晉,東晉十六国

■ 晉 ■

賈南風(西晋)
 惠帝の皇后。晋建国の謀臣となった賈充の娘で、その功績と賄賂攻勢で皇太子皇后になれたとされる。顔は醜く、背は低く、嫉妬深く、権謀術数を好んだとされる。「米がないなら肉を喰えばよい」と、遙か後世の異国皇后のようなことを言った暗愚な皇帝である惠帝が即位すると、その外戚である楊氏が権力を握ったが、彼女はそれを憎み、楊氏を追い落とした。賈氏の天下は十年ほど続いたが、彼女の子でない惠帝の皇太子を廃するに及んで、皇帝一族のクーデタが勃発、晋を滅ぼし八王の乱となった。

孫秀(西晋)
 賈氏に対してクーデタを起こした司馬倫の家臣。司馬倫と共に賈氏の廃后を図り、成功し帝位に就くと侍中中書監に任じられ、忠良の人物を殺害し、その威信は朝廷を席巻した。齊王司馬ケイが司馬倫を伐つと殺された。

司馬保
 司馬模の子供。字を景度。小さい頃から文才があり、著述を好んだ。ふっくらしていて、自ら体重八百斤あったと言っている。司馬模が殺されると大司馬を称し、百官を敷いた。愍帝が即位すると相国となり、やがて愍帝が蒙塵すると晉王を称した。死後は元王とおくりなされている。

潘岳(晋)
 各種の官職を歴任するが、「八王の乱」に巻き込まれ殺された。著書に「潘黄文集」がある。美男子だったことでも有名。

羊[示古]{叔子}(晋)
「羊叔子(晋)」から直させて頂きました.
後漢末の名士、蔡ヨウの外孫、司馬師の義弟にあたる。魏、晋に仕え、荊州の軍軍官となり呉の陸抗と対峙。両者の友誼が有名。

王浚(西晋)
 散騎常侍王[水冗]の子。その爵位を継ぐ。八王の乱では賈后につき,北京において早くから自立を志した。婚姻関係により鮮卑の部族,段氏と結び,その勢力を利用して石勒と戦わせた。段氏は石勒に捕まったが,丁重に帰されたため,この後段氏の中には心を石勒に寄せる者が多かったという。
 後には石勒に慇懃の態度を示され,彼をすっかり信じたが,その油断を突いて殺された。

石崇(西晋) 249-300
 富豪。呉の討伐に功を立て,荊州刺史となった。地の利により,巨万の富を得て奢侈を競った。

■ 東晉 ■

王導(東晉) 267-330
 東晉建国の功臣。司馬睿を擁し,建康にて建国せしめた。南方豪族をよく東晉配下に集めさせ,また各種制度を整えた。その方針は寛治を用い,これによりよく東晉を安定させたとされる。例えば北方から逃れ来る名族には,司馬睿の軍の弱小を見て不安になる者でも,王導に会って世事を論じて安心した者などもあったという。
 疎んぜられりしたこともあるが,結局死ぬまで重鎮をなした。

王敦(東晉)
 王導の従兄。東晉の建国に将軍として活躍。よく人望を得,機略に富んでいた。しかし元帝が王氏の圧迫を試みようとすると,側近の罪を罰するとして,朝廷に迫り,側近を追い出させた。やがて中の悪い明帝が即位すると再び朝廷との間で険悪な関係となる。
 朝廷では王氏に対する反発強まり,王敦の方でも朝廷に反発する部下達を抑えられず,戦端は開かれたが,まもなく王敦病死し,結局一族誅せられて収まった。

