三国時代


■ 東漢末 ■

董卓(後漢末)
TOUTAKU  三国志における最大の悪役.少帝を廃して献帝を擁立し権力を握る.後漢が中国では「東漢」と呼ばれる理由である都洛陽を廃し、長安へ遷都.部下に殺される.
十二
呂布{奉先}(後漢末)
書き方を変えました。
 後漢末の群雄の一人。使えていた董卓を殺して独立する。その武勇を恐れられたが、最後は曹操に殺された。

劉虞{伯安} -193
 字を伯安。東海恭王(光武帝の子)の子孫。
 既に彼のころには家は落ちぶれていたが,品行方正な点が注目され出世を続ける。名前だけであるが太尉にもなったりした。その後幽州牧として北方の異民族対策に関与。また袁紹などに皇帝に担ぎ上げられそうになったが固持したエピソードがある。
 当時朝廷は混乱し,異民族からの貢ぎ物や訪問を受ける余裕がなかったが,劉虞は彼らの取り次ぎをしてやり,また丁重に対応した。異民族は彼が来ると安心したという。一方,公孫[王賛]は異民族は力で抑えつけるべきものとして,彼らの貢ぎ物を強奪したりしていたため,ハト派劉虞とタカ派公孫[王賛]の争いは次第に激しくなっていく。
 劉虞は公孫[王賛]討伐を考えるが部下に諫言され中断。一年後その部下が死ぬと討伐に乗り出す。戦いにおいて彼の軍は民家に被害が及ばないよう,慎重に行動しようとしたのに対し,公孫[王賛]は関係なく,縦横無尽に行動し,また劉虞軍の戦不慣れも手伝って敗北し捕まる。殺された。
 死後,劉虞の徳を慕う人物が名乗り出て公孫[王賛]に罵声を浴びせ殺されたりしている。鮮于輔ら元部下達は息子の劉和を擁立し,袁紹軍の援助を取り付け,公孫[王賛]を討ち,見事に復讐を果たした。
 鮮于輔はその後,曹操に仕えて文帝の時代まで活躍した。名前からすると異民族出身のように思えるが,異民族を愛した劉虞らしい事後談である。なお息子のその後は分からない。父親が生きていたとき,他国に使いに出て,言いくるめられて戻ってこなかったくらいだから凡庸だったのであろう。
 思うに。史書を見るに彼の雰囲気には後の『三國志演義』で描かれる劉備の雰囲気がある。元々は高貴な出だが家が没落したこと,その馬鹿真面目な真っ直ぐさだけで評価され,中央政界で注目されるようになったこと,民には慕われていたこと,などなど。しかし劉備が小説では人を得て,一応地方政権の王となったのに,彼は人を得ず,その真っ直ぐさで命を落とすことになった。
 皇帝の位を固持したエピソードからも分かるように権力を狙う野望はなかったようだが,自分のすべきことをやろうという気概はあったし,決して理想がないわけではなかったはずだ。つくづく人を得なかったことが惜しまれる。

■ 曹魏陣営 ■

鐘ヨウ{元常}(魏)
字を付けます.
後漢末の混乱時、群雄に利用された献帝を長安から脱出させるのに尽力した。後に曹操に仕え官渡の戦いで補給などに活躍。魏建国後は重臣として仕えた。書家としても有名。
二十七

曹操{孟徳}(魏) Cao2Cao1 155-220
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 三国の一つである魏国の実質的な建国者。董卓の死後、群雄割拠の中で後漢の献帝を擁するとともに、各地の対抗者を破り河北を統一するも、孫権、劉備らの南方勢力に勝てずに、天下統一をし損なう。文学的才能にも優れ、息子らと共に文学史上に名を残す。後の「語り話」である演義では悪役にされた(らしい)。
二百六十三

曹植(魏) 192-232
 十余歳にして『詩經』『論語』から辞・賦まで数十万言を暗唱し、詩文を作るのに巧みであった。取り巻きである一流の文人がサロンを形成したが、兄の曹丕が帝位につくと疎んじられ、度々国替えをさせられ、不遇な余生を送った。
百二

曹髦{魏四代皇帝}
漢字を使わせていただきました。
善政をして、配下で圧倒的に力を付け始めた司馬氏の専横に対抗しようとするも殺される。

苟イク(魏)
 曹操の腹心で覇業第一等の功臣。西漢の高祖劉邦における張良に相当し、実際曹操も彼のことを「我が子房(張良の字)なり」と言っていた。魏陣営の中核となる各人物も推挙し、彼の勲功はあまりあるといえよう。しかし曹操が魏公となってからは彼のとの折り合いがうまくいかなかったらしく、その死も曹操に自殺させられたという説が有効である。
 彼は清流派の流れを組む良き家柄の人物であり、そういう点では諸葛亮と同じく、あくまで漢の臣という自負を持っており、そのせいで漢に変わろうとした曹操との軋轢が最後にして噴出した、または覇業を助ける時点では自覚しつつも取りあえず、折り合いをつかせ、安定した時点でけじめをつけたという見方もある。いづれにしても、韓の臣下でありながら、その系統がほとんど没落したために、思う存分、名と命を賭けられた張良に比べて、滅ぶべきながらもずるずると存続してしまった漢の臣であった苟イクは、不幸であったといえよう。

