
- ■ 北魏 ■
- 賀抜岳(北魏) ?-534
- 北魏の人。鮮卑族。爾朱栄の元で活躍。各種の官を歴任するがやがて関中にて,東の高歓と対立し,彼に謀殺された。彼の軍隊は宇文泰に受け継がれ北周の基礎となる。
→百七十九
- 爾朱栄
- 北魏の政治が混迷を深める中,山西北部の掌握を手始めに頭角を現す。洛陽に進出し,敬宗孝荘帝を擁立した。禅譲を受けようとするも断念。東方において力を付けていた葛栄を倒し,人心を得,陝西をも支配下にして北中国の秩序を回復した。
生来,戦闘を好み,しばしば狩猟を行った。
やがて帝から疎んじられ,朝見の際に殺された。
- 爾朱天光
- 爾朱栄が洛陽に進出後,陝西に派遣されその地を掌握した。
その後,彼はギョウに来ていたが,爾朱栄殺され,高歓の勢力拡大してギョウを取られるに及び,その根拠地たる陝西へ帰ろうとするも,朝臣らは既に爾朱氏覆滅に相乗りした為,途中の洛陽にて殺された。
→二百七
- 楊大眼(北魏)
- 孝文帝,宣武帝と仕え,淮南にて梁軍をしばしば破った。梁の兵卒民衆はその武勇を恐れ,無く子を黙らすのに「楊大眼至る」と脅したという。
- 高允 390-487
- 北魏の政治家、学者。経史、天文、術数に通じた。太武帝時代、崔浩と国史編纂に携わったが筆禍事件では許された。敬虔な奉仏家であった。
■ 北齊 ■
- 高歓{北齊}
- 北方六鎭の一つ,懐朔鎭の出身。漢人であるが鮮卑の風俗を習った。爾朱兆に山西の維持を任された後,直隸山東にて拠点を築く。やがて洛陽を攻め爾朱氏に取って代わり,孝武帝を擁立。ギョウと晉陽を拠点とする。
やがて洛陽の孝武帝との対立が決定的となり,彼を洛陽から追い出し,代わりに孝静帝を立てた。宇文氏の西魏と対峙した。漢族と鮮卑族の両者を用いるのに心を砕く。
- 高澄{東魏大丞相・北斉文襄帝}
- 東魏の実力者である高歓の長子。字を子惠。機略厳明で事を行うに滞るところがなかった。吏部尚書を統べ,後に大丞相となる。渤海王となった。将に受禅して皇帝となろうとしたが,二十九歳で殺された。
→百八十八・百九十一
- 高洋{北齊文宣帝顕祖}
- 孝静帝が死ぬと北齊を称する国を建てた。当初は漢族士人を重用し、法令改定や行政改革に勤め北齊の内部を固めた。
やがて鮮卑族を重用し、鮮卑化を押し進め、大臣の大部分が鮮卑族になるという事態になった。また街を徘徊し、淫乱・残虐を好むなど奇行が多くなった。
- 高湛{北齊武成帝}
- 高演の後を次ぐ。篤く仏教を信じ,その政治を臣下に任せ,全然干渉しなかった。これにより従来の齊が持つ好戦的な雰囲気は一変し,綱紀は弛緩した。
- 高緯{北齊後主}
- 高湛の後を次ぐ。意志が弱く,また感情の起伏が激しかった。天下自然に治まれると信じ,自ら無愁曲を作り琵琶を以てこれを唱えた。世にこれを無愁天子という。
- 高儼{北斉琅邪王}
- 以前の記述は間違っていました。お騒がせしました(^_^;;)
武成帝の三男。権臣、和士開・駱提婆らの放恣を憎み、これを捕らえて処刑させた。斛律光はこれを知り喜んだ。皇帝高緯と出猟した際、歳二十四にして殺された。
→二百三十四
- 段韶
- 北齊の武将。栄の子。字を孝先。小さい頃から騎射に巧みで,長じると将としての才略を見せた。神武,文襄,文宣の三王に仕えた。
→二百四
- 高長恭{蘭陵王}
- 北齊の皇族で文襄帝の子.美しい容貌を持ちつつ勇猛であった。突厥が晉陽を攻めた際、尽力して応戦し敗るるるも中軍となった。北周が洛陽を攻めた際、五百騎の部下と共に敵陣に突入し、その勇猛ぶりが北齊の兵士達に称えられた。それを歌った「蘭陵王入陣楽」は唐代に日本に伝えられ雅楽の中で踊られている。後主に疎んじられ最後は鴆毒を賜って自殺。
→百十三・百六十九
■ 北周 ■
- 耿豪(北周)
- 文帝の時、戦争で獅子奮迅の働きをした。驃騎将軍など、高位に上った。正確は凶、不遜であったが文帝により、その驍勇を可愛がられた。
→百三十六
- 宇文毓{北周明帝}(南北朝)
- 北周の基礎を築いた宇文泰の子。泰の死後、実力者の宇文護によって即位させられた三人の皇帝の孝閔帝(宇文覚)、明帝(毓)、武帝(ヨウ)の一人。明敏だっため結局護に殺される。
- 独孤信(南北朝の西魏)
- 字を直し(南北朝西魏)を付けました.
