鎌倉発電送かわら版(最新版)
大銀杏倒壊関連記事「3月10日倒壊から5月6日まで」

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2010年8月12日(木)
カニさんも暑いので水浴びか
     
5月頃から小さなカニがチョロチョロしていた。どうやら、少しずつ成長してきたので、庭先にある水鉢に水浴びに来ているのが なんとも可愛い。暑いからねぇ。
最近、赤い者がウロチョロしているので、カメラを持って、庭先に出てみると、真っ赤なカニではないか。どうやら、アカテガニか。

警戒心が強く、すぐ穴に潜ってしまう。隠れている穴にカメラを向けてパチリをするが、こちらを睨んでいるようだ。
いつ頃から、巣を作っていたのか、一度は海に行って産卵して戻ってきたのか、不思議なものだ。

時々大きなカニが、水鉢で水浴びしているのかなと思っていたが、夕方、水鉢に水を入れてみると、脱皮のあとで、抜け殻が残っていた。
滑川沿えに家があるので、長い間住み着いていたのかも。自然とは正直なものだ。

そうそう、一年半前ぐらいかなぁ。夕食をとっていたら、ドカンと音がしたので、何事かと思って外に出たら、なにやら、向こう岸にあった幹30センチくらいの大木が川に倒れて滑川をふさいでしまった。すぐ、消防と警察が来た。水の流れを確認し、翌日から木の切断で大騒ぎであった。また、数年前、向こう岸の護岸が崩れ、川の半分を塞いでこれまた大騒ぎ。山の斜面だけではなく、川の斜面も危険だ。特に、大木が川に向かっているのには、注意。
2010年8月11日(水)
買ってどうするの、貰ってどうするの、残してどうするの
地球温暖化の影響か、樹木の成長が早いような気がする。鎌倉は大手ディベロッパーによる宅地造成の開発の嵐によって、戦後直後は樹林地が61%もあったのが、現在は30数%に減少。高度成長経済のお陰で、鎌倉に土地、建物を買い求める人々は殺到し、人口も3倍弱膨れあがった。しかし、自然、緑地の破壊は許さないと文化人が立ち上がり、古都法成立、都市計画による市街化区域への線引き等で、緑地は3割弱でストップしている。

だが、高度成長経済の神話も崩れ、鎌倉は借金財政で何とか、やりくりをしている。が、緑を残せとの市民の声に応えて、さらに借金をして市街化区域の開発を緑地化してきた。ところが、古都法等で残された緑地の樹林が成長し、特に、もっとも鎌倉の特長づけている歴史的景観である旧鎌倉周辺の斜面緑地の樹木が成長の限界に達している。もし、伐採し、手入れをしなければ、危険なことは、必至である。そのため、莫大な費用を要することは覚悟しなければならない。

現在、鎌倉商工会議所裏の斜面地防災工事を見れば分かるが、樹木の伐採は、皆伐。樹木の種類はクヌギ、タブ、桜、モミジ、ツバキ、雑木で、樹齢、15年から70年。まさに、住宅地周辺の斜面地では限界であろう。経済の成長はなかなか期待できないが、樹木はどんどん、成長している。

ところで、防災工事の写真を市役所屋上から撮っていたら、いつも、秋になると素晴らしい紅葉を見せてくれる銀杏の木が、剪定され、枝、されに、上部は切られていた。これは、御成小学校児童の登校安全確保のため、危険防止対策だと。そうです、木はどんどん、成長しているので、手入れは大切です。

しかし、後ろを見たら、御成小学校校門際の大きな松の大木が枯れているではないか、どうして枯れたのか、松食い虫か、歩道整備でか、まさか、寿命ではないだろうが、枯れたまま放置いることは危険だ。樹齢何十年であることは、私が御成小学校の頃からあったものであろう。残念だ。樹木は成長しても、枯れても手入れは大変。費用は莫大だ。八幡宮の大イチョウ倒壊以来、各地で古木の点検が始まったようだ。

また、費用が通常の倍掛かった御成小学校の校舎であるが、古い講堂が荒れたままだ。あの御成小学校校舎問題の情熱はどこへ。
まさに、残してどうするのだ。これまた、朽ちるのを、待つばかりか。改修しても莫大な費用。そうだ、浄明寺にある旧華頂の宮邸は買収して10年、未だ未計画。
寄付していただいた吉屋信子邸、使用勝手は、さえない。鎌倉文学館下の旧前田邸は寄付されたばかり、今後はどうするのか。

旧野村総研跡地も貰って、10年近く、市民参加で計画を決めたのに、白紙で埋蔵文化財収容で当面使用と、金がないので、期待外れ。美術館は?
さらに、鎌倉山にある旧長尾美術館跡地の寄付の話が舞い込んできた。そんなに貰ってどうするの。維持管理に莫大な費用が掛かる。持ち堪えられないところが、増えてくるから、今後、どうする。財政見通しがカギ。それとも、事業仕分けがありますか?