夏侯惇(魏)
 曹操配下の武将。呂布との戦いで左目を傷つけ「盲夏侯」と呼ばれた。曹丕が魏王を継ぐと大将軍に任ぜられたが数ヶ月後に死んだ。清廉質素で部下を労った。
百七十七

徐晃(魏) ?-227
 楊奉に従い、黄巾討伐に功があり、後に曹操に使えた。官渡の戦いでは兵糧部隊の急襲、赤壁後の江陵防備、樊城が関羽に包囲された際の救援部隊など、各戦いで勲功を活躍した。正確は慎ましく慎重で手堅かった。戦勝記念で皆が騒いでいる時、彼の軍のみが整然としていたという。曹操から「(前漢の)周亜夫の風あり」と言われた。

干禁{文則}(魏) ?-221
時代区分を変えました。
 鮑信のもとで黄巾討伐にあたっていたが曹操の配下となる。対関羽戦で降伏。孫権が関羽を破った際に呉に留まったが,やがて魏の文帝の時代に魏に帰国。文帝からその経歴を辱められて憤死した。

張属(魏)
 大将軍司馬師に反逆して敗走したカン丘倹を射殺して首を長安に送り列侯に取り立てられた。
百二十五

禰衡
 曹操に使えたが,その毒舌を嫌われた奇人。
百五十六)

左慈
 方士。魏の宮廷で不思議な技を見せつけて去った。

司馬懿{仲達}(魏)
 魏の臣。内政、対蜀戦で活躍。また魏の内部において確固たる地位を築き、孫の司馬炎が簒奪する基礎となった。
八十九

何晏
 三国魏の清談家。曹爽が権力を握るに伴い,その腹心となり,司馬懿を排斥した。しかしその後の司馬懿のクーデタで殺された。彼が王弼と交わした清談が有名。

司馬昭{子上}(魏)
 司馬懿の次男。兄の司馬師が死亡すると後を継いで大将軍となった。曹髦が彼を殺そうとすると、反撃して弑し、曹奐を擁立。蜀を滅亡させるなど功を上げ、やがて晉王に任じられるが帝位に登る直前に死んだ。
百四十六

■ 蜀漢陣営 ■

劉備{玄徳}{季漢昭烈帝}(蜀漢) Liu2Bei4 161-223
 三国の蜀漢の建国者.光武帝が後漢を起こしたと同様に、後漢末、三度目の漢帝国を目指した。
 「高祖の風あり」と記されていることから、歴史上は任侠集団の親玉に近いものだったのであろう。しかるに「漢を継ぐ正統後継者」を標榜していた為、後に儒教国家で君子に祭り上げられたようだ。諸葛亮のとの関係で名を上げたというのもまた事実であろう。

関羽{雲長}(蜀漢)
 蜀漢の功臣。曹操に捕虜となったが節を曲げず劉備の元へ去る。信義の人として後には神に祭り上げられた。
百六十一百六十三

関策(蜀漢)
 正史には登場しない関羽の三男。生後、関羽と離ればなれになり、後に感動の再会を果たしたとされ、『花関策伝』などによって広められたらしい。悲劇の英雄である関羽の話に、後世、尾鰭がついた最たる典型である。
百四十四

張飛{翼徳}(蜀漢)
 蜀漢の功臣。劉備逃亡戦である長坂橋の戦いなどで奮戦、その武勇を恐れられた。入蜀の際にも活躍した。部下に冷たく、最後は部下に殺された。

馬超(蜀漢)
 馬援の子孫である(本当?)馬騰の子。反曹操の兵を挙げたが盟友の韓遂との中を離間され、それがもとで曹操に大敗。張魯の元に身を寄せたが後に劉備に帰属した。

黄忠(蜀漢)
 老将として有名。

趙雲{子龍、順平候}(蜀漢)
記帳頁に人物名だけでしたので、投票頁の方に移させて頂きました。書き方も替えました。重複していたのをまとめました。
 劉備のもとで活躍した武将.義兄弟の代名詞である「劉備、関羽、張飛」トリオには入らなかったが、武勇知性共に優れる活躍で蜀漢の重鎮となった.