同郷の宇文泰と西魏を創建。元老として信望が厚かったが泰の没後、権力を握った宇文護に疎まれて死を賜る。長女、第七女がそれぞれ北周の明帝、隋の文帝の皇后、第四女が唐の建国者李淵の母。
→二十三
- 尉遅迥(北周)
- (南北朝の北周)をつけます
北周の武人。母は北周太祖宇文泰の姉。覚が北周を立てると重要な地位を占める。楊堅が大丞相になると彼に対し北周簒奪の意志ありとして挙兵。破れて自殺。女孫は隋文帝の寵を受けるも、独孤皇后に殺される。
- 韋孝寛{叔裕}(北周)
- 沈着俊敏で、広く経典や史書を読んだ。20歳の時に蕭寶インの反乱に遭遇し、自ら戦線へ出ることを願い、戦いごとに活躍、西魏の時に驃騎大将軍となった。周になって大司空となる
兵を用いること神の如しで強敵に遭うと計略を施し、それが見事に当たるので人々は驚いたという。
→二百四十七
■ 宋齊梁陳 ■
- 何無忌
- 劉裕配下の功臣。
劉牢之の甥にあたり、劉牢之が桓玄により殺されると劉裕に挙兵を説いた。その挙兵作戦の計画は慎重に期され、具体的な計画立案は劉裕と何無忌のみで行われたほど、この挙兵に深く関わっていた。桓玄打倒が成功すると江州刺史に任ぜられたが廬循の乱の際に敗死した。
→二百二十
- 劉義慶 403-444
- 南朝宋の大臣。文学家。文芸を好み,文学の士と交わった。漢末から東晉までの様々な人物を行為を集めた『世説新語』を記す。
→百五十八
- 搆ウ起
- 当陽の人。字を仲居。肝っ玉が太く、任侠の風があった。始めは齊に仕えて武寧太守となったが、蕭衍(後の梁武帝)が兵を挙げるとこれに参加し、中興初めには益州刺史となった。武帝即位後は当陽県侯に封じられた。益州にいるときには配下に恵まれ、非常に善政を敷いたが、しかし彼らを遠ざけ、政治もまたやや損なわれた。母が老いたので帰ることを願った。蕭藻の代わりとなったが、元起は彼を軽んじる発言をし、それを恨まれ酔ったところ殺された。そして謀反した誣告されたが羅研により無罪が訴えられ、潔白が証明された。
→二百四十
- 曹景宗 457-508
- 梁の武将。齊末に梁の武帝に仕え、しばしば奇兵で南面する魏の軍隊を破った。時に楊大眼を淮水で破り、意気揚々と凱旋した。賦詩の穴埋めをする器用さも見せた。しかし生活は奢侈で、またその私兵達も横暴であり、子女財貨の略奪を常にしていたという。
- 陳慶之{子雲}(梁) 484-539
- 梁の武将。武帝の信任が大変厚かった。武帝は、降伏した魏の元[景頁]を擁して七千名を以て北伐をさせた。四十七戦して負けたことがなかった。未だかつてこれほど兵が少なくして北兵を敗退させた者はいなかったとされる。後に北エン州南北司二州刺史等を歴任。
田中芳樹著『奔流』の主人公。
→百八十九
- 侯景 503-552
- 南北朝時代、所属を転々とし、最後は名君とされた梁の武帝の元で反逆し、梁衰退の原因となる。
→七十九
- 陸法和
- 道術を用いて将来を予言できた。江陵に隠れていたが侯景の乱に際し,梁の湘東王に討伐を約束し,実際にこれを虜にした。梁の元帝により都督郢州刺史に任ぜられ,江乗縣公に封じられ,さらには司徒となった。部下は数千にいて弟子と称した。元帝が敗れ去ると北齊に亡命し,文宣帝に大都督に任ぜられたが,引見しても臣下を称せず,ただ荊山居士と称した。病気にもなっていないのに部下に死期を告げ,その通り死んだ。
→百九十五
- 呉明徹
- 梁の武将。秦郡の人。字を通昭。幼くして父親を亡くすが孝に厚かった。勲功を重ねて安南将軍となる。宣帝が北伐を議論した際に策を決して出陣することを願い出た。侍中を加えられ、軍隊を指揮、仁州に勝ち進んで南平郡公に封じられる。寿陽にまで迫り、王琳を虜にした。車騎大将軍となり、彭城にまで進攻して多いに齊軍を破った。司空にまでなり、都督南エン州刺史となった。継いで周の徐州総管梁士彦と敵対した。周は王軌を派遣して航路を遮断、窮して捕まる。長安で死んだ。
→二百五十二
- 王琳
- 梁の武将。陳覇先が覇権を握るのを憎んだ。梁が滅び,荊州で永嘉王が立つと北齊に帰属。次第に昇進を重ねた。最後は呉明徹に攻められ敗死。王琳は学はなかったが,よく物事を暗記し,賢かった。刑罰は乱用せず,財を軽んじ,人を愛した。亡くなったとき,人々は皆嘆き悲しんだという。
→二百十二
- 章昭達
- 武康の人。財を軽んじ武事を尊んだ。陳の文帝から四帝に仕えた。侍中車騎大将軍となり、さらには司空までなった。性は厳酷であったが部下や召使いと食事するなど部下達にとけ込んだ一面もある。
→二百二十一