市内〜郷土の森〜国分寺跡〜殿ヶ谷公園〜野川公園〜市内

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 分倍河原古戦場の碑
  郷土の森の裏側にある下河原緑道に入って中河原駅まで行く。そこから分梅道を行き高速道路の手前で右の新田川緑道 に入ると、新田義貞と北条泰家が鎌倉幕府の存亡をかけて戦ったという 分倍河原古戦場跡の碑がある。 この場所で、最初は新田軍が負けるが、三浦一族などの応援ありすぐに勝利して鎌倉を攻める。この場所が分かりにくいの で、お巡りさんに教えてもらいました。ここから新田川緑道を進み、また、下河原緑道に戻る。

 下河原緑道
 明治43年東京砂利専用鉄道として開業し、通称下河原線と言割れていたようである。詳細については、 旧下河原線跡特別レポート に記載されており、昭和51年に廃線となってから国道20号線から南側は府中市によって下河原緑道として整備された。
 この後、甲州街道を横切り府中街道を北上して北府中駅前を通過して、一旦、武蔵台公園(緑地)によってから国分尼寺跡 を探す。JR武蔵野線沿にあるので見つけやすい。

 国分尼寺跡
 聖武天皇の詔により鎮護国家を懇願するために寺院として国分寺と合わせて国ごとに建立されたと説明されていた。この 尼寺の脇を鎌倉までの道が通っていたため、脇に鎌倉古道がが今でも残存している。その道の脇には伝祥応寺跡があり、 これも国分尼寺に関連にしているものと考えられている。

 国分寺・武蔵国分寺跡
 国分尼寺跡からJR武蔵野線を潜って、府中街道を横切り直進すると、武蔵国分寺跡に出る。武蔵国分寺跡の北側に 現在の国分寺があり、住職が13年かかりこの地で万葉の歌に出る植物を集めて万葉植物園を造った。また、境内には 文化財保存館があり、武蔵国分寺の模型や遺蹟が置いてある。この近くに仁王門や薬師堂があり、少し離れて七重塔跡 がある。七重塔跡は案内図が不正確で探すのに少し迷った。

 お鷹の道  江戸時代に徳川家の鷹狩場として指定され、崖下の湧水を集めた小川沿いにいつしか「お鷹の道」と言われるように なったと説明されていた。この小川は湧水が水源のためホタルが生息できるほどきれいなようである。この遊歩道は 狭いので、自転車は降りて進むことになる。    

分倍河原古戦場の説明 新田川緑道の案内 分倍河原古戦場の石碑 下河原緑道に戻り左折
分倍河原古戦場の説明 新田川緑道の案内 分倍河原古戦場の石碑 新田川緑道を進んで、また
下河原緑道に戻り左折
郷土の森」方面 「国分寺」方面 旧下河原線の説明 武蔵台公園の散歩道
「郷土の森」方面の
下河原緑道
「国分寺」方面の
下河原緑道
旧下河原線の説明 武蔵台公園の散歩道
国分尼寺跡 国分尼寺跡の石碑 国分尼寺跡の説明 国分尼寺跡の金堂跡
国分尼寺跡
(新しく整備された)
国分尼寺跡の石碑 国分尼寺跡の説明 国分尼寺跡の金堂跡
(殺風景な広場)
鎌倉古道の一部が残存 伝祥応寺跡 国分尼寺跡の説明 武蔵国分寺跡に
鎌倉古道の一部が残存 街道の途中の
伝祥応寺跡
国分尼寺跡の説明 府中街道を横切って
武蔵国分寺跡に
国分寺の金堂跡 国分寺跡の案内 国分寺の石碑 国分寺楼門
国分寺の金堂跡
(ひろい広場になっている)
国分寺跡の案内 国分寺の石碑 明治にここに移設
された国分寺楼門
現在の国分寺 境内は万葉植物園 花木に万葉の歌 文化財保存館
現在の国分寺 境内は万葉植物園
になっている
花木に万葉の歌
13年かかったとの事
文化財保存館が
右側にある
武蔵国分寺の模型 国分寺仁王門 石段の上に薬師堂 隣には八幡神社
文化財保存館の中にある
武蔵国分寺の模型
国分寺仁王門 石段の上に薬師堂 隣には八幡神社
「お鷹の道」 周辺の案内板 お鷹の道遊歩道 ホタルが生息
国分寺の右側から
「お鷹の道」になる
周辺の案内板 お鷹の道遊歩道 「お鷹の道」の脇の小川には
ホタルが生息
武蔵国分寺の七重塔跡 七重塔の説明 まだ発掘中でもある 湧水が集まって野川
武蔵国分寺の七重塔跡 七重塔の説明 まだ発掘中でもある 湧水が集まって
野川になっている


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