雑想頁 中国関係 一

「中国傑物伝」(中公文庫)
   陳舜臣

 「あれっ、こんなの文庫で出ていたんだ、陳先生の中国任侠伝とか畸人伝とかは大好きなので、それに近いのかな」と若干期待して買ったのがこの本である。しかし雰囲気は違っていて、「解説」にもあるように本書は「(陳)氏の歴史家としての手法によった本」であると言えよう。少し残念だったけどそれなりに面白い。

 中国の歴史から選んだ十六人の生き様を述べたものだが、陳先生らしい暖かいというか熱いというか、そういう視線が当てられていて、それが伝わってくる。特に私の場合にそれほど知識がない、古代以外の人物像がなかなか新鮮で面白かった。

 特に劉基などは、朱元璋から「我が子房」などとまで呼ばれたらしい軍師なのにほとんどその経歴を読んだ記憶がない。先日中国に行ったときも「劉伯温(劉基の字)伝」とかいうパソコンゲームが売っていて「?」と思っていたのだが、友人によれば劉基のことであり、民間では伝説などで有名だと聞いた。そのことが改めて本書に書いてあり、ふーん、という感じだ。

 また、中国を統一した清の順治帝なども扱っているが、彼などは普通、摂政王ドルゴンの陰に隠れて影が薄い。それを評価していることなども面白かった。

 「解説」にもあるように、どれも長編の小説になりそうな人物である。いや、中国なんてどれも小説になりそうな人物ばかりなのだ。面白い描写に必要なのは、本書で陳先生が向けているような歴史人物への暖かい眼差しなのだろう。いろんな中国史人物を暖かく描く小説がもっと出てほしいと思うと共に、淡々とした人物記述の本は今まで読んだことなかったけれども、いづれ読んでみるのも面白いかもしれないと感じた。(初読み97/5/29)


「海嘯」(中央公論社)
   田中芳樹

 小説の感想は書きにくいものだ。だって「私が」単に面白く感じたか、そうでないかの尽きてしまうことが多いから。

 田中氏の中国史小説は前にも読んだが、ほとんど印象に残っていない。実はその時点で「まっ、単行本(ハードカバー)では買う必要はない作家だな」と見なしていた。それが若干変わってきたのは陳先生との対談本を読んでからである。田中氏のあまりの中国史への思い入れに圧倒されたのが正直なところだ。そして最近、中国武将列伝を読んでその思いは強くなった。

 それらの中で「書くぞ書くぞ〜、中国ものをこれからたくさん書くぞ〜」と言っていたが、正直なところ「楽しみだけど、宮城谷さんのほど小説は印象なかったしなー」という感じであり、必ずしも買うと決めていたわけではない。そしてとうとう出た中国史小説。なんと「宋末」!大宋帝国シンパとしては買わない訳にはいかないじゃないですか、これは!...ということで買って読んでみた。

 とにかく泣いた。田中氏の筆が巧いのかはよう分からん。思い入れのある大宋の滅亡の悲劇に泣かずにはおられんかった。病み上がりで感傷的になっていたこともあるかもしれんが、この本で泣いたのは事実である。涙腺は緩いがいつも小説で泣くわけではないので、やはりそれだけ巧く書かれていたということか。やはり、ある小説が面白いか面白くないかなんて、万人それぞれで分からない。

 嗚呼!大宋帝国!どうしてこんなに忠義な人々の行為は胸を打つのであろうか。いや、胸を打つのはそれの生み出す悲劇だろうか。戦前の日本に広まっていた考えは大嫌いだ。天○に対する忠義などクソくらえだ(おいっ^^;;)。でも中国史での話では、この本のような忠義な人々をどうしても応援してしまう。確かに彼らは戦前の多くの日本人と同じで愚か者である。自分の命を惜しまずに、何か守るものがあると信じて単に死ぬのだ。

