- 韓世忠 1088-1051
- 延安出身。王淵に従い、方[月鼠]の乱を平らぐ。高宗即位の後、劉正彦の乱を鎮め、帝より忠勇の手書をもらったという。金の兀朮(ウジュ)が侵攻の時、退路を脅かしたり、金軍・劉豫の侵攻の際、大敗させるなど中興の武功第一とされた。楚に在ること十年にして金軍から南宋を守った。後には秦檜に兵権を奪われ、引退した。
→九十八
- 梁紅玉
- 韓世忠の妻。夫とともに戦場を駆けた。
→百八十四
- 岳飛 Yue4Fei1 1103-1142
- 南宋の武将。農家の出だが母の教えにより精忠報国の教えを肝に銘じ金軍を連破した武名高き民族的英雄。対金和議派の秦檜に無実の罪で処刑された。後に王に追号され岳王廟に祭られるようになる。
→十四・百五十四(無)
- 辛棄疾
- 南宋初期の武臣。孝宗の時、地方官を歴任し民政治安に活躍。朱熹と親交あり、朱熹の死んだ際、偽学の禁のため葬る者がなかったが彼のみ文を作り哀悼した。長短句に優れていた。
- 楊万里 1127-1206
- 字を延秀。詩人として范成大、陸游、尤袤とともに南宋四大家の一人。高宗紹興年間に進士に及第。地方官を歴任後、孝宗、光宗の近侍の職を得、朱熹ら各種の人材を推挙した。寧宗の時、皇帝や韓侘冑などに疎まれ憂悶のうちに死んだ。
→百四十七
- 賈似道 1213-1275
- 南宋の権臣。若い頃は素行が修まらなかった。姉が理想の寵愛を受けたことから権勢を持つようになる。役職についても遊び呆け,ある夜,西湖で夥しい篝火があるのを理宗が見つけ,「あれは賈似道が遊んでいるに違いない」と言ったところ,果たしてそうだったという。
モンケの討伐軍が南征した際,クビライが攻めてきた鄂州方面を防御,モンケが死んだ事による混乱でクビライが撤退したことで,防いだとしてその後,中央政権にて15年間,権力を握った。やがて再び南征した元軍を防ごうとして敗北,左遷され殺された。
- 陸秀夫
- 南宋の忠臣。元軍が南宋を侵略し、南宋の恭宗降伏した後も徹底抗戦派の一人として端宗を擁した。端宗死後、衛王を擁して元軍と戦うも最後はガイ山にて殉死した。
→三十八
- 張世傑
- 南宋の忠臣。元軍南下の際、兵を率いて浙江諸城を回復したが、焦山の戦いで利を失った。臨安陥落後は陸秀夫、文天祥らと端宗を擁して徹底抗戦を決め、敗戦ののち水軍を率いて海上にて抵抗を堅持。ガイ山の戦いにて陸秀夫や幼帝衛王らは死んだが、その後も元軍と闘おうとした。ガイ山の戦いの二ヶ月後、船が台風に遭い溺死した。
→二百四十八
- 文天祥 Wen2Tien2xian2 1236-1282
- 南宋の遺臣。理宗の時に科挙に主席で合格。私財を投じて義勇軍を編成、徹底抗戦したが最後は捕らえられる。元への任官を拒否したため、三年間幽閉され最後はフビライにより処刑された。様々な邪「気」の中で正しいことを貫く「正気」の強さを歌った『正気歌』が感動を誘う。
→七十一・百六・百四十三・二百八十一