蓮如上人のご生涯

新潟教区与板組光源寺清水正朋師

蓮如上人は応永22年、(西暦1415年)2月25日、京都東山の本願寺でご誕生になられました。

お父様は本願寺第七代「存如上人」です。

お母様は存如様のお側で身の回りのお世話をなさる女性であったと伝えられています。またお母様は、親しく存如様を通して、親鸞様のお勧め下されたお念仏のおこころを深くお慶びになられたお方でもありました。

そんな母上の常なるお諭しは、「一切の人々を平等にお救い下さる南無阿弥陀仏のみ教えを、自分も慶びそして一人でも多くの方にお伝え申しあげること」でありました。

蓮如様はお母さまのお諭しを心に命じ、お若いときから本願寺の興隆を志し、勉学に励まれました。

蓮如様のご生涯は、その母のお諭しを実践されたことによると言っても言い過ぎではありません。

その頃の本願寺は、狭い御堂と蓮如様一家のお住まいがあるだけで、参拝する人々も殆どなく、寂しい佇まいであったといいます。

17歳のとき青蓮院で剃髪得度し、諱を兼寿、法名を蓮如と申されました。

20歳のとき親鸞聖人がお書きになられた、『浄土文類聚鈔』を書写され、以来『教行信証』や『三帖和讃』等、重要なお聖教を写して、ご門弟に授与されるなど、父、存如上人の補佐に当たられました。

蓮如様43歳の長禄元年(西暦1457年)6月18日、存如上人がご往生され、蓮如上人が第八代をお継ぎになられました。

この頃、社会は少しづつ進み、農業生産力の向上や、今まで特定の権力支配者の下に所有されてきた農地制度(荘園領主)の没落等によって、農民層の人々は次第に力を付け、やがて農民層だけによる社会(自治的な惣村)が造られてゆきました。

蓮如様はこうした社会の変動の中で、懸命に伝道を開始されたのであります。

また蓮如様は本願寺の堂内を、お聴聞し易い形に直されて、ご法話のときにも親鸞聖人がお勧めになられた、御同朋御同行のお心に添い、平座で人々と親しく膝を交えて仏法を談合(ご法話)されました。

蓮如様の熱心な伝道により、お念仏の輪は近畿から北陸・東海地方へとひろがりました。

また、『南無阿弥陀仏』のおいわれの面からお讃えした十字名号『歸命尽十方无碍光如来』をご本尊として、全国の門弟に交付されました。

これも、御文章で「南無阿弥陀仏の謂れを聞き得るが肝要」とお勧めくださるお心に相応するものであります。

こうしてお念仏のみ教えは、混乱の世の中で苦悩する民衆に、広く受け入れられてゆきました。

しかし、これが逆に比叡山(時の仏教界の中心的存在)を強く刺激することにもなったのです。

無碍光の邪義(阿弥陀仏が救ってくださるのだから、どんなに悪いことをしてもよいといった誤った考え)を説き、人々を惑わすものであるという誤解から、寛正6年(西暦1465年)に大谷本願寺は比叡山の衆徒によって、打ち壊されました。

蓮如様はやむなく御真影様(親鸞聖人の影像)と御一緒に、京都の東山大谷を退去され、琵琶湖、東岸・西岸地域の近江のご門徒を頼りに、お住まいを変えられ、やがて親鸞聖人・覚如上人以来、本願寺と有縁の地である北陸は越前、吉崎を拠点として北陸の各地を布教されました。

また蓮如様は、親鸞聖人がお手紙によってご門徒を教化された先例に倣われ、本願寺第八代宗主をお継ぎになられて4年後から、ご往生の前年まで精力的に御文章をお書きになられました。ことに吉崎の地でも、人々の日常生活に即した、解り安いお手紙、御文章のご制作にお心を尽くされました。

それは、親鸞聖人のお勧め下されたお法が「信心正因・称名報恩」にあることを「タスケタマヘと弥陀をタノム」という、当時の日常用語を用いて解り易く示されたもので、浄土真宗のご信心とは、阿弥陀様の「弥陀をタノメ、必ずタスケル」の勅命に対して全く信順(タノメに対してタノム・タスケルに対してタスケタマヘ)した、疑いの晴れたこころもよう(信心)が肝要とお勧めくださいました。一般の宗教のいう、信じ込む信心と性格の異なるところです。

御文章が行き渡ることによって、急激に親鸞聖人のみ教えは、全国各地に広まることとなりました。

蓮如様がその後、生涯お書きになられた御文章の数は、二百数十通に達しました。

さらに蓮如様は朝夕の勤行に、それまで往生礼讃を用いていたのを改め、親鸞聖人がお書きになられた『教行信証』の『行の巻』の結びにある『正信偈』と、『三帖和讃』を一つにして刊行されました。

これによって現在のような、お正信偈とご和讃をみんなで親しく唱和させていただくお勤めの原形となっていったのであります。

また蓮如様は、争いを避けられるために、比叡山による弾圧の口実となった、無碍光本尊に替わって、六字名号を上紙に墨書し、お授けになられました。

ご門徒が増えるにともない、1日に300枚も書かれることもあったといいますから、ご生涯に授与されたお名号の数は想像を絶するものといえます。

しかし、また蓮如様は、
「本尊名号をもって、身を七重八重にまといたりとも、信をえずば、仏になりまじく候」(
実悟記
と戒めれられ、お名号のおいわれ(タノメ・タスケルの勅命)を聞き得た信心が大切なことを強調されました。

こうして、蓮如様は、人々の中に深く溶け込んでゆかれました。

現に苦悩していきる我々の身の上に、「阿弥陀様がご一緒下さるのだ」と、等しくお勧め下さる蓮如様のご姿勢に触れた民衆の勢いは、吉崎に門前町を形成する程になりました。

この吉崎を中心とする蓮如様の北陸教化は、当時台頭しつつあった農民層に広く受け入れられた一方で、その本願寺の勢いを利用とする野心家も現われ、争いを避けようとされる蓮如様の思いとは裏腹に、一向一揆などの予期せぬ事件が蓮如様を悩ませました。

ついに蓮如様はこの地の滞在を断念し、吉崎を去られることになりました。

吉崎を去られた蓮如様は、近畿の各地をへて、京都山科に本願寺を再興し、この地を中心に、再度精力的に布教活動を行ってゆかれました。

蓮如様の時代に浄土真宗は広く全国に行き渡りました。

蓮如様七十五歳のとき、寺務を実如上人にゆずられ、明応8年(西暦1499年)3月25日、85歳をもってご往生になられました。

蓮如様の和歌に、
「後の世に、我が名を思い出しならば、弥陀の誓いを深くたのめよ」
と詠われました。

正に蓮如様のご一生は、偏に阿弥陀如来の誓願を人々に知らしめんがためでありました。

お称名

(本文中、空白行はホームページ作成者が入れました)


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