 人が自らの意志で殉死を選ぶ。それは何故か?。国に仕え、その王朝を敬愛していたら、その国とともに滅んでも良い、いや、共に死んでこそ、その国への敬愛を貫けると思うのであろうか。では何のために?。その「共に生きるべき敬愛すべきもの」が無いならば、自分が生きていても仕方がないと思う気持ちからであろうか。それとも共に死ぬことで、敬愛する国を滅ぼした人々への非難の声とするためであろうか。

 ........
 そこに死ぬ価値って本当にあるのだろうか。
 命ってどのぐらい大事なのだろう。自分の命を捨ててまで守るべきものはあるかもしれない。これは思う。しかし多くの人の命までを巻き込んで守るべき大事なものは世の中にあるのか....分からない。

 今回の本も含め、中国での士大夫の生き方には様々なものがあった。徹底抗戦した場合に、報復により住民が残虐に殺されるのを恐れて降伏した武将。それにも関わらず降伏しなかった、裏返して言えば自らの信念のために多くの人々の命を巻き込んだ人。人々の命は救うと共に自分だけは殉死した人。単に自分だけの保身で降伏し、結果として多くの人々の命は救えることになった人。亡国の遺臣となり、静かに暮らした人。新王朝の非を徹底的に主張して最後は殺された人。

 結局の所、どの姿が正しいか、すべきかなんて言えないのだ。人はそれぞれの生き方に合わせて自分の道を決定するだけで、絶対の道なんてない。ある方がおかしいのであろう。父親である伍奢が人質に捕らえられ、息子二人が召喚された時、兄である伍尚は弟の伍子胥に言う。「お前は生きて報復せよ。私は殺されると分かっていても、行って父と共に子としての道を尽くす。それがそれぞれの分というものだ。」

 それでも私は考えてしまう。どれが正しい、いや良い、自分は取りたいのであろうか、と。...そうか、そうやって最後まで中途半端に迷い続けるのが陳宜中の生き方なのか。彼の生き方に共感というか、同情というか、よく分かる感じを抱くのは、私も結局決められない、決められていないからなのだろう。

 ともかくも、田中氏が「銀河英雄伝説」でヤンに貶させた「信念」、それらを貫く人々の姿勢と、それが生み出す悲劇は私の心を打ってやまない。 (初読み97/5/29)


「中国武将列伝」上下(中央公論社)
   田中芳樹

 とにかく、なんだか私の中国史の頁とコンセプトが近いというか、そのままというか、そんな感じの本である。私の頁が「協賛」関係を持つとしたらこの一冊とと言うことになるのではなかろうか。私の中国に関する知識は田中氏に遙かに及ばないが、中国史をいろんな人に知って楽しんで貰いたいという思いは全く同じで、非常に共感を覚える

 とにかく田中氏の知識と中国史に対する飽くなき好奇心はすごい。中国では日本と違い、どんな歴史上の人々が注目されているのか、どんな人々が京劇などのネタになっているのかなど、実に面白くて興味深かった。陳先生との対談本と同じで、「なんだか知るのがもったいない!」という印象も受けるのだけれど、それよりも「へー、そうなんかあ」という素直な知る喜びを感じることが出来た部分が多い。

 しかしながら最初のうちは「楽しみの押しつけ」という感じも若干否めなかった。日本で広まっている三国志ファンの人への苦々しい文句が結構嫌みに感じた。別に素人は研究をするわけでも、それで飯を食うわけでもないのだから、例え知識が偏っていたりしてもいいではなかろうか。たしかに三国志好きの人に、もっと広い中国史を好きになって貰いたい気持ちは非常に分かるのだが、田中氏の態度の押しつけがましさは、どうも鼻についた。

 一方で、本を書くような知識人の中国史知識不足への批評は拍手喝采という感じだ。日本で『世界で初めて〜』と書かれる場合は得てして中国史などは眼中に入っておらず、ヨーロッパと日本しか念頭に入っていないことが多いと書かれているが、私もそれを最近強く思っていた。「おいおい、中国とかでもその時には無かったんかい」という突っ込みをしたくなる記事が結構多い。日本は中国の歴史とともに歩んできたのがほとんどなのに、それをまるで忘れたかのような中国史に対する扱いは悲しいことである。

