唐

本紀
李世民{唐太宗}
廟号、時代を付けさせていただきます。
父、李淵の建国を大いに助ける。クーデターにて兄を殺して即位。各種制度を整え、突厥など周辺征服し、唐王朝の基礎を固める。「貞観の治」と呼ばれる中国史上希にみる太平をもたらしたと伝えられるが、若干歴史歪曲の疑いがある。
二百九十

李治{唐高宗}
 温厚な性格を買われて即位。
 病弱のせいもあり,積極的な武則天の専権を許す。一度は武則天を廃后しようとしたが,もはや手遅れで失敗。計画立案を部下のせいにするなどもはや頭が上がらなかった。病死。

李顕{唐中宗}
 武則天の息子。高宗の死後,即位したが武則天により廃される。しかし武則天が病気となるや位を譲られて復位。しかし第二の武則天を目指す韋皇后に毒殺された。

李旦{唐睿宗}
 中宗の弟。即位後は政治に関与せず。やがて武則天が新王朝を開き廃位された。
 中宗復位して毒殺された後,彼の息子(後の玄宗)は韋皇后らにクーデターを起こし,それによって即位した。やがて息子に位を譲って引退。

武則天{則天武后} Wu3Ze2tian1 624頃-705
表記を変えました。
 唐高宗の皇后で政治に関与。初めは太宗の女官だったが高宗と睦まじくなり、高宗即位後、「昭儀」として後宮に入る。気弱な高宗を背景に王皇后、蕭淑妃などを廃し、遂に皇后となる。高宗の死後、中宗などを廃し、周を建国して帝位につく。中国王朝史上、空前絶後の女帝である。人才を登用し政治に努めた。病に伏してから中宗に位を奪い返された。
六十三百九十三二百七十五

玄宗{李隆基 邸陛癲}(唐) Xuan2Zong1 685-762
書き方を変えました。ところで「邸陛癲」ってなんでしょう(^^;)。玄宗でいいんでしょうか。
 則天武后を受け継いで権力を握ろうとする韋后を倒し、クーデターにより即位。初期、引き締まった政治を行った。性格、容貌とも優れ、文化を愛好する風流人であった。諸制度の改革、生産の奨励などを行い唐の最盛期を迎える。晩年はその政治も弛緩し、楊貴妃を寵愛して安禄山の乱を招き、四川に脱出して退位した。
 晩年には武帝以上の老害ぶりを見せ、大唐帝国を滅亡の危機に瀕すまでにしたが、結構民衆からはその後も親しまれたらしい。彼の人柄に故を求める見方があるが、たしかに皇帝には珍しい兄弟同士の中の良さや、文化に対する明るい嗜好などは何かほっとさせるものを感じる。
 が、楊貴妃を犠牲にして、自分だけ生き延びるのは情けない。

李享{唐粛宗}
 玄宗が安史の乱にて四川に落ち延びて退位した後,節度使の郭子儀によって即位。彼の朝廷では張皇后と宦官の李輔国が争った。

李予{唐代宗}
 粛宗の死後,宦官の李輔国により擁立。安史の乱を鎮圧したが,その絳将達は節度使となって地方で権力を握り,将来に禍根を残すこととなる。租庸調制が破綻し,しだいに税制を変化させていく。
 力を持った藩鎮対策として天雄藩鎮を討伐しようとしたが失敗した。

李[之舌]{唐徳宗}
 このころ次第に唐王朝は力を盛り返していく。両税法を施行するがこれは藩鎮の身勝手な徴収を抑えることとなり、またその他藩鎮に対する統制を厳しくしていく。やがて危機感を煽られた藩鎮側の反撃が起こり、大反乱となるなる。彼は奉天へ逃亡。
 長安は取り返したものの、反抗的な藩鎮の討伐は失敗した。
 地方軍が頼れないならと、禁軍である神策軍の拡充を試みたが,今度はその慰撫に苦労する始末であった。

李純{唐憲宗}
 両税法の改革,神策軍の拡充を進め,藩鎮の勢力を削ることに成功。河北三鎮以外はほぼ順地化した。長生きしたくて強い薬を飲みすぎて、時々精神錯乱して部下を殺したりした。最後は宦官に殺された。
 この時,李宗閔,牛僧孺が天子自ら出す課題試験で時の政治に忌憚無き意見を述べたため,宰相李吉甫から遠ざけられたとされる。

李恒{唐穆宗}
 彼の元で朋党,すなわち党派争いが激しくなる。しかし大概に置いて彼の時代は牛僧孺を代表とする平和主義の主張が採られ,また藩鎮も落ち着いていた。をすなわち牛僧孺,李徳裕を代表とする牛李の争いが起こる。
 銭徽の元,試験により李宗閔らが合格したが朋党の勢力によるものとして非難された。李徳裕は進子試験において実学を重んじた採用を主張。

