振り返る東日本大震災リポート1.振り返る東日本大震災リポート7.


振り返る東日本大震災リポート7.

下のシートは2011年11月8日に、アメリカ大使館で発表されたもの。

大リーグ選手会によるプロジェクトも発表されたイベントに組み込まれた。

東北地方の青少年野球チームに津波で失われた用具の提供

 

 
 
 



振り返る東日本大震災リポート6.

支援がトップダウンから、地元からのボトムアップに変更になり、被災状況の調査を始め、石巻支部の各チームからアンケートを戴いた。
送られてきた結果を見て、まず、絶句、胸が詰まる。頑張って、ビル・ヤングさんと翻訳、さらに、ビルが、ジャンボ大会で撮った石巻支部・
各チームの球児が入場、行進する写真を添付して、ピーター・ミラーさんへ、さらに分析してものを選手会本部に送付した。

それから、本部から返事が来るのが3ヶ月後であった。その間、この話がどうなるか、気が気ではなかった。後で、分かるのだが、
ニューヨークでは、大きなプロジェクトとして、米政府の段階で検討が始まっていた。まさか、選手会の支援だけではなく、米日政府の事業になるとは。

   

下の写真は、ジャンボ大会のプログラムと大リーグ選手会と選手会トラストからのメッセージ

   

   
 



振り返る東日本大震災リポート5.

大リーグ選手会と選手会トラストの東北支援の話も進み、ピーター・ミラーさんから石巻の少年野球チームの実態のアンケートを採って欲しいでと言われ、
通訳兼翻訳家係のビル・ヤング君とドリームシートである「”We are with you"我々は共に」の調査を始めた。

また、石巻支部の米谷さんから、大リーグのメッセージが欲しいと言われ、ニューヨークの選手会会長、選手会トラスト会長のメッセージが届き、
日本語翻訳を、職員の田中喜芳君に頼み、ビル・ヤング君が添削した。田中君の速やかな翻訳には助かった。
そのメッセージは、宮城全県の少年野球大会(ジャンボ大会)開会式プログラムに載せられた。

8月始め、大リーグ選手会の幹部のスラヴィンさんが東京へ、WBCの打ち合わせに来るので、東北支援の件で会って欲しいとピーターさんから希望があり、お会いした。

そして、8月16日、宮城県の少年野球ジャンボ大会の開会式へ出席した。ピーターさん、ヤングさん、中沢君、私と4人。暑い日であった。
ピーターさんもお立ち台に立ち、球児6千人、観客1万人というビッグなものであった。

   

   

   


振り返る東日本大震災リポート4.

地震発生後3月の末に大リーグ選手会の日本代理・ピーター・ミラーさんから、大リーグ選手会が東北被災地を支援したいから手伝って欲しいと言われた。
話が大きいので、NHKや大物政治家に相談しようと思ったら、NHKも独自支援をしているし、政治家もすぐには動くことが出来ないと言われ、鎌倉市の福祉の担当から
福島県庁、宮城県庁、岩手県庁の担当に連絡してもらった。また、中沢君と同行した仙台、石巻方面の写真と資料をピーターさんに渡した。

5月、ピーターさんは、大リーグ選手会の本部に行くことになったので、その結果を帰国後報告するすることとなった。

帰国後、米国本部の選手会の代表にイチローから提案があり、被災現地の野球チームに支援した方が良いと報告を受け、現地を訪問することになった。
県の教育委員会に問い合わせたところ、学校のグランドの放射能除染問題で、てんやわんやですので、石巻教育委員会を紹介された。
  
石巻市は4月に視察していで被害がひどいので、石巻市のチームをあたることにした。
石巻市教育委員会から県スポーツ少年団のメンバーである野球協議会の石巻支部を紹介された。
4月に石巻方面を視察したとき、余りにも被害がひどいので言葉が出なかったが、是非、大リーグからの夢のと希望の支援を実現したいと思った。

   
 製紙工場がメチャメチャ  まだ、まだ、瓦礫も片づかず、病院周辺の被災地。4月末。

   
 丘の上に桜が満開であった。  門脇小学校。火災でやられていて、無惨。

   
 大川小学校の無惨な姿。  合掌。

   
石巻の現地訪問したメンバーと石巻市支部の米谷さん。

左から、通訳と翻訳を手伝ってくれたビル・ヤング。

右に石巻支部の高橋支部長。

右にピーター・ミラー大リーグ選手会日本代理。

右に私。

右に現地を運転してくれた中沢議員。現地の地理に詳しく
本当に助かった。感謝、感謝です。

右に米谷さん。石巻支部の理事長さん。
石巻の西雲寺ご住職。大量の支援物資を届けるのに
都合が良かった。

また、米谷さんには、現地の案内、
ジャンボ大会「県大会の開会式の案内、
現地のチームをまとめてくれた。



振り返る東日本大震災リポート3.

