■ 五代 ■
朱全忠{後梁太祖}(後梁) Zhu1Quang2zhong1 852-912
もとの名を朱温。黄巣の乱に参加するも一旦唐に帰順。「全忠」の名を賜る。節度使の後、反乱平定の功で梁王封じられ、勢力を拡大。907年唐を滅ぼし、建国。「こいつら(官僚)はいつも清流と言って威張っているから、濁流に入れてしまえ」と言う意見に従い、高官や貴族を虐殺したと伝えられるが、その政策は宦官の採用を徹底的に排除して実務的な下級官僚を用いたり、経済都市としての役割に注目してベン州を首都とするなど、合理的な改革を目指したものだったらしい。
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二
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三
劉[尋卩](後梁)
安丘の人。王師範により登州刺史となる。朱全忠の留守を狙って,梁の諸州を攻めるが反撃されて投降。官位を上げ,末帝の時には領鎮南軍節度使となり,唐荘宗を大いに破ったりしている。段凝に憎まれ,讒言されて殺された。
張承業(唐)
同州の人で宦官。晉王李克用の元に派遣され,気に入られていたため朱全忠が宦官を皆殺しにした際にも助かった。李克用は彼を重用した。
克用が死んだ際には息子,李存勗の補佐に関して後事を頼まれる。彼を助けて李存勗の覇権獲得に大いに貢献し,功多大。しかし彼の帝位即位には反対し,唐への忠を見せつけた。その後病死。李存勗は彼の死後,帝位につく。
馮道
五代の政治家で5朝8姓11君に仕えた。最初,劉守光に使えたが諫言により投獄される。その後,張承業に重用されたのが始まりである。当時は平和を愛し、人民の救済を心がけたとして慕われたが、後世、無節操さを非難されている。
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百八
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百三十三
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二百四十三
柴榮{後周世祖}(後周)
五代随一の名君とされる。郭威{後周太祖}の養子としてその後を受け継ぎ、国を広げた。燕雲十六州も一部奪還したが急病にかかって死んだ。廃仏を断行して教団を統制し、また農業生産の回復に努力して後の宋の統一の基礎を作った。
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百五十三
■ 十国,他 ■
劉隠{南漢烈宗襄王}(南漢)
先祖は商人であった。父は封州刺史となり隠はこれを継いだ。反乱などを鎮圧する。
銭弘佐{銭佐、呉越忠獻王}(呉越) 928-947
十三歳で即位。当初は服従しなかった者達も後に畏服した。国を富ませたが十九歳で没した。
王建(五代十国前蜀初代皇帝)
前蜀の初代皇帝。若い頃は盗みや塩の密造を生業とした。唐末、農民反乱軍の鎮圧に参加し、頭角を現す。891年、全ての四川の地を配下にし、907年国号を蜀として自立した。動乱に明け暮れる中央にたいして肥沃な蜀の地において、文化人を受け入れるなど善政を敷くとともに、民衆にも慕われた。
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四十八
赫連勃勃{夏世祖武烈帝}(夏)
若干表現を変えました。
夏の初代皇帝。匈奴劉衛辰の子。衛辰が北魏に大敗した後、後秦の独立して国号を大夏とした。赫連氏と改姓。性残忍であった。劉裕の北伐で長安が陥落し、晋の守将の間で内訌が起こると長安を支配し、東の北魏と対峙した。
劉隠{南漢烈宗襄王}(南漢)
先祖は商人であった。父は封州刺史となり隠はこれを継いだ。反乱などを鎮圧する。
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百五十三