楚漢

陳勝 Chen1 Sheng4 ?-前208
 秦末の反乱軍の首領。楚漢争覇は彼から始まる。
 若い頃から「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」と言い,志を秘めていた。始皇帝の政策に対し,全国で鬱々と不満が溜まる中,「王侯将相,寧んぞ種あらんや」と言って呉広とともに反乱を起こす。中国では至尊とされる皇帝家も所詮時代ごとに「天命」を失って度々滅び,また皇帝未満に関しては南北朝などで貴族政治などが行われたものの,その後は科挙が浸透し,生まれの貴賤に関わらず地位を得ることが出来るようになった。もちろん中国では近代西洋思想のような平等の思想が既に浸透していたなどとは全く言えないが,それでも生まれによって人間の根本的な優劣が決まっているなどと言う概念は感じていなかったであろうし,それを代表する言葉が彼のこの「王侯将相,寧んぞ種あらんや」であろう。この言葉を胸にのちの反逆者そしてその成功者達が戦ったか数しれない。
 とそれはともかく,王として即位後,昔の友人を粗雑に扱うなどして人心を得ず,彼自身の反乱は六ヶ月で鎮圧され彼の最後は御者に殺された。
百九十七

項羽 Xiang4 Yu3 前232−前206
 秦末、陳勝らの挙兵に応じて叔父の項梁とともに挙兵。秦を壊滅させ、群雄の実質的な盟主となるが、彼らの処遇に失敗して天下を逃した。劉邦との戦いでは単独戦では圧倒的な強さを誇ったが、配下の武将の扱いに失敗し、最後は約束を破った劉邦による奇襲で敗死した。虞美人とのやりとりが有名。
二十八三十五百四百九十六

章邯 ?-前208
 秦二世皇帝の時、陳勝呉広の反乱を鎮めるべく派遣され、各地の反乱軍を撃退したため、一時反乱勢力は弱まった。しかし項羽に破れ楚に帰順した。後に韓信に破れ自殺。

韓信 Han2Xin4 ?-前196
 最初項羽の配下となるが、遇されず劉邦の配下へ移る。主君である劉邦が連敗なのに対し、不敗の遊軍として活躍、巧みな用兵で項羽を悩ます。ほとんど第三勢力であったが、劉邦からは独立できず、天下統一の後は呂后に粛正される。不利とされる「背水の陣」を逆に利用して勝つなど、戦術家として「天下無双」と呼ばれた。

王陵(前漢)
 (後漢)となっていたものは間違いとさせていただきました。
劉邦軍の武将。劉邦無名の時には彼に兄事し、起軍ののちは数千名を率いてこれに参加。母が項羽に捕らえられるも、息子の陵に「二心を持つな」と伝え、母自らは自殺した。

張良 Chang1Liang2 ?-前168
(楚漢)を加えさせて頂きます。
韓の遺臣で劉邦を助け天下を統一させた名軍師。蕭何と共に漢帝国建国最大の 功臣とされる。
三十九四十五八十百十七二百五十二百五十四二百九十五(無)

蕭何
 漢建国の功臣。最後は宰相となり,漢帝国の政治を任された。具体的には統治の基礎である法律,九章律などを制定した。
 秦の下級官吏出身。たまたま劉邦と同郷であり,その大言壮語を苦笑するような立場であったが,秦末の混乱の中,劉邦を擁立。無骨者が多い劉邦軍団の中で,下級官吏出身ながらもその軍団経営に能力を発揮。古来からの王者の地である関中を手に入れた時は,他の人々が喜びに浸ってうかれる中で,官庁資料を黙々と収集,それが後の中原経営に役立つことになる。
 彼は関中に留まり,前線で敗北を重ねる劉邦軍団に対して背後から兵と兵糧を補給,彼の活躍無しには安定した戦争継続は不可能であっただろうし,また同時に関中の人々の心を劉邦軍団にしっかりと惹き付けていた彼の手腕は並々のものではない。劉邦もそれがよく分かっており,統一後,第一の功臣として認められた。不満を漏らす武将達に向かって「狩りをするのにお前達は犬であり,蕭何はそれを操る狩人である」。
 秦の世の中であったら,おそらく下級官吏のままで終わっていたかもしれないが,劉邦と同郷であったという幸運は彼の運命を変えたといえる。いや,もしかすると彼が劉邦の運命を変えたのかも知れない。いづれにせよ,彼は劉邦がいたからこそ自分の立場があることを分かっていたし,逆に劉邦も彼がいたからここまでやれたことを分かっていただろう。

陳平(楚漢)
 家は貧しかったが読書を好んだ。冠玉のように美男子だったという。里の祭を主宰する役になったが、その際、肉の分配が非常に公平だったので父老達から賞賛されたが、「もし私が天下の宰相となったら、同様に政治が出来るだろうに」と言ったという。
 始め項羽に仕えたが魏無知を頼って劉邦軍に参加。ある時、彼が以前に兄嫁と密通したとの讒言があり、劉邦は魏無知に問いただした。魏無知曰く「私が彼を薦めた理由は彼の能力によってであり、彼の道徳ではありません。陛下は戦争に勝つのに何が必要なのですか」。劉邦はなるほどと思ったか、その後も彼を重用した。特に奇策・計略に優れており、功績によって曲逆侯に任ぜられた。
 惠帝の時、左丞相となった。呂后の死後、周勃と共に呂氏の排斥に成功し、劉氏を復活させた。文帝の時、丞相となる。
百五十一