西漢

本紀
劉邦{漢高祖} Liu2bang1{Han4 Gao1zu3} 前247-195
 漢帝国の創建者。農民出身ながらも、挙兵時からの仲間に助けられ天下を取る。
 そも彼のその後の中国に残した影響の大きさは如何ばかりだろうか。我々はその後の中国において一兵卒に近い身分や乞食同然の身分から、統一皇帝あるいは地方政権の皇帝になった人物を当たり前のように見ている。しかし彼の時にあっては身分の低い者が統一国家の皇帝になるのは全くもって驚きだったに違いない。そもそも皇帝という制度自体、確立されたものでなかったのであるから。夏や商はその祖先はれっきとした五帝であると言われていたし、周や秦は国が建てられてから統一まで長い世代を経ており、いわば徳を十分に積んできたと見ることが出来たはずである。つまり「身分」というものに対する差別は強くあったと思われる。春秋戦国時代を経て、家臣として身分の低い者を採用するのはようやく抵抗無くなっていたかもしれね。しかし天下を治める尊い身分となればまた話は簡単でなかっであろう。そういう点で彼のライバルである項羽は王族で無かったにせよ、楚の家臣の後裔として遙かに尊い身分に相応しかったはずであるし、そういう彼でさえ最初は楚の君主を立てざるをえなかったのだ。
 それにも関わらず、親の名前もろくに分からない劉邦が天下を統一したことは人々に暗黙に世代を経た徳を積んでいることは君主として関係がない、すなわち伝統的君主制の擁護の根拠は全く薄くなったに違いない。
 後世の中国に与えた彼の影響は計り知れないものがある。

漢惠帝{劉盈}
 前漢第二代皇帝。呂皇后の子。軟弱さを劉邦から嫌われたが、呂皇后の助けもあって即位。異母兄弟の如意の命を、母である呂皇后が狙おうとするのを助けようとしたりするなど呂皇后の息子には似合わぬ心優しき少年であった。即位早々、母親の戚夫人への酷い仕打ちを見せつけられてショックを受け、淫楽に身を委ねて七年後、二十三歳で若死にした。

漢文帝{劉恒} 即位 前180〜前157
 前漢第五代皇帝。薄夫人の子。薄夫人は劉邦に寵愛されなかったため、呂皇后の毒牙逃れることが出来た。呂皇后の死後、姻戚の穏やかさから朝廷に認められて即位。
 宮中の奢侈を制限、官吏の軽減、貧民の救済、内刑の廃止などを行った。乃ち、呂皇后の時代が楚漢抗争の回復期であったが、彼の時代にはそれが旧に復し、新たな社会の経済発展をしていた時代と見ることが出来る。対外的には始め匈奴の右賢王を丞相灌嬰に討たせるなどしているが、和親政策を採用、漢の皇室から匈奴へ后が送られる、漢から多くの贈り物を届けるなどが行われた。
 一方で商人の台頭などの社会矛盾が起こっていたことが賈誼などに指摘されている。即位十三年から文帝の崩御まで農民の田租が全免されたのは驚くべき事であろう。

漢景帝{劉啓} 即位 前157〜前141
 前漢第六代皇帝。文帝時代にチョウ[日黽]錯などから指摘されていた諸侯王の問題が爆発し、即位早々、呉楚七国の乱が発生する。首謀者である呉王劉ヒ[水鼻]は息子を皇太子時代の景帝に殺されたりしているので、彼の個人的な責任が無いとも言えなくはない。ともあれ、その乱を収めてのちは諸侯王の抑制に成功した。

武帝{劉徹}(前漢) Wu3Di4 前156-前87
 前漢七代皇帝。儒教を公認すると共に匈奴を撃退して漢の全盛時代をもたらしたとされる。
七十六

漢昭帝{劉弗之}
 六歳にて即位。霍光は同じ内朝のライバル・上官傑や外朝の代表・桑弘羊を第二次燕王の謀反を利用して排除、権力を握る。塩鉄会議が開かれた。

廃帝昌邑王{劉賀}
 霍光らによって即位したが、礼を乱したとされ、即位早々廃された。。

宣帝{劉詢}
 書き方を変えました。
 武帝により無罪の罪で殺された皇太子劉拠の孫。獄中で女囚に育てられ、成長して民間にいたところを実力者霍光に皇帝として迎え入れられる。霍氏の勢力を排除後、武帝後の休息の時代を築く。かといって儒教に寄りかかりすぎることもなく、比較的バランスの良い政治を行った。対外的には匈奴が降るなど漢の威信も保つ。
 武帝時代には酷吏が重用されたのに対して、循吏が採用された。文化的には石渠閣会議が行われ、徐々に儒学の定着化の傾向が見られた。

漢元帝{劉セキ[百大百]}
 漢第十代皇帝。儒教好きで、即位前から父宣帝に心配された。病気がちであり、そのことが宦官石顕らの専横を招く。また王氏が皇后となり徐々に外戚王氏の専横が始まる。
 国家の宗廟制度が整い始め、郡国廟の廃止、天子七廟制の議論などが行われた。

漢成帝{劉ゴウ}
 漢第十一代皇帝。皇太子時代から好色で知られ、放恣な生活を送った。好んで宮中から脱し、長安城の内外を微行し、公卿百官誰一人として皇帝の居場所を知らぬ事が度々あったという。
 廟制、郊祀制改革が完成し、清朝にまで続く祭祀制度がほぼ確立したと言われる。