 

李湛{唐敬宗}
 宦官に殺された。

李昴{唐文宗}
 文学に対して独特の見解を持ち,正しいことを好んだとされる。最初,牛僧孺が政権を握り,対外消極政策を貫いていたが,吐藩の扱いに失敗し,失脚。李徳裕が登場する。
 憲宗が宦官に殺されたことを憎み,宦官を排除しようとするが失敗。すなわち甘露の変が起こり,長安では儒者が殺されまくり,無警察状態に陥った。宦官の専横,朋党の禍を嘆くが如何とも為す術がなかった。

李炎{唐武宗}
 文宗の死後,宦官により擁立。牛僧孺らは敬宗の意志に沿った皇位継続を望んだ為,武宗即位後は失脚し,李徳裕が政権を握る。彼のもと力強い政治を推進。武宗は道教信者であったらしいが,それと李徳裕の政治上での李利害が一致し,会昌の廃仏棄毀を行った。

李沈{唐宣宗}
 宣宗即位後は牛李の党争終わる。宣宗は中立派を採用し,また同時に親戚の専横を憎み,徹底的に親族の行動を慎めた。その雰囲気は官僚界全体に及び,戦々兢々としていたという。
 李徳裕によって進められた寒門出身の採用は尻窄みになり,進子の試験は長安貴族の内,文学に長けた者が及第するようになる。仏教政策に関しては武宗に取り入っていた道士を殺し,仏教を復興。しかし後のその弊害に後悔し,再び廃仏を行った。

李[小崔]{唐懿宗}
 暗愚で何一つ取り柄がなかったとされる。

李カン{唐僖宗}
 黄巣の大乱勃発。四川へ落ち延びる。在位終了間際,長安に戻る。が唐は地方政権に没落。

李曄{唐昭宗}
 楊行密が呉王となる。

李祝{唐哀宗}
 朱全忠による傀儡政権となる。やがて彼に譲位。

列伝
李建成
 唐の高祖李淵の長子。皇太子に立てられたが、次第に名声を高めていく李世民に危惧し、弟の李元吉とともに彼を殺そうとしたが、機先を制せられて玄武門で殺された。悪く書かれているが当時の史料を整備を命じたのが太宗のため事実以上に悪く書かれている疑いもある。
三百三

阿史那賀魯{イシュバルカガン}
 阿史那氏は突厥の王族である。東突厥が唐太祖に征服された頃,西突厥でも混乱し,東よりの吐陸と西よりの弩失畢の両部に分裂した。賀魯は最初,吐陸に服していたが,やがてそれを敗走せしめ,唐に内属し瑶池都督の授けられた。永徽年間(651)年に反乱を起こし,吐陸可汗の地によりて沙鉢羅可汗{イシュバラカガン}を称し,西突厥の十姓部落を統べた。唐の蘇定方と戦いに敗れ,長安まで連行された。死は免じられ,その地で没した。

麹文泰
 高昌国の王。武徳年間に位を継ぎ、貞観年間には朝貢した。しかし後には唐に従わず、西域の諸侯が朝貢するのを防いだ。西突厥と焉耆を伐ったが、これが唐に伝わり、唐は軍隊を派遣、文泰は恐れおののき病死した。
二百五十六

玄奘{三蔵法師} 602-664
 高僧。陳氏の氏。一説には陳留の人とも言う。経典を広く読み漁ったが原典を得るためにインドへ行く。持ち帰る経典は650部余り。弟子と共に75部、1338巻を訳した。太宗に尊ばれた。その旅行記は当時の西域、インドを知る上で欠かせない。
二百五十五

鑑真 688-763
 本姓を淳于。十四歳で出家し,律宗を研究。日本の僧に請われ,訪日を決意。何度も失敗し,最後は失明しながら最後には日本の九州に到着した。奈良につくと,彼を迎え入れるため唐招提寺などが建立された。奈良時代に日中の交流の架け橋として活躍した代表的人物である。

狄仁傑 630-700
 武則天時代の宰相。武則天に反対する臣が次々と葬られていく中、直諫を憚らず、中宗の復位に努力。武則天からも信頼され、最後は彼の意見を入れて、則天武公の実家である武家ではなく、皇帝家の李家から皇太子を決めるまでになった。
 一時左遷されたが、河北地区が契丹の侵入を受けると、武則天に魏州刺史に任ぜられてその治安維持に功を為し、復権を果たした。
百四十