北鎌倉明月荘は、改修の金がないので閉鎖したの。旧野村総研跡地のように貰っても、鎌倉山の寄付地の、使用可能時期は、10年、20年後。その頃、私はいない?それより、次々、出てくる学校改修計画。まず、大船中学校を早くお願い。図書館施設の充実、スポーツ広場は、どうするの。保育所、老人福祉施設は。病院は、徳州会が頑張っている、いや、医師会も。

旧大船国鉄工場跡地も、土壌汚染で、見通し暗し。それに、ゴミ処理問題、バイオ施設は、横須賀市はバイオ施設建設断念。各地も続くであろう。鎌倉は?

とにかく、買ってどうする、貰ってどうする、残してどうする、計画と財源の裏付けをしっかりしないと、ツケは次世代に。さらに、樹木は成長続ける.斜面地の樹木も。

     
 御成小学校旧講堂。何か、風格がある。  御成小学校校門際の枯れた松の大木。  頭が切られ、枝払いされた銀杏の木。
2010年8月9日(月)
今、真剣に考えないと

山が荒れている。手入れを怠ると大きなツケが。  鎌倉商工会議所裏手の工事が物語る

2010年8月8日(日)
政治の劣化は当分続く
政治の劣化状態は当分続くであろう。お笑い番組で登場する政治家が、有名な政治家となっているのが、現状であろう。それも、コメディアンに鋭く指摘されても、弁解がやっとである。

体で政治を覚えているわけではなく、選挙が目的化し、パフォーマンスでの展開が勝負である。マニフェスト、ビラまき、駅立ち、自転車乗りでの活動が、政治活動だと思われているのだと、思って行動しなければ、忘れられてしまうのではないかと、テレビに登場する数が重要視されている。

つまり、見られている、注目されていることを体で感じていなければ、不安でしょうがない症候群になっているのではないか。
争点が定まらず、何でもありますのよろず屋商売的商品を並べているようなマニフェスト競争。それは、なんでもやります、ありますというのは、見せかけで、経験、結果もないのに、何でもござれの、無責任体質化してしまった政治状況である。

それは、争点が一点で争う政治状況ではなく、総合的に広げなければ、支持を得られないくらい、何でもありの姿勢だ。つまり、受け狙いを漁るような政治姿勢だ。
有権者もすぐ、話題の争点には過激に反応しても、すぐ冷めるだけに、次は何だと、すぐ移ることも、政治を薄っぺらくしている。公約した政策結果が出なくても、どんどん移っていく。マニフェストなんては、政治家の嘘つきの造ったものだと、多くの人は冷めてしまっているだろう。

国内情勢、国際情勢共に専門的取り組みをしなければ、教科書通りには行かないのが、政治。特に全球的(グローバル)に変化している政治状況では、ますます、政治家の専門性は重要であろう。郵政民営化で大勝利した小泉政治も、4年たったら、あれは何だったのかと、遠い話のように聞こえる。

昨年の今頃は政権交代と、国民の大関心のもと、民主党の大勝利は、今や、あれは何だったのかと思われているが、今の関心事は、民主党の代表人事だって。
こんなことが、毎年続く、日本の政治は、どうかしている思われているが、これが現状とは情けない。小鳩体制から、空き菅体制となったが、これまた、ゴタゴタ。
借金大国の日本の行く末は、厳しい。やはり、政治家がダメなら、官僚がいると言いたいが、いじくり回されて、人材が育たない。それなら、民間からか。

人は燃えなければ、動かない。やはり、国のかたちをしっかりと示さない、政治家の集団では、当分無理だ。情けない政治空白の時代だ。政治より、政局か。あぁ、あ。嘆いてばかりいられない、深刻な日本であるに。とにかく、パフォーマンス政治はごめんだ。
2010年8月6日(金)
順調に快復している
猛暑の中、東大病院へ2ヶ月後の検診へ行った。採血、採尿後、1時間待ち、結果を担当医から、順調に快復していますと言われ、心がウキウキとなった。腫瘍マーカーが0、18と前回より下がり、血糖値も朝食を後でも、127,ヘモグロビンA1Cが5、7と安定していると。次回の検診は、1ヶ月半後と、経過を見るのが延びてきた。今後は特に運動を言われたが、暑いので注意である。

昼食を最上階のレストランでとった。窓越しに見える400メートルを超えた東京スカイツリーが猛暑の中にそびえ立っていたが、背後に見える入道雲が、この猛暑を象徴している。いつ雲行きが変わるか分からない。雲の下では、大雨の夕立があるかも。

