東漢

本紀
劉秀{後漢光武帝} {Guang1xu4Di4} 前6-後57
「劉秀(後漢光侮)」でしたが「光武帝」の誤植だと思われますので直させていただきます。
 普通ならば皇帝には絶対なれないような皇族であったが、漢末に巡り合わせて後漢を建国(漢を再興)。建国の皇帝としてはあまり目立たないが、人格、能力とも優れていた。
二十二二百八十九

KOUBUTEI
劉荘{明帝}

劉[火旦]{章帝}
 白虎会議が開かれた。

劉肇{和帝}
 竇太后の元で即位。外戚竇氏の専権を憎み、その打倒を試みる。同じく竇氏を憎む異母兄弟と団結し、宦官鄭衆の協力を得て、逆クーデータに成功。これ以後、宦官の勢力が伸びる最初の契機となった。

劉[示古]{安帝}(後漢)
 和帝の外戚トウ氏によって擁立。和帝と同様、外戚の専横を憎んだが、その排斥を実行に移したのはトウ氏の死後であった。しかし排斥してみるとトウ氏の治世は意外に公平で評判が良く、彼の逆クーデータの成果は非難された。
 また皇后閻氏の策謀により、唯一の皇太子劉保を廃する程であった。

劉保{順帝}
 安帝の外戚、閻氏は安帝の死後、劉懿{少帝}を即位させたが、やがて宦官孫程は十九人の宦官仲間と共に閻氏に対するクーデータを成功させ、劉保を即位させた。彼はこのように宦官によって即位したが、外戚梁氏を用いて宦官の専横を抑えつけることを試みた。

劉纉{質帝}
 沖帝の死後、李固が年長の皇族を選ぶべしと主張するのに反して、梁冀によって八歳で即位。梁冀の専横を悟り、「跋扈将軍なり」と言ったためすぐに梁冀に殺された。

劉志{桓帝}
 梁冀によって擁立される。最初は梁冀の思うがままであったが、やがて梁氏排斥を決意するや、実行に移す。これによって外戚梁氏は一掃されたが、それに活躍した宦官達が「五侯」として封爵を授けられ、宦官専権時代が到来した。
 官僚グループと宦官グループの対立が先鋭化,宦官による清流派官僚の排斥である第一次党錮の獄が発生した。

劉宏{霊帝} 156-189
 竇太后によって擁立。竇太后の父,竇武は名士で有名だった陳蕃,李膺らを用いて宦官を除こうとしたが逆に反撃されて第二次党錮の獄が発生、多くの官僚とその関係者が殺された。
 やがて黄巾の乱が発生し、董卓に廃された。
百八十七

列伝
馬援
 茂陵の人。字を文淵。
 若いときから志大きく、郡の督郵となる。とある囚人を解放し、北へ亡命してしまう。そこで牧畜を生業としたが、多くの客が集まりいつのまにやら有力者になってしまった。王莽は新城大尹に任じた。
 王莽が敗れると隗囂についた。隗囂から群雄勢力である公孫述、劉秀の偵察を頼まれ、公孫述を評した言葉が「井底の蛙」。一方で劉秀を評価し彼との同盟を勧め、自らは劉秀の配下に馳せ参じた。
 後に劉秀は隗囂と敵対し、馬援を伴って隗囂を攻めた。馬援は米粒を使ったジオラマで戦場の状況を皇帝に説明し、劉秀を喜ばせた。すなわち「虜(てき)は我が目の中にあり!」。
 建武中に伏波将軍となる。ベトナムを平定する。帰ってから吐いた言葉が「男子たるもの、辺野で死すべし。床の上で児女の手の中で死ぬべからず」。
 62歳でも出陣しようとし、甲冑をつけて馬に乗り謁見。皇帝は「矍鑠たるかな、この翁!」と感嘆の声をあげた。
 本人は誠に豪快な人生を送った人だが、兄の子への忠告では「もし人生を手本にしたいなら謹直な人を学ぶべきだ。それを学んで失敗してもそうそう間違った人間にはならないが、豪傑気質の人を学ぼうとして失敗してしまったなら目も当てられない。単なるヤクザになってしまう。(鵠を刻して成らざるも尚お鶩に類するものなり、虎を画いて成らずんば反って狗に類するなり)」。
 80歳の時、武陵五渓蛮が反乱し、これを討っている時に陣で没した。ところがその後、讒言を受ける。しかもベトナムから帰国の際、健康食品だがあまり価値はないハトムギを持ち帰って来ていたが、ふざけて人に見せなかったことが禍し、「彼は戦利品を独り占めにするようなヤツだ」ということも吹聴されてしまう。「ヨク苡(ハトムギ)の謗」である。皇帝の怒りを散々に浴び、馬援は死後罪人扱いにされてしまった。
 朱勃は彼と若いときから友達であった。60歳になっていたが、命を顧みず上書して馬援の無罪を陳情した。実質上名誉回復をされた。
『続・中国任侠伝』陳舜臣(文春文庫)、他
二百四十五

班超(後漢) Ban1Chao1 32-102
(後漢)を付けさせていただきました。
 学者一家に生まれたが本人は剣を選びて西域を平定。西域は匈奴と漢の間で常に勢力争いの境界となっていた。当時は国策によって西域放棄の方針が決められたが、個人的な力量と判断で西域を漢に服属させた。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の名言を残す。
 兄の班固、妹の班昭が「漢書」の編纂者.
三十三

蔡倫(後漢) Cai4Lun4 ?-121頃
(後漢)を付けさせていただきました。
 それまでの製紙法を改良し、優れた紙を発明した。105年、和帝に奉り、広く使われ、蔡侯紙と言われるようになった。
 和帝の時代、竇太后に嫌われた宋貴人を自殺に追い込んだ調査をしたのが彼であったが、後に宋貴人の孫の安帝の時代になって責任を問われて自殺した。

李膺 110-169
 後漢末の官僚。襄城の人。字を元礼。当時は官僚と宦官の争いが激しかったがその中で清流派の一人として有名。
 桓帝の時、司隷校尉となったが宦官を恐れず、その張譲の弟でさえ殺したことから皆に畏怖された。その毅然たる態度は世間の清流派の中で名声を博し、彼と交際できたことを「登龍門」と呼んで喜んだという。そのもてはやされぶりは「天下の模楷(模範)李元礼、彊禦(悪党)を恐れず陳仲挙、天下の俊才王叔茂」という言葉が流行したほどであった。
 宦官への強い態度を強めた結果、宦官達の反撃、すなわち第一次党錮の禁に遭って、真っ先に逮捕された。清流派は取り調べに当たり、節を曲げなかったと言うが彼もまさしくその一人だったのであろう。清流派で逮捕されない者には、連座しないことを恥じる風さえあったという。その結果、清流派の世論が勝ち、取りあえず釈放されて帰郷した。桓帝の死、靈帝の即位を利用して陳蕃などが再び宦官への攻撃計画を立てたが、宦官派に機先を制せられ、第二次党錮の禁が行われ、結局殺されてしまった。