- 趙匡胤{宋太祖}(宋) Zhao4Kuang1Yin4 927-976
- 五代十国後の統一王朝である宋を建国。一般的には皇帝独裁を進めたとされる。中国の巷では、酔っぱらっている間に皇帝にされちゃう話とか、酒を飲みながら泣きついて配下の有力者達の兵権を奪うことに成功した話が有名。
→一・二百三十二
- 徽宗{趙佶}
- 北宋の皇帝。芸術的な才に恵まれていたが、政治を省みず、家臣の専横を招く。芸術品の収集に燃え、為に民が災を蒙ることもあった。金軍の攻撃を受けると欽宗に譲位したがやがて開封は陥落し、捕虜となって北に連行された。そのまま死亡。
彼の手による作品がしばしば残っており、またその書は痩金体と呼ばれ後に残った。
→百五十三
- 寇準 961-1023
- 北周前期の政治家。幼いときから英邁で19歳で進士に合格。性剛直で知られ、人としばしば争ったが太宗の信任が厚かった。三代皇帝真宗の御代、遼兵が北京に迫った際、皇帝も含めて平和ぼけしていた朝廷は極めて動揺し、南遷の意見が強く出たが、彼は断固として皇帝親征を提案し、その意見が採用。出陣後も遼軍を見て恐れる皇帝を叱咤激励し、遼軍と対峙。皇帝の出陣に前線の兵士の士気はいやが上にも高まり、それに驚いた遼との間でセン[水亶]淵の盟を結ぶことが出来た。この盟約はその後永らく保たれ、両国の平和的発展をもたらすことになる。
もしこの時に南遷していたら、宋は三国後の晉のように早くから南朝政権になっていたとも言われ、このことを考えると彼の功績は偉大であり、一人の人物により歴史が変わってしまうことの典型だと思われる。
北宋は南北の出身争いが激しかったが、彼も南人の気質を憎んでいた一人である。彼が宰相だったとき、南人が科挙のトップになるのに強く反対して北人をトップにさせ、それを大人気なく喜んだことなどもあるらしい。平時の宰相として優秀な人物だったかは分からないが、こういう性格でこそ、戦時に周りの反対を押し切って皇帝親征をさせることが出来たのであろう。剛直な性格であったと言え、彼などはまさしく「反骨人物」の典型とも言えるのではなかろうか。
→百八十
- 楊業{楊継業} ?-986
- 北宋の太原の人。本名は重貴と言ったが北漢の劉祟に仕え、姓は劉、名は継業を賜る。騎射に優れ、向かう所敵無しと言われた。北漢が宋に滅ぼされた後、趙匡義により姓を楊に戻し、名を業とすることを命じられ、右領軍大将軍の官位を与えられる。
対契丹防衛に活躍、度々破り、敵は彼の旗を見ると皆これを避けたという。後に孤立無縁の戦いを強いられて捕虜となる。食を絶つこと三日にして死んだ。僅かにしか書物からの知識は無かったが、戦術に優れ、慈しみを持って人に接したため、皆喜んで仕えたらしい。捕縛の時、まだ百余人の配下がいたが皆戦死して敵に降る者は無かったという。
彼から始まる楊家六代にわたる契丹との戦いを描いたのが楊家将演義であり、中国のベストセラー小説となっている。
→九十
- 楊延輝{楊延慶}
- 楊三郎と言われる楊継業の三男で「楊家将演義」に出てくるらしい。以下,宣和堂様のメールから引用。
「はっきり言って、楊太郎、楊二郎、楊三郎は楊継業や楊七朗とともに物語の序盤に幽州で揃って潘仁美(潘美をモデルにした人物、悪党)に陥れられて殺されるので、出番はあんまりありません。
それまでの楊家将第一盛期の主人公は楊継業と楊七朗だと言っても過言ではないので、ココまでの男兄弟みな、“七朗の兄貴達”と言うぐらいの人々なので、印象は薄いです。」
- 王安石(北宋) Wang2An1shi2 1021-1086
- 若干書き方を変えました。
宋の政治家。神宗の抜擢で宰相となり、新法と呼ばれる各種改革案を実行した。改革の履行には慎重を期して財政や治安において成果は現れたが、保守派の猛烈な反対運動で辞任、政策は逆戻りした。これ以後、新法派と旧法派の争いは亡国まで激しく続くことになる。
唐宋八大家の一人としても数えられる。
→二百七十六
- 李常傑
- 未詳。
→二百六十
- 司馬光(北宋) Si1ma3Guang1 1019-1186
- 北宋の政治家。旧法党の代表。王安石の新法に反対し中央政界から遠ざかるが保守派に力を持っていた。哲宗即位後、宰相となり悉く新法を廃した。編年体の史書『資治通鑑』を編纂したことでも知られる。
→七十四
- 范仲淹 989-1052
- 北宋の政治家。仁宗の時、朝廷に仕え、党派の争いのより左遷。西夏の防衛にあって大功を立て、中央に戻る。政治改革に着手したが一年あまりで挫折。「先苦後楽」など宋代の士風を作り上げた名臣と仰がれた。
→九十二
- 蘇軾{蘇東坡}(宋) Su1Shi4 1036-1101
- 北宋の文章家。父洵、弟轍と併せて三蘇とも呼ばれる。新法党と旧法党の渦中で二度流罪となった。
→七十二
- 穆桂英
- 中国史における女将軍の代表であるが、正史に名はない。楊家将演義にも登場する。異民族国家との戦いを続けた人物として知られる。
→百二十一
- 張邦昌
- 北宋末の大臣。靖康年間に進士出身で徽宗、欽宗に仕え、尚書右丞、中書侍郎等を歴任し、太宰(宰相のトップか?)にまでなった。当時金軍が侵攻は切迫した状態となり、彼は和議派であった。そのため金軍の第一回開封攻撃に際して和義のための人質として康王趙構(後の南宋の高宗)と共に金軍に送られる。和議の成立後、釈放されたが金軍の第二回攻撃によって開封は陥落した。
さてその際、金軍は北宋領土を治めるためには間接統治の方が良いと考え、お手盛りの傀儡政権「大楚」を建国したが、彼はその皇帝に祭り上げられた。自ら望んだという話もあるが、実際はあくまで金に強要されたのであり、金軍が開封を去ってしまうと、退位して廃后の元祐皇后に政権を譲り、自らは既に独立していた高宗の元を訪れて死を請うた。一旦は許されたが、宰相李綱の弾劾に遭い、結局自殺させられた。皇帝の期間は三十日余りだった。
→二百四十一
- 李師師
- (徽宗皇帝の愛人)を除きました。
徽宗皇帝はお忍びを好んだが、お気に入りだった妓女が彼女であった。金が占領した際、毒を飲んで死んだ。水滸伝などで有名。