 どーでも良い話だが、この本が出たのが96年の11月であるが、私のホームページで中国史人物投票が始まったのもそのくらいである。私の中国史好きははっきり言って田中氏からは全然影響を受けていない。にも関わらず、田中氏がこの本で「中国史人物は面白いっ!」と主張したのと、私がせっせと家頁でその主張を喧伝しはじめたのがほとんど同じというのはなんだか実に面白い(^^)。つまり、田中氏が今まですごーく勉強して蓄積した知識でこの本を書くことで、ようやく声高々に主張できたことを、若輩で知識もほとんど無い私が同じことを家頁で気軽に主張している。インターネットの偉大さと言えようか!もっとも私は一銭も儲からないし、主張が社会の中で人目に付く割合の差も雲泥であろうが(^^)。

 ともかく、中国史、特に中国史の人物に興味がある人は一読する価値ありといえようか。

 ところで、中国史を扱ったたくさんの小説が出ることを田中氏が熱望しているのも、私と全く同じで嬉しくなってしまったが、どうも田中氏の発言には宮城谷氏の作品についてはまともに出てこないようだ。宮城谷氏の優れた中国古代時代小説の書き方は、「小説によって中国史人物を魅力的に描く」という点では絶対に無視できないものだと思う。宮城谷氏の作品は中国古代が中心になってしまっているので、田中氏からすれば「やっぱり偏っちゃっている人」の範疇に入るからか、心憎いライバルと思っているためか。 (初読み97/5/29)


「談論 中国名将の条件」(徳間書店)
   陳舜臣・田中芳樹
 友人に以前勧められていたのだが、読んでいなかった本。陳先生は私が中国史の趣味をもつようになった大恩人である。一方田中氏の作品では「銀河英雄伝説」を私は読んだだけだが、中国ものに強く関心を寄せているらしいという話は聞いていた。いくつかの作品は私も読んでいるが、私個人としては残念ながら非常に気に入った作品は無い。だからこの本も若干引けていたのだろう(宮城谷先生とだったら即飛びついていたに違いない^^)。しかしながら、非常に気になる人であるし、こんな頁作り始めたこともあり読んでみた。
 どなたかが投票して下さった王玄策がいた(^^)。

 いやあ、それにしても田中氏は中国史をよく知っている、知っている。本当に勉強家というか、中国史に「ハマ」っちゃっているというのが良く分かる。私は何百年かかっても田中氏のような文章書きにはなれないだろうが、中国史の人物をもっと知りたいという思いは全く同じであり、非常に共感を覚えた。例えば三国志に出てくる逸話が三国志独自ではないことなど、私も三国志好きの人に知って貰いたかったことが書いてある他、たーーーーくさん共感してしまうことがいろいろ書かれていた。もちろん、「そうそうっ!」という感じだけでなく「あっ、そうか、だから中国史って面白いのか」というように気づかされたことも多い。

 でもでもっ!敢えて贅沢を言えば、この本はすごーく勿体ない気がする(^^)。つまり中国史の美味しいところをかなり紹介し過ぎているのではないかということだ。

 物事の紹介とは難しい。全く興味の無い人に対して紹介することは、大変である一方、実に気楽である。何しろそれ以上印象が悪くなりようがないから、少しでも興味を持たせるだけで万々歳だ(趣味での話ね^^)。しかし、「やってみようかな〜、読んでみようかな〜、調べてみようかな〜」などと思っている人に紹介するときには注意しなければならない。もしかすると紹介されたことで幻滅し、興味が無くなってしまうかもしれない。いや、それよりも分かった気がして、知った気分になり、自分で取り組もうとする気が失せてしまうことの方が弊害としては大きのではなかろうか。紹介というのはそのような危険性を孕んでいるというのをしみじみと感じさせられてしまった。