東日本大震災が発生した3月、その状況はテレビで刻々報道され、何かしなければ、現地行かなければとの思いがあったが、どうしたらいいか。
とにかく、いざ、鎌倉・武者姿の会であるとんぼの会も駅前で募金運動を始め、武者姿で八幡様まで歩き、境内で募金運動もした。

現地行くきっかけの話が飛び込んできた。一つは、東北を支援しようと鎌倉清酒研究会が東北中心の酒で盛り上げることにした。

私は、会の結成以来のメンバーであったが、10年前に病気をしたので、欠席がちであったが、
よし、それなら、何処か、蔵元をたずねてくる、被災地の現状を見てくると久しぶりに、声を上げた。

たまたま、食事をしていた席で、中沢議員があさって仙台方面の被災地に行きますというので、同行させて欲しいと言ったら、良いですよと快答。

ところで、どこの蔵元が良いかとなったら、塩竃の浦霞が良いのではないかと、被災しているが、再開するようだとの情報。浦霞に決めた。

また、被災地で鎌倉に似た場所を視察したいと中沢君に話をしたら、土地勘がありますからと、言うので任せることに。

東北支援の酒の会は参加者300人以上、景品に多くの東北産の酒が並ぶ、浦霞も並んでいた。
けっぱれ東北、東北支援の酒の会。
       



振り返る東日本大震災リポート2.

東日本大震災の被災地視察は、塩竃、石巻方面が4月末に始まった。ここでは、最後の日程である11月13日の大槌町をリポートをする。
写真は、まだまだ、たくさんあるが、その中で胸に衝撃を受けた場面、人々が立ち上がってきた希望の灯を見たおらが食堂を載せる。

11月13日は地震発生後8ヶ月であるが、瓦礫は集められ、原っぱに人が一人歩いている姿を見て、その孤独感に唸る。
後日、写真を大きくして分かったのだが、人が歩いている後ろの山は、何か工事が行われている、高台に住宅地建設造成工事か、
また、街道添えには、地元の人たちがおらが食堂を開いていた。早速、おらが丼を戴く、500円。安い、美味しい、さすが漁業の地元。元気に働いている姿に感動。

食べた後、市街地向かったが、途中、火災に遭った学校、未だ、津波に襲われたビル、ビル、また、役場は時計がその時を指していた。
役場正面に置かれた献花台に中沢君の進む姿が、緊張か、肩がフリーズしている。私も合掌。言葉なし。
冬に向かうこの地の被災者を思うと、頑張って欲しいの一言だ。

   
     
       

振り返る東日本大震災リポート1.

東日本大震災は2011年3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島沖の海底を震源として発生。日本における観測史上最大の規模、マグニチュード9を記録した。

その時、鎌倉でも大きな揺れを感じ、私は、市役所5階にいた、これは今まで感じたことのない地震であると思った。

 鎌倉市防災安全部総合防災課 課長補佐 新倉伸司氏によると、
鎌倉市では震度4.鎌倉からの帰宅困難者約5000人、津波は腰越漁港で1.2メートルが目視されたと。

市役所庁舎に出るようアナウンスがあり、外にはすでに避難した人々がいた。控え室から写真を撮り、外に出て、写真を撮った。

また、鎌倉駅前に行くと電車が止まっているため、人々で大混雑していた。さらに、津波警報の音には驚かされた。何事かと。初めての体験。

             
 14時57分  14時57分。  15時5分 15時10分。  15時10分。   15時13分。  15時31分。 
3月11日14時46分に発生、10分後,鎌倉市役所 庁舎内職員他市民の方々は屋外に出るようアナウンスが。

30分後には全員屋外に退去の様子。中にはヘルメットを被った議員も。市は災害対策本部を設置。

議会は予算特別委員会が開会中であったが休憩、屋外で再開、後日に延会決定。

東口駅前に行くと、遠足の生徒、学生、観光客等でごった返していた。

停電で横須賀線が止まった。次の日まで。後日、担当から報告されたが、帰宅困難者が5000人とは驚いた。

この一年を振り返りながら、私の取り組んだ東日本大震災を特集します 。