清

本紀
ヌルハチ{愛新覚羅奴児哈赤、太祖}(清)
表現を若干代えました。
 清王朝の実質的な創建者。領主氏族の出身であるが、幼い頃、まま母にいじめられ、十九歳で女真族商人の入り婿となった。貿易による漢人との接触で漢民族の文化に非常に親しむ。二十四歳の時、誤って明軍に父と祖父を殺される。当時、女真族は明により巧みな分割統治がなされていたが、彼は統一し、後金として独立を宣言した。
 中国統一の原動力となった軍制である満州八旗を作った他、民族主義をとり、征服した漢民族には弁髪を強要した。モンゴル文字による満州文字の創設にも関与した。

ホンタイジ{愛新覚羅皇太極、崇徳帝太宗}
表現を代えました。
 ヌルハチを受け継ぎ、清王朝の基礎を築いた。行政機構を整え、満漢蒙三族の皇帝として国号を大清と改め、三種八旗を築いた。
百二十九

ドルゴン{愛新覚羅福臨多爾袞,睿親王}
 ヌルハチの子。太宗ホンタイジの死後、福臨を擁立し、摂政となる。ヌルハチにより後継者として将来を嘱望されていたという説もあるが、時期適せず、摂政として清の中華帝国への変貌に役割を果たす。順治七年に死亡した。順治帝親政後,名誉を剥奪されたが,乾隆帝の時代になって名誉回復がなされた。
 帝位につかなかったのは時間が無かったとも,子供もおらず,十分に権力を掌握しているのにそんな必要が無かったからとも言われる。
二百五

順治帝{愛新覚羅福臨、世祖章皇帝}
表現を替えました。
 名前の読みはアイシンギョロフリン。清は彼の代にて中国統一を果たす。
 彼は六歳で即位し当初は摂政王ドルゴンが政権を握った。彼の指導の元、1644年に北京を占領、その後全国統一を果たす。その死後、十三年間の親政を行った。彼は父祖よりも遙かに中国文化的な愛好者で、殿中には中国書籍が積まれ、中国書画骨董品が並べられたという。科挙に状元で合格した除元文らに会い、江南の文壇などに関して親しく歓談したこともあった。
 それまで部族共同支配的な色彩が強かったが、満州八旗の統治権を徐々に各部族から皇帝直属へと替え、しかし断髪令に関しては徹底的に強行的な姿勢を見せるなど、征服王朝としての筋を通したところもあった。二十三歳で死んだとされるが、出家したという噂も民間で流れていた。

康煕帝{愛新覚羅玄[火華],世祖仁皇帝} Kang1xi1 Di4 1654-1722
表現を若干代えました。
 清の第四代皇帝。61年間皇帝として君臨し中国歴代皇帝の中で最も長い在位期間となった。内に対しては満州族支配を固め、外に対しては勢力を拡大、様々な政治改革を断行した。文化を保護し儒学を重視する。
 本人も寸暇を惜しんで学問に励み、どんなに多忙を極めていても一日として読書を欠かさないほどであった。一方で「文字の獄」による厳しい思想統制を行っている。
『康熙帝の手紙』岡田英弘(中公新書)
一百

雍正帝{愛新覚羅胤[ネ真],世宗憲皇帝}
 康熙帝の第四子。康熙帝時代の寛大な政治を引き締め,綱紀粛正を試みた。その即位には疑いを持たれ,また権力争いの一環として兄弟を粛正したことに懲りたのであろうか,皇帝が皇太子を秘密裏に決定しておく前代未聞の「太子密建の法」を考えだし,清朝で暗愚な皇帝が出てくる害を未然に防いだ。
 政治に精力を傾け、地方の官僚と直接情報のやり取りをする方法も編み出し、日夜政治に没頭するが在位十三年で没した。
『雍正帝』宮崎市定(中公文庫)
百九十二二百三二百五十三

乾隆帝{愛新覚羅弘暦,高宗純皇帝} Qian2long2 Di4 1711-1799
 清の第六代皇帝。祖父、父の富国の成果を受け、清の華やかな爛熟の時代を築く。文化事業として「四庫全書」の編纂に取り組んだが、それは同時に思想統制の意味も含んでいたとされる。実際、政治思想の面で厳しく取り締まり、焚書にされた本は数万冊に上った。
 また積極的な遠征、反乱鎮圧を行い、その功績を自ら誇り「十全老人」と称した。晩年は佞臣の和[王申]を信用するなど、老害が見られた。
二百六十二