 率直に言うと、「あああ〜、もしかするといろいろなものを読むうちに、自分から注目するかもしれないのに、なんかここで妙に印象づけられてしまった気がする〜」という感じなのだ。つまり先入観を植え付けられてしまったという感じ。私の場合はそれなりに中国史に関して読んだ方であるから、共感して楽しい部分が多かったが、もしこれから中国史を読み、自分で中国史の素晴らしさ、好きな人物などを見つけようとする人にとってこの本はあまりにお節介過ぎるという気がするのである。この本を読むべきなのは、例えば日本史しか興味がないとか、中国史の中でも三国志しか読む気がないという人、または正反対に田中氏レベルまで中国史に精通し、あとは他人の意見でも聞くか、という凄い中国史好きの人、だという気がするのである。

 私の私的中国史調査会はみんなと中国史の楽しさを共有したいと思って作っているつもりであったが、実はみんなの中国史を知ろうとする意欲を削いでいるのでは無かろうか、という反省を感じさせられてしまった。まあ、私の頁作りは自己満足なので、他人の人にプラスにならないのは良いとしても、マイナスになってしまうのは流石にいやだなあと思ったのであった。

 あっ、ちなみにこの本を読むべき人として「うー、中国ものはいろいろ読んだのに人物名が印象に残っていないよ〜。それにこれ以上は自分で気が付きそうにないから、注目すべき人物を教えて欲しいよ〜」という私みたいな人も含まれるでしょう(^^)。(初読み96/11/27)


「霍去病-麒麟龍彗星譚」上下(河出書房新社)
   塚本青史
漢の武帝前半の時代をここまで詳しく書いてくれた人はいない.春秋戦国,楚漢攻防,三國志などが特に面白い時代として有名であるが,漢の武帝の時代も魅力的な人物が結構多い.作者も後書きで書いているように,衛青や霍去病は漢時代におけるヒーローと言えるのに,きちんと小説化してくれた人はいないのだ.そういう意味で貴重な本だと言えよう.作者の不満(?)が分かるような,彼らをキラリと描く良い作品だと思う.

 もっともストーリーとしてはほとんど歴史の丸写しっぽい気もする.陳舜臣「中国任侠伝」で聞いたことのあるエピソードなども入っていた.だから,この本が面白いのは所詮,歴史が面白いからなのか,この作者の力量のためなのかはよく分からない(それはもちろん私の勉強不足もある^^;).

 もちろん「小説として十分に楽しめる」程度まで歴史をうまく再構築してくれているのは確かであり,その点は力量なのであろう.是非,この人の次回の中国歴史小説,または中国時代小説作品を読んでみたいものだ.(初読み9/30)


「南海の風雲児・鄭成功」(講談社文庫)
   伴野朗
うーん,この人のは「朱元璋」の印象がかなりよくなかったので,敬遠していたのだが,文庫本になっていたのを良い機会に読んでみた.うーん,やっぱりぐいぐい惹かれるという作品ではないなあ.もっとも前半の「歴史の話」としての「鄭成功物語」は,鄭成功の話を詳しく書いたものを読んだことがなかったので,それなりに楽しめた.

しかし,小説の方はどうも惹かれんな.鄭成功の「歴史の話」としての話があれだけ面白いのなら,もっともっと面白い鄭成功の話が出きてもおかしくないと思うのだが...

 もともとの歴史の話が面白ければ,その小説化されたものはとっても面白ければなるまい.当然の面白さは当たり前で,それ以上の面白さを引き出してくるのが小説家の仕事だと言えよう.恥ずかしいことに私は最近まで知らなかったが,「歴史小説」と「時代小説」という区分があるらしい.どうやら前者は史実性が濃いものを,後者はエンターテイメント性が強いものを言うらしい.そういう意味で言えば私は「時代小説」を欲しているといえるだろう.