王平{子均}(蜀漢)
 蜀の武将。馬謖の敗戦の際、副将として敗軍をよくまとめた。後も活躍。
文盲であったが、『史記』『漢書』に精通していたという。

劉禅{蜀漢後主}(蜀漢)
 蜀漢後継者、後主、劉備の子。ほとんどカリスマ的性格でのみ成り上がった父親の業績を受け継ぐにはあまりに荷が重かったか。孔明の生きていたうちは比較的、大人しく無害な殿であったものの、彼が死んでからは分裂国家の一国でありながら宦官の弊害を招く。最後は魏に捕らえられ、平穏な余生を約束される。
 「一国の君主だった時に比べても、この都は楽しいので別に恋しくない」という珍言を残し、心の底から思っていたのか、生きるための方便だったのかともかくとして、歴史上に「凡庸君主」としての名を残した。彼の幼名である「阿斗」は中国で無能な人の代名詞となっているらしい。

諸葛亮{孔明}(蜀漢) Zhu1ge3Liang4 181-234
「諸葛亮孔明(三国)」から替えさせて頂きました。
 忠臣の代名詞。前述の劉備の配下にて蜀漢経営に多大なる貢献を果たす。主君の死に際に国の運命を託されたのに、凡庸な元主君の主人を奉じて、裏切ろうとする素振りをさえも見せなかったことが彼の後世の人気を決定的なものとした。
 日本では一番人気の中国史人物らしい。
十八

魏延(蜀漢)
 蜀の武将。各種の戦功があり,並外れた勇猛さを誇ったが,驕慢な振る舞い多く,諸葛亮の死後,殺された。

馬謖(蜀漢) 190-228
 蜀の武将。要職を歴任したが,魏との戦いで諸葛亮の命令を違反して敗北。処刑された。「泣いて馬謖を斬る」の故事で有名。

姜維{伯約}(蜀漢)
 蜀の武将。諸葛孔明の死後、主に軍事面において蜀を支えた。魏に一旦降伏したが、後に反逆し敗死した。
八十八百十

金環三結
 諸葛亮の南蛮征伐の際に出てくる武将。正史には登場しない。

■ 孫呉陣営 ■

孫堅{文臺}
 後漢末の一軍閥首領。剛毅であり、勇気があった。朱儁に従い、黄巾賊の討伐に活躍し、向かうところ敵なしの状況であった。各種の戦功を挙げ、烏程侯に任ぜられた。董卓討伐では袁術の配下に入った。董卓が長安を去った後、入場して漢の陵墓を修復している。後に袁術の命令で劉表を攻め、戦死した。
二百四十二

孫策 175-200
 孫堅の子で孫權の兄。周瑜と親交を結び、袁術の旗下に入るが屡々約束を反故にされ、後に独立。江東一体に勢力を広げるが暗殺された。
百一

周瑜(呉) Zhou1Yu2 175-210
 三国のうち呉の勢力の武将。曹操の当然の南下戦争を防ぎ、分裂国家体制を守る。風采も立派で、音楽にも精通しており、演義のイメージに大きく間違いは無いらしい。孔明に誑かされるような人物ではなくて、戦術、戦略ともに優れた指揮官だったのであろう(みたいに書いてある^^;)。 比較的若死にした。
八十五二百八十二

魯粛(呉) Lu3Su4 172-217
書き方を変えました。
 三国のうち呉の勢力の武将。剣術騎射に巧みであり裕福だったが施しを好んだ。周瑜と親しく、赤壁では彼を補佐した。周瑜の死後は重鎮となって呉を支えた。
五十六

陸遜(孫呉)
 周瑜、魯粛なき後の呉軍を支えた。劉備の關羽復讐戦から呉を守った。最後は孫権に意見が聞き入れられず憤死した。

陸抗(呉)
「陸坑」は「陸抗」だと見なさせていただきます。
 陸遜の子。対魏最前線の武将。羊[示古]の攻撃を撃退しても奢ることなく、将兵に人気があった。嘗て羊[示古]に酒を送ったことがあったが、羊[示古]はこれを疑うことなく飲み、後に陸坑は病気になったとき羊[示古]から送られた薬を同様にして飲んだ。最後は病死。

徐盛(呉)
 黄射の侵攻を少数で守り,頭角を現す。夷陵の戦い,曹休撃退などに功があった。そしてその器量は曹丕による呉討伐において発揮される。建業から江乗に至る数千里に偽の城壁を作り,長江上には船を浮かべた。曹丕はその鉄壁なのに舌を巻き,退散。

厳白虎
 呉で暴れ回っていた群盗の頭目で一万人余りを率いていた。孫策に和睦を請うたが断られ、一味は離散、許昌の元に身を寄せた。

董奉
 医者。病気を治しても治療費を取らなかったという。300年生きたが、30歳くらいにしか見えなかったという。
二百九十八