隋,隋末争覇

楊広{煬帝}(隋)
「(煬帝)(隋)」から替えました。
皇子時代、皇后に取り入り、皇太子の位を勝ち取る。皇帝になってのちは武帝のような積極的な政策を押し進めるも無理がたたり、あっというまに帝国は崩壊した。「ヨウダイ」という特別な読みのおくり名をつけたのは、もはや二度とこのような暴君が現れないようにと願いを込め手だとか...そこまで悪く書かれたのは儒教の倫理観が広まった後漢後において唐が最初の統一国家となり、その政策だったためか。

張須陀 565-616
 隋の武将。隋末の反乱を次々に打ち破るが最後は李密により敗戦した。

沈光(隋)
 呉興の人。書物を読み、少し詩文を作ることが出来た。功名を立てるのを望んでいて、男だての者たちと交わりを結び、不良少年達を仲間とした。遼を伐つ際に功績があり、折衝郎将となった。煬帝の末、隋が傾くと、密かに義勇兵を集めて帝のために復讐しようとしたが、事が漏れて殺された。麾下の数百人は皆戦って死に一人も降伏しなかったという。
二十九

李密(隋・唐)
 隋末の群雄の一人。初め煬帝に仕えたが下野して読書生活に入った。隋の実力者、楊素の子であり、反乱を起こした楊玄感の参謀となったが、意見が聞き入られずに、楊玄感は敗退。その後、李密は逃亡生活を続けたが、テキ譲の参加に身を投じた。テキ譲は自分の能力の限界を悟り、彼に反乱軍の主導権を譲る。
 李密は隋の穀倉である洛口倉を攻め、飢えていた民衆に食を与え、数十万の兵を率いるようになった。しかしテキ譲と内訌を起こし、やがて李淵の配下に下る。そこで反乱を起こそうとして殺された。当時「李姓の者に天下を取られる」という風評が回ったが、彼は自分だと考えていた。
十九

尉遅敬徳
 隋末に唐に参加。竇建徳、王世充などの討伐に多いに活躍した。単身で突入しても敵は彼に傷を負わすことが出来なかったという。天下平定後、その忠誠を太宗に疑われたことがあるが身体中の傷を見せると太宗も涙を見せたという。太宗の娘を妻に娶わせようとすると、糟糠の妻がいるために断った。

秦叔宝
 最初、張須陀に従い李密らと戦い、後は李密傘下、王世充配下、最後李世民の配下になった。側近として愛された。
百二十七

薛仁貴 614-686
 唐の太宗に仕え,高宗の時も活躍。老齢になっても突厥討伐などで働いた。

徐世勣{李勣}(隋・唐)
書き方を変えました。
 煬帝の圧政に反抗して謀反軍を組織。唐に降った後は群雄の討伐に尽力し、太宗の即位後は異民族対策に活躍した。高宗即位後も重鎮として仕えたが,武則天(則天武后)の皇后擁立の際には口出しを避けた。阻まなかったということで非難されるむきもある。
六十九二百九十九

魏徴(隋・唐) Wei4Zheng1 580-643
 唐初の政治家。李密軍に加わるも後に唐に帰順。李世民に仕えて諫臣として活躍。その言論は「貞観政要」に見られる。正史の編纂にも関与、その評価も高い。
十七