 もちろん,歴史の話は大好きだ.でも,歴史が「面白くなく小説化」されたものを読むぐらいなら,私は,そのままの歴史の話を読みたいと思う.「こんな説がある」「現在はこういう受け取り方がなされている」といった,ちょっと学問っぽい話の方がまだ断然面白い.だから歴史を小説化したものにたいしては上の意味ではすべて「時代小説」になってほしいと思っているのだ.(初読み9/30)


「八股と馬虎−中華思想の精髄」(講談社)
   安能務
 中国で友人に借りて読む。内容は「中国近代革命裏史」といたところか。全然そこら辺の知識が私は無いのでムズカシイ。

しかしやっぱりこの人の書き方はクセがあるなあ。なんだかどこまで信用していいのかさっぱり分からない。突っ込みたくなる部分も多い。この本では蒋介石をけちょんけちょんにして毛沢東を誉めており、杜月笙という革命裏人物が出てくる。中国の本屋で杜月笙というタイトルの本を見掛けたので、中国では結構一般的な人物なのであろうか。うーむ、基礎知識がないから分からない。

ところで後書きを読むと「特定の仲間に読んでもらう文章は半世紀以前から書いていた」と書いてあるところを見ると、うーん、お歳を召した方なのか!?思わず「安能さんって○○イなのか!」と叫んでしまいました。文章からは伺えないような、はたまた納得できないこともないような(^^;)。一体どんな経歴(で中国に関わった)の方なんでしょうか(^^)。

この本のおかげで「上海市歴史博物館」を少しは楽しめました。それだけでも感謝するとしましょうかね。 (初読み97/3/25)



「長城のかげ」(文芸春秋)
   宮城谷昌光
この作者,いろいろな視点から書くの好きですねえ.実際結構それが面白い.「孟夏の太陽」では流れていく時代ごとの人物(趙氏だっけね)で視点を移していったが,本作品では同時代,つまり項羽と劉邦の時代の人物で視点で動かしている.

 今まで楚漢時代での小説といえば司馬さんのしか思い浮かばないし,その存在感は圧倒的なので,読む前は「宮城谷さんはどう書いているのやら」とあまり期待していなかったが,編年体的な司馬作品とは別な紀伝体的アプローチで,それなりに面白かった.(初読み7/10)


「三國志新聞」(日本文芸社)
   三國志新聞編纂委員会/編
「三國志時代にもしも現在のような新聞があったら」という想定で,三國時代の半年ぐらいごとに見開き2ページづつの新聞を作ったパロディ本.三國志が少しでも好きだったら必見.本文はもちろん,当時いかにもありそうな広告など,結構笑える.これで4コマ漫画さえ面白ければ文句ないのだが...

 ちなみに姉妹本に世界史を扱った「歴史新聞」があるが,こちらの本は個人的には好きくない.何故ならその本では歴史が「同時代の視点」ではなく「後世の視点」になってしまっている(キリスト誕生が大きく扱われる,あくまで結果的に統一をなす王朝が始めから大きく扱われる,世界的な視野になっている,などなど)からだ.その点,「三國志新聞」は地域が中国に限られており,発行スパンも短いせいか,そういう不自然さはない.まっ,自分のレベルの問題かもしれないが... (初読み7/10)


「反骨列伝」PHP文庫
   伴野朗

 呉起や華陀についての短編集。

 私が小説に要求する「面白み」については本書の著者に対する批評として別な所に書いたし、ここでは重複を避けよう。要は「小説ならば小説として、史実通りではない面白みを十分に加えるべきだ」という考えであった。

 本書の解説を読んで驚いた。著者は常日頃「『史記』を翻訳してそのまま出したのでは小説にならない。そこに新しい解釈が加えられなければならない」と考えていると書いてあるではないか。なるほど、著者にとっての新解釈がこの程度なのか、と思わず溜息を漏らさざるを得なかった。