昼食後、体も順調に快復していることだからと、思い切って、国立東京博物館へ。
どうしても、見ておかなければいけないと思っていた誕生・中国文明展を見学した。

日本の文化、鎌倉の文化の源流を知るためにも、欠かせない中国の文明展である。
展示されている内容すべてが、日本の国宝に指摘する規模である。

中国4000年の歴史の文明を、見せつけられた。中国現地で見るスケールのある万里の長城等も圧倒させられるが、石から玉へ、そして、鼎等の工芸に展開していく歴史は、文明の発展がよく分かる。

中国河南省出土文物の優品が展示されているが、王朝の誕生、技の誕生、美の誕生と3つのテーマで展開。王朝、工芸技術、文字(漢字)の発祥、発展が、中国、人類のすごさに、ものが言えなくなるくらい感動した。奥が深い。見ておいて良かった。
2010年7月30日(金)
50年前に目指した東大
5月末、東大病院に入院するとき、大学校門の赤門の方から賑やかな音が聞こえてきたので、病院へ回り道をしてみた。大学祭が行われていた。学内には屋台がびっしり、ライブが行われているところには、人だかりであった。

病院に入ったら食べられないので、鯛焼きを食べた。餡かと思ったら、中身はチョコレートであった。
かって、高校のころ、勉強が嫌になり、小学校の友人と語り合い、とにかく、大学を目指そう、そのとき約束したのが、東大か京大であった。私は挫折し、大学受験を受けなかった。友人は京大にストレート。

その後、友人から、松中、約束があったなぁと言われてしまう。やっと、その劣等感が晴れたのは、10年前くらいからだ。それは、東大に入れないけれど、東大病院に入院して、運良く退学でなく、退院出来たと笑って話すことからだ。
負け惜しみぽいけれど、そんなもんだ。東大教授になった有馬くんから、よく退院できたなぁと、言われるし、可笑しなもんだ。

安田講堂は東大の象徴。昭和40年代、大学紛争が盛んであった。ここ、安田講堂屋上で、最後まで抵抗したのが高校時代の同期のS君。捕まえてみたら、自分の甥っ子であったと、秦野警視庁長官が新聞で語っていた。

数年前、産経新聞の正論大賞表彰式で、鎌倉の新保裕司さんが、新風賞を受賞、大賞に佐伯啓思氏が受賞。
新保さんから、式の招待状を戴いた。お祝いへと出席した。また、佐伯氏のフアンでもあるので、嬉しかった。

乾杯の音頭に、佐々淳行氏が、そのとき、大学紛争のことを。また、佐伯氏も、まさか、佐々氏が乾杯とはと。
佐々氏は大学紛争の時、秦野総監のもと、陣頭指揮を執っていた方だ。

懇親の席で、私は先生に挨拶をした。S君とは、高校時代の同期でしたと。先生は、熊本行った時、彼が訪ねてきたと。 どうしているかなぁ、S君は。20数年会っていない。人生様々だ。長く生きていると、思わぬ出会いがある。
2010年7月29日(木)
先が見えている?
10年前に大病したとき、入院半年前に、私の周りでは次々貴重な方々が亡くなった。江藤淳先生の自死(自殺)、ガンで亡くなった版画家の吉田克朗さん、毎年、12月に30日に集まる友人の一人原君、そして、私を何かと指導してくれた清川病院と鎌倉女学院理事長の清川謹三先生が亡くなった。

周りでは、松中さんは死に神なんて、囁いているのが耳に入った。悔しかった。こちらは、一生懸命やっているのに。でも、巡り合わせとはいえ、内心、怖かった。

それに、9月議会では、一ヶ月も広町のことで一般質問を続けていた。その間、源頼朝公の供養塔のレプリカを鹿児島、磯庭園隣接地に建立することを手がけたので、有志による市民号が鹿児島に表敬訪問することになっていた。3日間のスケジュールであったが、私は1日の式典出席でとんぼ返りであった。疲れた。

また、当時、徳田虎雄元衆院議員(徳州会代表)が鹿児島の島津家ご当主を紹介して欲しいと言うこともあり、なにがなんでも鹿児島行きをキャンセルできなかった。

一ヶ月の質問も終わり、10月に9月議会が終わったあと、青森、秋田に視察。特に世界遺産の白神山地視察では、一時間ぐらいの登りもあり、かなり疲れた。
ホテルに帰って、休憩のつもりが、ダウン。皆との食事も出来なかった。すぐ12月議会あり、終わりの頃から、体調がおかしくなってきた。

次の年そうそうから、フラフラであったが、風邪だろうと思って、前半は新年会や会合に出席していたが、ついに、顔を真っ黄色になったので、清川病院で見て貰ったら、即、ガンの疑いありと言われ、当日入院。検査の結果、ガンではなく、原因不明の黄疸。清川病院から東大病院に転院。