謝安(東晉)
 桓温の死後,東晉の政治を統べた。風流の遊楽をもって誉れを得ていたが,政治家としても期待され,またそれを裏切らなかった。東晉建国の功臣,王導と同じく,寛治をもって一貫し,北府が桓氏の勢力であるのを無理して抑えず,そこは彼らに任せて,長江下流の朝廷付近の軍備をまとめた。すなわち江北淮南の軍権は,一族にしてまたその将才夙に聞く謝玄をもってし,符堅の南征をよく防いだ。
 符堅を破った捷報が入ったとき,客と碁を打っていたが,その場では落ち着いていたものの,客が帰ってから浮かれ下駄の歯を折って転んでしまったというエピソードがある。
 しかし孝武帝を操る権力者に乗ぜられ,北伐に仮託して一族を率いて江北江陵に遷りてそこで病死した。

謝玄(東晉)
 謝安の甥。将才を認められて、北府の重鎮となり、劉牢之、何謙を配下に収めて前線で符秦に対抗した。符堅の南征から東晋を守り、為に前秦を崩壊せしめた。

桓沖(東晉)
 桓温の弟。桓温の死後、謝安と協力し、東晋の安定に努めた。

王羲之(東晋)
(東晋)を付け字を直しました。
 書家。各種の官を歴任。隷・楷・行・草を芸術的な書体に完成して「書聖」と呼ばれた。
二十五六十八

桓温(東晉) 312〜373
 安西将軍・荊州刺史となり、成漢(蜀の地)の李成を伐ち、さらには前燕と前秦の真空地帯を利用して洛陽を奪取、東晉において絶大な勲功と名声を得た。しかし慕容垂(後に後燕を創建)らの洛陽争奪戦に敗れ、一気に威名を失った。後には天子を廃立して新王朝の建国を夢見たが病死。
百十八

■ 五胡十六國 ■

劉淵{後趙高祖光文帝}(漢)(?-310)
「劉渕」は「劉淵」と見なし、{}を加えました。
 五胡十六国、漢の創始者。匈奴の一部族の首領。当時、匈奴を含む異民族は、国内へ強制移住されたが少数民族として差別的な待遇を受け、それに対する不満が八王の乱の国内混乱を契機に爆発し、長い分裂時代を生みだした。彼はその先頭を切り、擁立されて匈奴の族で大単于となり、漢王を称した。なお劉姓を名乗ったのは昔に漢と匈奴が姻戚関係だったためである。

石勒{後趙高祖明帝}
 羯族。後趙の建国者。当時羯族は流亡の境遇にあり、行商をしたり奴隷として売られたこともあった。後に群盗の仲間に入る。
 やがて劉淵の武将となるが、西晉が滅亡すると独立して後趙を建てた。彼は漢文化を重んじ、漢人と異民族の二重体制を取った。特に中国の歴史書に関心を持ち、自らは文盲の為、傍らで高祖本紀などを読ませていたという。

張賓(後趙) ?-322
 後趙の大臣。石勒の謀臣となり,その覇業を助けた。山東に地盤を築かせ,前趙配下のライバル,王弥を殺し,北京地方で自立していた王浚を騙し討ちにしたのも彼の知恵だったとされる。

石虎{後趙太祖武帝} ?-349
 後趙の第三代皇帝。残忍であったが、軍を率いるのに優れ、石勒に重んじられた。後趙が華北を広く征覇できたのも彼の役割が大きい。彼は石勒の養子であったが石勒の実子を廃して皇帝の位についた。
 石勒と同様に中国の学問に強い関心を持ち、仏法を尊崇した。
 鮮卑族の統一を目論む慕容コウ[皇光]と結び東北に進出し、やがて慕容氏をも攻撃するが撃退され、慕容コウ[皇光]は東北を支配して後の前燕の基礎を築いた。両者の死後、後趙は前燕に敗れた。

張天錫{前涼悼公}(前涼)
表記を若干変えました。
 五代十国のうち、甘粛地方に勢力を持った前涼の第九代王。張玄[青見]を殺して大将軍校尉涼州牧西平王と自称。酒を好み、国政が乱れ、人心が離れて衰退を招いたとされる。東晋と結び符堅と対抗しようとするも、攻撃を受けて降伏。
 [水肥]水の戦いの後、国に帰り東晋に帰属。
二十四