 断っておくと、それほど著者の作品は責められるべき内容ではない。本書だってそれなりに読めたし、本としてお粗末なものでは決してない。一方で、私は中国史ばかりを読む偏屈者であり、一般の人に比べればあまりに多くの中国史ものを読んできすぎたと言えよう。最初の頃に読んだ本は、初めて中国史ものに接した当時の感動と、美しい思い出で飾られ、もはや正統な判断はしにくい。感情で読む小説では特にそうである。つまり、私がかなり遅く著者の作品に会ったことが、まず不幸な出会いと言えるかも知れぬ。そういうことを自覚しつつも、やっぱり思ってしまうのだ。

 「中国任侠伝」は素晴らしかった、陳舜臣、宮城谷昌光は偉大である、と。

 「反骨列伝」という本書の名はしばしば聞いたことがあったし、確かに中国史を紹介する本として価値はあるかもしれぬ。だがやはり歴史を生き生きと書いているとは言い難い。

 改めて「中国任侠伝」を読む。
 嗚呼、今でも感動無しにこれを読むことが出来ぬ。思わず、読み直してしまう。何度読んでも覚えられないのは私の記憶力の無さの所以だが、何度読んでも感動させてくれるのは陳先生の力量だろう。

 「中国任侠伝」は「反骨列伝」に比べて、会話や短文が多い。つまり反骨列伝は説明調の文が多い。また任侠伝の方はフィクションありまくりである(といっても正史を読んでいないので、今までの読書経験からの推測だが)。中国史のエピソードをよく知っている人が、初めて中国任侠伝を読んだら、さて「フィクションばっかりで嘘臭い」というふうになるのであろうか。

 そういう点では伴野氏の方が遙かに歴史歴史している。私は結構歴史歴史な方が好きな気がするのだが。
 やっぱり繰り返しになるが、どうせ小説にするのなら、細かい史実なんか気にしないで、「飛んで」しまった方がいいということか。そういえば陳先生の作品「小説 十八史略」も私にとっては今一つ印象にない本である。「小説 十八史略」も伴野氏の堅さに近かったのであろうか。また、海音寺潮五郎氏の作品も同様な堅さがあったように思うが、これはもはや古典(というと大袈裟だが)になっていて魁の役割をしたことを思えば同様な批判は当てはまらないであろう。

 また別なことを考えたりする。やはり小説というものは、泣かせるぐらいでなくてはならないのではなかろうか。比較的最近の田中芳樹の小説、「海嘯」は結構堅かったがそれなりに泣かしてくれた。「中国任侠伝」も「泣かせる」本である(私だけか^^;;)。そう思うと、やはり理性的ではない、心を動かすような「感動」が小説を面白くするパワーなのでは無かろうか。理性的に歴史の面白さを解く伴野氏の小説は今一つな気がする。

 そういえばどなたかが本書に対して「登場人物が大して反骨でない」という批判をしていた。実にもっともである。こんなところも、今一つ本著のポリシーの無さを感じさせるところであろう[98/5/25]。


「奔流」
   貝塚茂樹

 田中芳樹氏は「銀河英雄伝説」などを書き、ファンタジー作家として一部の極めて強いファンを持つ作家である。しかし近頃、氏は従来の中国史への傾倒を一層深め、「今まで紹介されたことの無い時代をエンターテイメント小説によって紹介する」という使命感に燃え始めた。それについて書かれた本が私も雑想を書いた「中国武将列伝」である。本書はそのテーマが見事に達成された本だ。

 多くの人の紹介を受け、単行本小説を久方ぶりに読んでみることにした。いやあ、確かに面白い。まず題材が新鮮である。氏お得意の人物の個性描写もうまくいっている。所々に中国史に関するゾウシもなかなか深くて良い。

 とにかく氏の作品は誉めなければと思ったのは確かである  .....しかしである。何故であろう?どうも読後の感じとしてはなんだかうまく感想を書けない。うすうす、読中からも本作品に対して「確かに面白い!誉めなくては、うん、感想を書くときにはともかく誉めるのだ!」ということを自分に言い聞かせていたが、それは一方でどこかしっくりこないところがあったからを認めねばなるまい。

