皮と称して巨万の富を得て、齊の宰相に迎え入れられたが、まもなく齊を去って陶(山東)に移り、陶朱公と称して再び巨万の富を築いた。19年の間に3度千金を得て、5度散財したと伝えられる。

孫武(呉) Sun1Wu3 前6世紀-前5世紀
(春秋)を付けさせていただきます。
 春秋時代の兵法家。『孫子』の作者。呉王闔閭につかえ、将として呉軍を率いて楚に侵攻した。主君の寵妃を罰して軍律の厳しさを示したエピソードがある。
四十一

伍子胥{伍員}(呉) Wu3Zi3Xu1 ?-前484
「伍員」から直させていただきます。
 代々楚に仕えるが、平王に父親と兄を殺され、復讐を誓って呉へ走る.呉王闔閭を孫武とともに補佐し、呉の勢力拡大に貢献、楚を破って首都を占領するまでになった。その時、既に死んでいた平王の墓を暴き、死体に鞭打ち、見事復讐を果たす。
 しかし呉王夫差の代になると疎んじられ,やがて殺された。
 当時の首都呉,すなわち現在の蘇州は伍子胥がプランした都市とも言われ,その西方,太湖の西に墓がある。
七十百三十四百七十六二百二十五

■ 楚 ■

伍奢(楚) -前522
 楚平王の時,太子の先生役となる。内争に巻き込まれ,平王に殺された。息子が伍子胥である。

荘王(楚)-前591
 春秋時代の覇者。即位後三年間,宴会騒ぎの無為な政治を行ったが,その後精力的に政治に取り組み,覇業を成し遂げた。その三年は臣下の真贋を見分けるための期間だったとも言われる。すなわち「三年鳴かず飛ばず」の故事である。
 前606年,洛陽南の戎を退治した際,周の使者に鼎の軽重を問い,周がもはや天下を治むる資格のないことを意見した。
 その後,夏徴舒による陳の内乱に乗じて陳を一端滅ぼして属国とし,また鄭を攻め,援軍に来た晉に大勝した。
二百

■ 秦 ■

百里奚(秦)
 春秋時代の虞の人。若いとき貧しく、不遇であった。後に虞公の大夫となる。秦により虞が滅亡すると、召使いにされそうになり逃亡。楚に捕らえられる。
 穆公は密かにその賢才を話に聞き、喉から手が出るほど欲しいのを隠しつつ、「そちらに逃亡した奴隷を五穀の皮の代金で返してくれ」と言って楚から取り返した。秦に来てからは国政を預けられ、その結果秦は七年間、覇を唱えることが出来たという。人々は彼を「五穀大夫」と称した。

■ 他国 ■

夏姫
 陳の穆公の娘。陳国の大夫、御叔の妻となる。徴舒を生む。絶世の美女で御叔の死後、陳の霊公、孔寧、儀行父などが彼女に通じた。徴舒は霊公を弑虐し、孔寧らは楚に逃亡して陳を伐たせた。彼女は捕まり尹襄の妻となる。尹襄の死後、鄭への帰国を望み、巫臣をつけようとしたところ、巫臣は彼女を娶り晋へ走ったという。

夏徴舒
 夏姫の息子。霊公を殺したが、楚の反撃にあって殺された。
百三十一

羽父
五十九

陽虎
 春秋時代の魯で権力を持っていた季氏の家臣。季平子が死んだ後,季氏で専権をふるう。他の魯の権力者を排除して魯の国の国政を握ろうとするが失敗し,齊に出奔した。孔子は魯で政治を握ろうとしていたためライバル関係であったが,似たもの同士とも言える。
百五十九

■ 諸子百家 ■

孔子 Kong3zi3 前551-前479
 秩序の乱れた春秋戦国時代に、礼と仁、すなわち秩序と思いやりを唱え儒教を創設した。理想の政治をすべく弟子と共に各地を転々としたが、政治家としては不遇で、晩年は弟子の育成に専念した。彼の死後、儒教は秩序・礼式を重んじる思想として発展していったものの、春秋戦国時代・楚漢時代では所詮百家のうちの一つに過ぎなかった。
 漢王朝はその理想主義・形式主義を利用するため国教とし、その後は中国における王朝国家の思想的基盤として長く利用された。孔子自身はキリストと同様、これほど自分の思想が利用されるとは思っていなかったに違いない。
 近年、一時は封建制の権化として徹底的に嫌われたが最近になって孔子自身は教育者・人格者として再評価されているようである。
七十七

仲由{子路}
 孔子の弟子。高弟の一人であったが直情径行で知られた。孔子にその率直さを愛された。最後は衛国に使えたが内乱の中、筋を通そうとして死んだ。内乱を聞いたとき、孔子は「子路は本分を全うしようとして恐らく死すに違いない」と言い、本当になったという。塩漬の刑にされたが、その後孔子は塩漬けを食べなくなったという。
百九十四

顔回{子淵}
 孔子の弟子。高弟の一人であり,その行いを最も孔子から誉められた。陋巷(庶民の家が密集しているような地域)にあっても,その礼節を失わなかったとされる。正直なところ,どの君主にも仕えず,民のために政治に勤しんだ訳でもない彼が,孔子の一番弟子として孔子から将来を嘱望されていたのか結構不思議なところがある。
 儒教は孔子によってその宗教性から礼教性を切り離され,政治思想へと近づいたとされるが,彼の存在など結構不思議なところがある。儒教の理想は現在我々が想像するより遥かに複雑,というか異な形だったのかもしれない。
百八十六

老子{老[耳冉]}
 道教の始祖といわれる人。宮使えしていたが、それが嫌になり、『老子道徳經』を残して去っていたとされる。伝説的なものを多く含み,実在は疑われることが多い。後の莊子による思想と会わせ,老荘思想と呼ばれるが,それは孔子の儒教に対する反論として発生したと思われる面が強い。
 しかし,儒教がその宗教性と礼教性に分離し,宗教性としての威力を失っていったのに対して,道教は全く持って中国における民間行事,民間宗教,民間伝統を取り込み,中国唯一の宗教として確固たる地位を占めることになった。例え老子が実在の人物だったとしても,自分の思想がここまで中国で尊ばれるとは思っていなかったであろう。