蒙古,元

成吉思汗{チンギス・カアン}(モンゴル) Cheng2ji2Si1Han1 1162-1227
 モンゴル帝国の創始者。騎馬隊を用いてユーラシア大陸を席巻した。その領土は東は中国から西はキエフにまで広がる。多面に渡って東西文化の融合を図ったが、容赦ないその征服は多くの国々で恐れられた。

マルコポーロ 1254-1324
 ヴェネチアの人で旅行家。元の時代,陸路東洋に向かい,元の世祖の厚遇を受けた。帰国後,ヴェネチアとジェノバの戦いに参加し,捕らえられ獄に投ぜられた。『東方見聞録』(正式名称「百万の書」「世界の記述」)はその際に口頭筆記したものである。この書は世界地理書として彼の死後,大きく評価されコロンブスなどはこの本を読んで世界一周を試みた。
 しかしその存在は他の文献では扱われなかったり,内容的に本当に実際に見聞したのか疑わしい記述も多いらしく,その実在説,あるいは単人説を疑う声も上がっている。
百九十

ジョチ{朮赤,拙赤} ?-1224
 チンギス・カアンの長子。その意味は「賓客」である。父からは差別を受けることなく待遇されていたが,略奪婚を習慣とするモンゴルの風習の中でその出生は周囲から疑われ,後継者からは暗黙のうちに外されていたらしい。
 対金戦争や西征軍の頭として活躍したが,遠征したシルダリア地方で父より先に没した。

耶律楚材(モンゴル)  Ye1lu4Chu3cai2 1190-1244
 モンゴル帝国の政治家。契丹族で遼王室の子孫。学者として名が高く、各分野の知識に精通していた。太祖、太宗の二代にわたって使え、各種の制度の制定に貢献した。単なる搾取と残忍さに走りがちだった元において、それを抑え、多くの人々の命を救った。
 なお彼の役割を過大評価だとする見方もある。
四十六

トルイ{睿宗} 1192?-1232
 チンギス・カアンの第四男。チンギスの没後二年間,国権を代行。その後,受け継いだ多くの兵力と土地を兄オゴデイに献上したと伝えられる。
 その後,対金討伐に活躍するが急死した。
 彼の家系はフビライを生み,中国における支配者の系統となった。上のような美談が伝えられる一方,彼は死ぬとき,「オゴデイの身代わりになる」といって酒杯を飲み干して,意識混濁して死んだという記述があるらしく,オゴデイによる暗殺も考えられる。

クビライ・カアン{大元初代皇帝成祖}
 大元の建国者。モンゴル族の中では比較的漢文化に理解を示す。モンケ・カアン死後、弟のアリクブケと大カアンの地位を争った。東方の勢力を傘下に収め、アリクブケに対しては実力で勝つとともに、他の地域のウルス(国)、すなわち西方支配者であるジュチ家、西アジアを収めたフラグ、チャガタイ家に対しては各々の微妙な立場を利用して賛同を得、大カアンに就任した。しかし前代までのようなモンゴル全体での統合はなされず、東アジアと中央アジアの一部を直接支配できるにとどまった。
 南宋攻略、大都建設、支配システム確立など、大元の基礎を確立した。

バトゥ
 キプチャク=カン国{ジュチウルス}の実質的建国者。チンギスカアンを継ぐオゴデイカアンの御代,西方遠征が企画されたが,その総司令官として西北ユーラシアを委ねられるはずだったチンギスの長子ジュチの子で,ジュチ家の当主となっていたバトゥが任命された。
 バトゥはキプチャク大草原を征服し,キプチャク諸集団(トルコ系遊牧諸民族)を統合し,その大軍団を利用してロシアを支配,続いてハンガリーに侵入し,ポーランド,ドイツにまで攻め込んだ。そこで「タタールのくびき」と言われる災いを残したとされるが最近その残虐性に対して異論もある。
 オゴデイの死後,続々と東方へ帰国するモンゴル諸王家に対してバトゥらジュチ一門(バトゥウルス,諸子ウルス,オルダウルス)は退かずにそこに根をおろした。オゴデイの子,グユクはその母のドレゲネの努力によりモンゴル帝国第三代大カアンとし即位したが,バトゥは彼と不仲でやがてグユクは大西征を企画,その意図は恐らくバトゥ退治にあり,あわや大カアンとして即位したグユクと,西方で圧倒的な実力を持つバトゥとの両頭対決になるかと思われた。が,そこでグユクは死去。バトゥによる暗殺が囁かれる。
 生き残ったバトゥはその実力を背景に異例のモンゴリアでない中央アジアでクリルタイを召集し,仲の良かったモンケ(チンギスの末子であるトルイの子)を即位させる。その結果,ジュチウルスはユーラシア西北での覇権が決定的となった。

郭侃
 元の武将。徳海の子。字を仲和。勇気があり、計略の才もあった。対金戦に活躍し、後にフラグの西方遠征に従い、西アジアを平定した。現地の人々は「神人」だと驚いた。憲宗が没すると帰国して、フビライに対して、国号宣言、都城の建設、学校の普及などを提案した。南宋の平定ではまず襄陽の獲得を勧めた。
二百九十四

カイシャン{海山、大元第三代皇帝武宗} 1281-1311
 元の皇帝。成宗テムルの死後、筆頭皇后のブルガン・カトンの手引きにより即位したテムルの従兄弟アーナンダをテムルの息子アユルバルワダはクーデターにより倒した。しかしその後、同じくテムルの息子で最も帝位に近いカイシャンは中央アジアの賛同を受け、「大返し」により上都に入城した。大都のアユルバルワダ一同は勢いに乗るカイシャンの即位を結局認め、カイシャンは大カアンとして即位した。ペルシア語の記録によると素直で愛らしい人柄で、若々しい武者ぶりと最前線に突入する勇猛さで敵味方を問わず、広くモンゴル牧民達に好かれていたらしい。
 だが即位後はばらまき政治を行い、ラマ教を狂信、即位後四年にして謎の死を遂げた。
百七百六十五

トクト{脱脱}(元)
「脱脱(元)」から直させて頂きました.
 元末の政治家。科挙を復すなど、善政に勤め、賢相とされる.「遼史」「金史」「元史」を編纂するなど、世祖フビライの信任を受ける。