同治帝{愛新覚羅載淳,穆宗} 1856-1874
 清十代皇帝。生母の西太后に権力があった。

光緒帝{愛新覚羅載[水恬],徳宗} Qian2long2 Di4 1711-1799
 清十一代皇帝。母は西太后の妹。四歳で即位し、西太后が摂政をした。戊戌変法を行おうとして失敗し幽閉された。

愛新覚羅溥儀{宣統帝}(清)
「宣統帝(清朝・」から直しました。
三歳で即位、辛亥革命で退位。後に日本の満州国設立に利用され康徳帝として即位。日本降伏後、ソ連軍により逮捕。中国へ引き渡される。ラストエンペラーとして有名。
八十七百六十四

列伝
羅芳伯
未詳。
二百十六二百九十一

藍鼎元
 海賊討伐で名を馳せた藍延珍の従弟。字は玉霖、号は鹿洲。長ずるに詩古文に巧みになり、政治の本質をわきまえていた。延珍が台湾にて朱一貴を討つのを助け、平台記略を記したりしている。やがて普寧知県となり、その裁判は神の如しであった。暇を見つけては邑の士人たちと明の正学を論じたが、これは世間では異な事と見なされた。
百四十八

段玉裁(清)
 清の言語学者.古韻の研究と「説文」の注釈を行う.
六十八

林則徐(清) Lin2Zu2xu2 1785-1850
コメントは記帳の方に移させていただきました。
清末の政治家。英国の経済的な戦略で中国に阿片が蔓延するなか、阿片追放を目指す道光帝の命を受け欽差大臣として広東に赴く。西洋研究を進めると同時に阿片に対して断固たる処置をとる。保守派の讒言で失脚。
十六九十三九十七

センゲリンチン{僧格林沁} ?-1865
 蒙古科爾沁(カルチン)旗の貴族。洪秀全が林鳳翔を派遣して天津を攻めた際にこれを虜にし、太平天国の北上を失敗せしめた。第二次阿片戦争(アロー戦争)では多くのイギリス軍の撃退に一時活躍したが、再度の侵攻に破れた。
 その後は捻軍の鎮圧に活躍し、功を重ねたが曹州で戦死した。清朝直系の唯一の勇将であったがその死により清の軍隊は漢人の手に帰することになった。
二百六十一

石達開(太平天国) 1831-1863 
 太平天国の一首領。すなわち翼王。豪農で孝廉に挙げられていたが、一家で洪秀全の挙兵に参加。戦術に優れ主力軍を率いた。南京占領後、諸王が内紛により殺し合うと、見切りをつけて南京を離脱、長江流域を転戦後、自立しようとしたが失敗、成都で捕まり殺された。

李秀成(太平天国) 1823-1864
 太平天国の後期の一首領。すなわち忠王。
 太平天国は南京を獲得後,そこを天京としたが,次第に組織内部の腐敗が進み,初期の首領達は敗死したり,殺し合ったりした。そんな中,新たなリーダとして登場したのが彼や陳玉成であった。貧農の出身であり,少年の頃家族を挙げて太平天国に加わった。
 一説によれば幼少の頃から好学で,行軍中に書物が手にはいると戈を枕にして読んでいたが,太平天国では経史の類を禁じていたため罰せらたこともあったという。
 やがて人望を集め,軍を率いて堕落した前半期の首領達に変わって,太平天国の理想と力強さを引き継いだのである。清政府は太平天国の牙城と化した南京を落とすべく,江南大営を築かせたが,李秀成はこれを掃討し,東征を開始,常陽,無錫,蘇州,そして杭州までも次々と陥落させた。しかし数年の間に清軍は外国軍などの協力や,その潜在的な軍事力を利用し,徐々に太平天国の支配下をやっとのこと締め付けていく。李秀成は占領した都市間を疾駆し,よくその劣勢を支えたが,衆寡敵せず,やがて天京は陥落した。
 李秀成は幼主を擁して脱出したが,やがて曾国藩の湘軍に捕らえられた。曾国藩の元に監禁され,毎日七千字余りの自叙伝を書いたのち殺された。その時のものが「李秀成供状」であるという。
 太平天国には少なからぬ外国人の参加があるが,忠王李秀成に従ったものがかなり多く,すなわち彼は太平天国の参加者のみならず,外国人にまで信頼され,敬愛されたのであった。イギリスのリンドレーなどは常勝軍(対太平天国討伐用外国傭兵軍)のファイヤフライ号という軍艦を盗んで参加し,幕僚として活躍,その後,帰国したが,太平天国史を記してその人柄を賞賛した。
『太平天國』増井經夫(岩波新書)
二百二