漢哀帝{劉欣}
 漢第十二代皇帝。王莽が一時勢力を失い下野。

漢平帝{劉カン} kan4
 漢第十三代皇帝。哀帝死後、元后は宮中の権限を掌握し、王莽を召して善後策を図った結果、当時九歳の中山王劉欣を帝位につけ称制臨調を開始した。王莽の専横は日増しに甚だしく、十四歳に神酒を飲んで死亡した。

列伝
石奮{萬石君}
 高祖が河内を過ぎたおり、気に入られて小吏となり、高祖近くに仕えた。その恭敬を愛された。
 功を積み、文帝時には太中大夫、景帝時には九卿となった。息子達も多く官吏として出世した。景帝の時、萬石君と号された。
二百二十七

周亜夫
 丞相となった周勃の子。文帝の時、将軍として匈奴防衛に活躍。文帝が遺言で「何かあれば周亜夫を将として兵を派遣せよ」と言われた程信頼された。呉楚七国の乱の時、太尉であった彼は将軍に任命され見事に鎮圧した。
 後に讒言に会い、獄死。

張不疑
 張良の息子。侯を継いだが不敬に連座して剥奪。
二百九十七

竇皇后{猗房}
 最初、呂皇后に宮女として仕えたが、人員削減のため各地の王に送られることになった。宦官に出身近くの趙へ行くことを頼んだがその宦官がうっかりして北方の代に送られた。代王に愛された。
 代王が文帝となったため皇后となり、彼女の長男が景帝となる。皇太后として敬われたが、老荘思想を好み、儒教思想を嫌った。武帝即位後も、この大きな施政方針に関しては政界に睨みを効かせており、そのために彼女の生きている間は積極的な政策は取ることが出来なかった。
 彼女が死んでから武帝の儒教を含む積極政策が押し進められることとなった。
『花の歳月』宮城谷昌光
二百二十二

李広 ?−前119
 文帝の時、対匈奴戦で活躍し、散騎常侍となる。景帝の時に将軍に抜擢され、上谷、陝西、雁門などの太守をかねつつ、匈奴と大小七十余りの戦いをして、匈奴にも飛将軍として恐れられた。武帝の時代になり、衛青などの後塵を拝することが多くなり、前119年に対匈奴戦において作戦失敗の責任をとって自殺した。
 部下に慕われており、侯にならないのを皆惜しんだという。
百十四二百八十四五

東方朔(前漢)
武帝の時代の滑稽文学者(?)。後に仙人的存在に祭り挙げられる.
私の読んだ本では「霍去病-麒麟龍彗星譚」(上下)「無面目・太公望伝」などで重要な脇役として活躍していました。

衛青 
武帝の時代、姉の後宮入りにて青年となってのち歴史の舞台に現れるが、 実力で出世し、匈奴平定などに活躍した武将。
百六十八

霍去病 Huo4Qu4Bing4 前140-前117
若いうちからその才能を武帝に可愛がられ、匈奴平定などに活躍.衛青と違い、我が儘で一兵士のことを考えない身勝手さがあったが、人気はあった。夭折した。
二十百三十

李陵 前145頃-前86頃
 武将で名将李広の子。少数で匈奴と戦い捕まる。朝廷では彼が寝返ったと勘違いして一族を処刑。悶々としながらも帰るに帰れなくなる。
 忠節を全うし,最後は晴れやかに帰国する蘇武を見ながら,故国で自分を弁護した司馬遷が宮刑の憂いにあっていると知らずに,匈奴で暮らしその地で没した。
 日本では中島敦の小説で有名。

司馬遷 Si1ma3Qiang1 前145頃-前86頃
「史記」の編纂をした。古来中国には歴史記録を重んじる風潮があったようだが、彼の編纂事業によってその流れは決定的となった。「史記」自体は人物の情熱をとらえようとする記述により、非常に小説的である一方、20世紀になってから甲骨文が発見されたことで正確さも一部証明され、現在ではほとんど絶賛の声以外聞かれにくい珍しい古典である(気がする)。

趙広漢 ?-前65
 昭帝の時、茂才として推挙される。霍光の皇帝廃立を助け関内候の爵位を受ける。治政では取り締まりを強化したため盗賊はなりを潜め、その威信は匈奴にまで知られたらしい。後に罪を得て殺された。

卓文君
 富豪王孫の娘、司馬相如の妻。
 相如は貧しかったが卓文君を口説いて、彼らは駆け落ちした。王孫は激怒し、実家の援助を受けられない彼らは飲み屋を始めて卓文君は女将と店頭に出ていたという。
 王孫は恥じ入ったが、やがてこれを許し、彼らに財産を与えた。相如はこれで成都に土地を買い、裕福となり、やがてその文才が認められた。
 後に相如が妾を持とうとして反対し、ついに辞めさせた。相如が糖尿病で死ぬとその哀悼の文は世に知られたという。
二百十七

董賢
 哀帝の寵臣。気に入られ、巨万の富を得た。人に諂うのがうまかった。哀帝は彼に禅譲しようとしたが、王莽に反対され自殺させられた。
二百二十九

陳湯
 若いときから書を好み、文章がうまかった。西域副校尉に任ぜられたが、策略を好んだ。天子の命令と偽って独断で兵を出し、シツ支単于を斬った。関内侯に任ぜられたが、罰せられて地方に流された。長安に戻ってきて死んだ。
二百三十三

王昭君 Wan2Zhao1jun1
 元帝の時代、和睦の証として宮廷から匈奴に嫁がされた女性.後に「匈奴へ送られることになったのは、絵描きに賄賂を送らなかったために醜く描かれた為だ」という伝説が出来で物語としていろいろ扱われるようになった.