 はっきり言って本書に対する私の感想の客観性は極めて自信がない。そもそも小説の批評に対する客観性なんてもともと自信がないが、特に本書のような場合はなおさらである。そういうことを自覚して以下を書く。

 う〜ん、つまりは理性的には面白いんだけど、感情的には素直に「面白いっ!」と拳をふれないのである。つまりは臍を曲げてしまったのである。
 その要因はよくわからん。まず他人が誉めていること。田中氏の作品であること。それから本作品の場合は泣けるような作品ではないということが挙げられるだろうか。
 前の作品「海嘯」は思い入れ深い宋時代の話であることもあって泣けてしまった。もうそれだけで私にとっては語る言葉を持ちにくい。もう一度読まない限り、滂沱したという思いが全ての理性を覆すであろう。

 それに対して本作品はそういう内容ではない。涙するような感動の場面は少ない。思うに、ちょっとわざとらしいというのがあるのだろうか。田中氏がエンターテイメントだと強調し、さらにそれが史実なのだというほど、ある種のわざとらしさを感じるのである。そして例えば本書では戦いの場面が多いのに今一つそれらにリアリティがない。たとえば陳慶之が活躍する戦場でも、どうして彼が急所をつけるのかということを省いてそれをひたすら才能に帰しているため、どうも読んでいる自分としてはすっきりしないのである。他の者の戦いの場面もそんな感じな気がする。

 ここではこれ以上、述べない。いや述べられない。中国史物を読み過ぎてきた私の個人的な偏見としか思えないところが強いから。「もう私にとっては誉める中国史小説はないのかもしれない」と寂しく思ったものだった。が.....


「蒼穹の昴」
   貝塚茂樹

 やられた。本感想を書き始めたのはまだ読書中で、甚だ卑怯なことであるが、読書中でも感想を書きたいくらい面白さに感動した。とりわけ皆が面白いと薦める奔流に対して今一つ納得のいかなかった私であり、その自分に対して若干の嫌気もさしていたが、本書ではそういう後ろめたい思いを感じなくてすむ。自分にもまだ面白い小説があったのだという感動。

 時代は光緒帝の御代。ネタバレになるのであまり書きたくない。ともかう面白い。これも私が小説になっている時代であり、新鮮と言うことは挙げられよう。  本書と「奔流」の違いはなんなのか。まず本書では主人公がはっきり一人ではないことだろう。歴史時代小説ではよくこういうことがある。本書でも主に一人を通しては描いているのだが、中心人物は決して一人ではない。それぞれの場面でそれぞれが主人公なのである。そういえば私が好きな本は得てして小説はそういう本であることに気がついた。

 宮城谷作品もそうだし陳作品もそうだ。吉川三国志もそうだろう。主人公をはっきり限定し、その魅力を描きすぎるとその人物中心に話が流れ、他の個性が薄まりやすい。そうだ、とりわけ「奔流」では主人公があまりに格好良すぎるのもあるのかもしれない。

 本書での人物の書き方を見よ。その人物中心に描いている場面と、他の場面で描かれているその人物の雰囲気が全く違う。それは矛盾を感じさせると言うことではない。人間の印象というのは相手によって、場面によって全く異なるものであり、ステレオタイプ的な一元的なとらえかたなんて不可能な筈なのだ。ある人物を百人の目から見たとき、それぞれの描き方が異なってくるはずであり、あたかもたくさんの人物が登場し、主人公が複数かのように錯覚させるのは大河小説に相応しく、うまく描ければそれが個性を矛盾無くしかも強烈に浮かび上がらせる。各人物の登場場面で、強烈な印象を与えさせ、その余韻を別なところで読者に引っ張らせる手法は見事としかいうほかない。

 我々は後ろの場面になると「ああ、あの梁か」とか「ああ、あの楊か」とか、まるでそいつが知人であるか、または実際に耳にしたかのような感覚で、登場人物達をありありと思い出すことが出来るのだ。