劉永福 1837-1917
 雇い人出身。広西天地会の決起に参加し、1866年広西・雲南境界で黒旗軍を組織、清軍に反抗した。その後、越南(ベトナム)まで退いたが抗争を続ける。やがて清朝とベトナムの阮朝と協力し匪賊討伐で名を挙げ、フランス軍のベトナム侵略に対して対抗した。後に中仏戦争でも屡々仏軍を敗った。1985年に両広総督張之洞の要請で帰国。
 日清戦争が始まり台湾が日本に合併されると現地で抗日運動に参加し、度々日本軍に抵抗する。最後は支えきれず大陸に戻る。
 今度は袁世凱と二十一箇条の要求に対して強く反発し、義勇軍を組織しようとしたが具体的な行動を起こす前に死亡した。侵略勢力との抗争に一生を捧げた人物。
『太平天國』増井經夫(岩波新書)
百十六

西太后(清) Xi1 Tai4hou4 1835-1908
 (清)をつけます。
 同治帝、光緒帝の実質的支配者。咸豊帝の側室となり、実子の同治帝が即位後、権力を握る。同治帝死後、光緒帝を擁立。保守独裁政治を遂行し、列強の進出には無策で再三譲歩。

李鴻章 Li3 Hong2zhang1 1823-1901
 清末の政治家。曾國藩の湘軍を手本にして、淮軍を組織、太平天国・捻軍の鎮圧に活躍。1870年、直隷総督兼北洋大臣となり、以後25年間外交を担当した。
 曾國藩は湘軍を解散した際、その核を彼に譲ったとされ、これが淮軍、ひいては北洋軍閥の中心となっていく。ほとんど宰相に近い権力を持ったが、日清戦争で北洋艦隊が壊滅すると、彼の権力も基盤を失った。もっとも晩年には世界外遊を行い、清露密約を結ぶなど後々まで活躍した。

丁汝昌(清末)
 李鴻章の淮軍に入る。海軍準備期にイギリス軍艦購入に派遣され、後に海軍提督となる。日清戦争において彼の先発作戦が李に許可されず、逆に奇襲を受け大敗。威海衛の防戦にも失敗し、服毒自殺。
十三

左宗棠 1812-1885
 清末の武将。1832年、挙人となったが四十歳頃まで無名の読書人に過ぎなかったが、その頃から胡林翼などに名を知られ、林則徐と歓談したこともある。その影響のためか塞防派を主張。52年官途につく。曾國藩に従って湘軍を指揮、太平天国の鎮圧に寄与。
 当時、ロシアが中央アジアの諸汗国を次々と併呑していたが、それの玉突き現象でコーカンド汗国の武将ヤクブ・ベクが新疆に侵攻していた。左宗棠は征西軍を率いてそれを撃退。その混乱を名目に伊犁地方を占領していたロシアはやむなくその返還交渉に応じたが、派遣人物の選択失敗から清は屈辱的なリヴィディア条約を結ぶことになる。
 世論はもちろん左宗棠も激昂し、彼は実力でイリ地方を奪回することを目論み、軍を率いて酒泉から哈密へ向かった。ロシアとの開戦を恐れる海防派の李鴻章によって召喚されたが、彼の牽制もあってか伊犁地方の半分を回復する「伊犁条約」が清露間で結ばれた。やがて軍機大臣として国家の長老として重鎮をなした。

黄遵憲 1848-1905
 清末の政治家、詩人。初代公使何如璋の書記官として来日。日本と中国を比較して中国の革命を説いた「日本国志」を完成。康有爲らの変法運動に参加し、「時務報」発行に協力した。

康有為 1858-1927
 清末の政治家。経書に加えて、西洋学、仏典を学び、大同説を説いて改革を説く。光緒帝により戊戌変法の指導者となるが、短期で失敗、海外へ亡命したが、光緒帝の復位を願う気持ちは立憲政体制からやがて開明専制政治を説くものとなり、革命を説く孫文らと対立することとなった。
 『毛詩』『周易』『左伝』などの古文を否定した。

譚嗣同 1865-1898
 清末の政治家、思想家。康有爲の勉学会に参加。唐才常とともに変法思想の普及に努力した。戊戌新政に参加したが、袁世凱の裏切りによって失敗し、殺された。日本から亡命の手が差し伸べられたが「康有爲のように亡命して運動を続けるものも必要だが、難に殉じるものもまた必要だ」と言って刑死を選んだ。
二百九十六

黄飛鴻(清末期)
訪問者リストに詳しい。
百四十一

李書文
未詳。
三百