李靖
カッコを替えました。
唐初の武将。高祖、太宗に仕えて武功をたて、衛国候に封じられる。用兵家として活躍した。
八十三九十五

竇建徳
 農民出身。唐と互角に争い、声望も極めて高かったが李世民に破れ、殺された。
 若い頃から任侠肌で郷里の人々に慕われていた。隋末の反乱で次第に頭角を現していく。官に一族を殺され、身を寄せたのは高士達という人物だった。高士達は自分の智力策略が竇建徳に及ばないのを悟り、彼を総司令官とする。それが竇建徳の軍隊を持った最初である。しかしその後、高士達は竇建徳の忠告を聞かずに敵を見くびり、敗北してしまう。その敗残兵を集めて、次第に力を付けていった。
 そのやり方は隋朝の役人や山東の士人を捕まえても優遇を加えて許して配下としたり、一年近く籠城を続けて彼に抵抗した隋の忠臣を義士として評価するというような度量の広いものであり、それに多くの者が集まった。やがて夏国を建国した。
 宇文化及は江南で煬帝を弑逆、人々を連れて北上し、魏県で皇帝の位についた。竇建徳はその罪を問うことを大義名分として彼を攻め滅ぼす。そこには煬帝の蕭皇后もいたが、彼女に対して竇建徳は臣と称し、礼儀を怠らなかった。他の数千人の宮女達はどれも容貌優れた者達であったが、随時解放してやった。また同時に隋の文武の官僚と近衛兵も解放してやり、しかもライバルとなる唐側や王世充へ行くことを望む者は衣料を支給して見送った。
 突厥と結びさらに力を付けていく。唐の徐世勣、李淵の妹なども捕虜にしてしまうほどの勢いであった。徐世勣は父親を残して唐に逃げ帰るが、竇建徳は徐世勣の唐への忠義を評価、彼の父親と李淵の妹を厚く保護した。やがて唐と和睦を結ぶと彼らを帰してやった。
 しかし後には配下の讒言を信じ、また一部の敗戦により人心に動揺が現れたらしい。その後、唐との決戦で李世民に捕虜となり、殺されてしまった。
 竇建徳は敵をうち破るたびに、財貨は褒賞として分け与え、自分自身は何も取らなかった。また普段の食事は肉類を取らず、玄米と野菜だけであったという。彼の妻の曹氏も贅沢な服は身につけず、召使いの女達も十数人に過ぎなかった。
 高崎思うに。中国史の中で乱世の群雄達は数多い。しかし歴史上で極めて優れた人格として記録に残される人は少ない。それは歴史を残すのが彼らに勝った者であるからだと思うかもしれない。しかし勝利者でさえ、必ずしも優れた人格とは限らず、粉飾がありありと見えていたり、粉飾しようがなかったりするのである。それがまた中国史の正直な一面で面白いところだ。
 そんな中で彼は数少ない高潔な人物の一人である。彼の行いを見てみると何故これで天下を取れなかったのか不思議に思うくらいである。確かに後半になると彼が讒言を信じたりしてしまうこともあったようだが、それ以前の積み重ねに比べれば、彼の敗北をそのような彼自身の変化に帰するのは唐突である気がする。おそらく戦術において李世民に勝てなかっただけだというのが真相なのでは無かろうか。乱世における勝者は決して普段の行いや人徳では決まらない所があるのだろう。
 しかも彼が捕虜を遇することの寛大なること上の如くである。けれども李世民は彼を捕らえるや市場で斬首してしまう。その死の前の言葉すら残っていない。竇建徳の度量に比べて、李世民のなんと無慈悲な処置の仕方であろうか。
 勿論、唐と夏はもはや不倶戴天の間となっており、李世民が竇建徳を釈放するのは状況的に難しかったであろう。だがこのあっさりとした処置は実際、竇建徳の劉黒闥の叛乱を引き起こすことになってしまう。すなわち竇建徳の旧将、范願らは「夏王(竇建徳)は李神通を捕虜にした際に生命を助けてやったのに、この度、唐朝が夏王を捕らえると直ぐに殺害してしまった。我生き残った者が兵を挙げて仇討ちをしなければ全くもって天下の士に合わせる顔がないぞ」といって劉黒闥を擁して立ち上がる。竇建徳の将兵だったものが次々とこれに応じる有様であった。結局これらの平定に唐は煩わされた。
 このことは李世民の竇建徳捕獲とその性急な処刑が、天下をなんとかして得るための切羽詰まった譲れないものだったのであって、『旧唐書』の編集者による(竇建徳の敗因は)「天命の帰するところ(唐)は既に定まっていたのだ」という言葉の欺瞞性を浮かび上がらせていると言えよう。天命とは所詮そんなものなのだ。
二百六十九

張公謹
繁水の人。字を弘慎。貞観始め、代州都督となった。屯田政策を進め、食糧輸送を軽減した。しばしば上奏して政治の利害を論じた。後に李靖の副将として突厥の計略に参加し、彼らを伐つことの利を論じた。太宗は然りとして、かくして突厥を攻撃し、勝利を収めた。
二百四十六