禿髪烏狐{南涼武王烈祖}(南涼)
少し表記を変えました。
 甘肅地方に勢力を持った南涼の実質的建国者。鮮卑族で涼州で力を持っていた禿髪樹機能の従弟。樹機能の死後、彼が受け継いだが志があり、後涼懿武帝・呂光によって假節冠軍大将軍に任命される。やがて兵を起こして大単于・西平王を称し、国を建てた。後に酒によって落馬し、それがもとで死んだ。

禿髪利鹿孤{南涼康王}(南涼)
少し表記を変えました。
 烏狐の弟で彼の位を継ぐ。河西王を称し、後涼建康公・呂隆を大いに敗った。

乞伏熾磐{西秦太祖文昭王}(西秦)
表記を変えました。
 西秦の第三代王。鮮卑族。勇敢で剛毅であった。南涼景王・禿髪[イ辱]檀を攻め、これを降した。兵は強く領土は広かった。在位十六年。

沮渠蒙遜{北涼太祖武宣王}(北涼)
表記を変えました。
 英傑で権変の才があった。匈奴。諸異民族が服した。後涼懿武帝・呂光が彼の伯父を殺すと、段業という者を涼州牧そしてついには王と称させてた。後に段業を殺し、自ら涼王を称す。淫暴で残虐であった。

苻堅{前秦高祖明帝}(前秦) Fu2Jian1 338-385
 前秦の第三代王。暴君苻生を殺して帝位につく。漢人の王猛などを用いて国力を充実、前涼、前燕を滅ぼして華北を統一した。テイ族出身であるが中華文明に惚れ込み、中華文明に基礎とする多民族の融和を目指した。理想主義で中華国家の統一を目指し、華南の東晋へ攻め込むが大敗、敢え無く前秦は崩壊した。

慕容垂{後燕世祖} 384-409
 後燕の建国者。前燕の慕容儁に皇族として仕えた。その死後、慕容イ[日韋]が幼帝として位に就いたが、桓温の北伐の危機を迎えた。しかしその際、慕容垂は前秦の苻堅と結ぶことを提案し、また戦闘での彼の活躍の末、勝利を収めた。しかし声望が高まるにつれ実力者の慕容評に疎んじられ、殺されそうになり、前秦の苻堅のもとへ亡命した。苻堅の所では厚遇を受け、冠軍将軍となり、賓都侯に封じられた。
 やがて苻堅は北側を統一したが、南北決戦を挑み、そこで敗北。苻堅の国は一気に瓦解した。その帰路、慕容垂は配下の一族の者達から独立を強く勧められたが、苻堅に恩を感じていた彼は簡単に裏切ることを潔しとせず、苻堅を洛陽まで護衛した。しかし情勢は如何とも出来ず、苻堅に東を治めることを申し出、許されて東に向かい、そこで独立した。彼が帝を称するようになったのは二年後のことであり、あくまで苻堅と争う気はなかったようである。
 旧前燕の領地を回復したが、勢力を拡大する北魏への対処に頭を痛め、その討伐の途中で没した。

赫連昌(夏)
 夏の創設者である赫連勃勃の子。赫連勃勃の死ぬや,彼を含むその子らは相争い,関中は大乱となった。魏の太武帝はこれを聞いて,首都に攻め込み,昌は迎え撃ったが城は取られなかったが敗北し,後に逃亡。やがて太武帝に降伏を認められ,秦王に封じられたが謀反に連座し殺された。在位は四年。
百七十三(無)

赫連定(夏)
 夏の創設者である赫連勃勃の子で昌の弟。凶暴無頼であった。昌の敗北後,平涼に逃げ,自ら尊号を名乗った。魏の太武帝に攻められ方陳に逃亡,そこも攻められ単騎で逃げ,配下を集め直すものの,吐谷渾慕[王貴]に攻められつかまり、首都に送られ殺された。在位四年。
百七十四(無)