上官宛児
 則天武后の廃后を高宗と練り、結局責任を擦り付けられて殺された上官儀の娘。武則天の死後、則天武后の死後、韋后に対して彼女を見習うよう薦めた。文、詩に長じた才女であり、中宗や韋后などは彼女に雅宴で読む詩の代作を頼んだという。中宗の後宮にいたが武三思と通じ、また韋后を助け、その結果、韋后と武三思は思うがままの権力を握った。皇太子李重俊の反乱の際にも機転を効かして切り抜けた。中宗が韋后に殺されると、太平公主と手を結ぼうとするが、結局最後は李隆基(後の玄宗皇帝)のクーデターにより敗死し た。

太平公主
 高宗と武則天の娘。武則天の死後、韋皇・安楽後主と張り合った。中宗を殺した彼女らが李隆基のクーデターに倒れると勢力を強める。結局、李隆基に自尽を命じられて女性の時代は終わった。
二百七十九

楊貴妃(唐) Yang2Gui4fei1 719-756
 名は玉環。玄宗の寵妃。その一族は高位に上り、安禄山の乱を招く。乱後、玄宗と共に四川に落ち延びる途中、官兵達の怒りが爆発し玄宗はやむなく彼女を殺すこととなった。
七十三

史朝義    ?〜763
 玄宗皇帝への反乱、安史の乱の首謀者、史思明の庶子。父と反目して父を殺し、兵権を握った。

安延堰
 玄宗皇帝への反乱、安史の乱の首謀者である安禄山はもともと姓を康と言った。母が安延堰に嫁いだため安氏に改姓した。

安慶緒   ?-759
 安禄山の子。父と不和になり、父を殺して兵を統べた。史思明に敗れ殺された。

顔真卿
 唐代の名臣,書家。顔之推,顔師古など,学者の家系として長安で生まれた。王羲之,チョ[ネ者]遂良などに続く書家の大家として楷書の確立などに名を残した。
 しかしそれと同時に,玄宗末期の忠臣,名臣として活躍した。すなわち安史の乱が起こるや,顔氏の地盤である東北地方を中心に義勇軍を集め,レジスタンス活動を行った。やがて義勇軍の力及ばず,長安が陥落すると睿宗のもとに馳せ参じた。
 しかしやがて朝廷内で疎まれ,反臣の節度使の元へ特使として派遣されて時に捕殺された。
二百六

張巡 709-757
 唐代の武将。安祿山の乱の際、忠臣として華中の維持に尽力した。

王維(唐) Wang12Wei2 701-761
(唐)をつけます.
 盛唐の詩人.安禄山の乱で捕らえられその配下に入ったため乱後、唐王朝の問責を受けるも、乱中の詩により死を免れる.熱心な仏教徒であった。
三十一

李白(唐) Li3Bai2 701-762
玄宗に仕える。各地を遍歴し、不遇のうちにも酒と女を愛して飄逸豪放に生きた。詩仙と呼ばれ詩聖の杜甫と並び賞される。
二百十九二百六十八

杜甫{子美}(唐) Du4Fu3 712-770
{子美}(唐)に直します。
 若い頃放浪し、李白などと交友。安禄山の乱後、仕官するが左遷。四川などを転々としし湘江で病没した。詩聖と崇められ、中国の代表的詩人とされる。
三十七

白居易{白楽天} Bai2Ju1yi4 772-846
 詩人。平易明快な詩で広く民衆に愛された。官僚間の勢力争いが嫌で隠棲したが,杭州の西湖には彼が築いた白堤がある。

王翰(唐)
 詩人。若いときから豪健で才を恃んだ。喜楽の恣にした。
四十二

王玄策(唐)
(唐)を付け加えさせて頂きます。
 唐時代にインドへ使いに行き、そこで縦横無人に駆け巡った武将。
 元は黄水県(広西壮族自治区羅城県)の県令。マガダ国の使者をインドまで見送る。のちに再びインドへ使いに行く。現地の反乱兵に襲撃されるも、吐藩とネパールの兵を動員して打ち破り、反乱の首領を長安まで連行した。その後も三度出使。陳先生と田中芳樹氏の対談本に詳しい。

郭子儀(唐) Guo1Zu3yi2 697-781
 唐の武将。安禄山の乱の平定に活躍し兵部尚書に任ぜられた。後、吐藩の進入を退け徳宗に尚父と尊ばれた。

陸羽
 「茶経」の著者として有名で,茶聖とまで仰がれた。もっとも晩年には茶を嫌ったという噂も。
百八十三

李賀
 詩人。七歳で素晴らしい文章を作った。27歳で没した。

花木蘭
 匈奴に一家を攻められ、その侵略に抵抗するため、男装して立ち向かった。もとの姓を魏という。
百十一百八十二

李光弼(唐)
(唐)を付け加えさせて頂きます。
 契丹族。節度師に任ぜられ、安禄山の乱の時には郭子儀とともに河北を攻め、十余州を回復。乱軍史思明を破る。副元帥となり、安慶緒を攻めるが、史思明に破られ、河陽にて防備。宦官の牽制を受け、洛陽にて撃敗。