どうなることかと心配していた。「生まれて、生きて、生かされて」と念仏のように唱えていたが、本音は生きたい、生きなければいけないと、思っていた。
三人の医師が付いたが、一人の女医さんに、先生、どうしても生きたい、大丈夫でしょうねえ、急変はないでしょうね、江藤淳先生のことを話して、死ぬことは出来ない、大丈夫でしょうねえと、せがんだことを思い出した。

今回は、手術をすれば10年以上、保つだろうと。ホルモン注射では、5,6年、チップは松中さんには向いていないと生検で分かったあと言われた。でも、骨シンチ検査のあと、骨に転移しているかも知れないと言われた時、友人が2年しか保たなかったことを思い出し、家内に連絡した。仕方ないねぇと、言われて、何か落ち着いた。

精密検査後、骨の変形による陰であることが分かり、手術が出来ることに。先生、元気なうち手術しましょと、了解した。先が見えているから、すっきいりしているのか?でも、手術後の痛いのは、つらい。それに、リハビリも。贅沢言うな、10年前を思い出せと、ちょっぴり反省の気持ちも。
2010年7月27日(火)
顔色が良いので、入院したのと言われる
昨年の10月から、検査、検査で、6月に手術をしたが、手術後の経過が順調で、リハビリを除けば、健康そのもに見られる。医師からは手術後、可能なら歩くようにと言われ、手術後、翌日から自らベットから立ち上がり、病室から体重計のあるところまで、往復20メートルぐらい歩いた。また、3日間ぐらいは同じ病室の廊下を何度か往復した。リンパ等切断手術のドレンが取れたら、院内を歩くように言われ、積極的に歩いた。

退院後も、海岸方面、長谷方面へ娘のまりと週末歩いた。食事は通常で、量は少なめである。今の猛暑では、危険なので、今の日常は、小町の喫茶店でトイレ休憩、食事後は、市役所へ、尿漏れパッドを取り替えて、帰宅のコースが日課。とにかく、医師から水を飲むこと、歩くことと言われているので、注意している。

退院後、いろいろな頼まれごとがあるが、出来ること、出来ないことは、はっきり言うことにしている。それでも激しい行動をすることもあるので、一ヶ月検診で医師に話したら、激しいことは止めてください。お酒は、3ヶ月間、ダメですと強く言われた。

とにかく、糖尿の数値である、血糖値が187から102へ下がり、また、ヘモグロビンA1Cが8、7から5、2になり、すっかり、落ち着いている。
また、腫瘍マーカー(PSA)が、13、7から0、22になり、安心であるが、ガン細胞が直腸へ癒着していたので、経過を注意するとのこと。限りなく0へか。

激しいことは出来ないが、思わぬビッグなこともしたので、自信が出てきた。知り合いから言われた。声が掛かるうちは、頑張るのよと。
有り難いことだ。でも、猛暑の折、無理は厳禁だ。

それにしても、政治の世界は目まぐるしい。入院中、首相が代わり、民主党が参院選大敗。去年は、何だったのか。日本の将来はどうなるのか。
でも、私は、じっくり、様子見だ。急いではいけない。まず、体調回復。動きがよく見えるだけに、いずれ、語ります。
2010年7月25日(日)
そろそろ、ブログへの気力が湧いてきた
6月1日に前立腺ガン全摘手術をして、2ヶ月が、そろそろ、ブログへの元気が出てきた。しかし、まず、頭に浮かぶのが、手術のこと、そして、あぁ、自分は生かされていると痛感する。10年前にも、東大病院に入院して、何とか退院出来た。そのとき、激しい黄疸で悩まされながら、唱えた文句が、「生まれて、生きて、生かされて」と、何度も繰り返したことを思い出した。

その後、西行法師の「何事のおわしますか、知らねども かたじけなさに 涙こぼれる」を知る。今回は、やけに落ち着いていた。覚悟をしていたのか。
でも、本当に多くの方に世話になり、生かされていると思う。また、今回も多くの方に心配を掛けてしまった。生きるとこに感謝。有り難い。

それでは、手術の頃の写真を載せます。手術前日の病室からの朝日(日の出)が見事。また、病室や食堂から見える建築中の東京スカイツリーは、気分を紛らしてくれた。また、外の景色は、上野忍ばず之池、上野公園、国立東京博物館と、緑が良い。

前立腺ガンの手術は、体力があったから、出来たと思う。言われていたより、かなり、しんどい。手術は、無事成功、看護師は親切、2週間で退院、後は、自宅ででリハビリが続く。尿漏れ、血尿、胴回りの筋肉の痛みによる引きつけとあるが、抗がん剤や放射線照射よりは、良いようである。

食事は出来るので、体力は回復しつつある。とにかく歩くことだと言われているが、猛暑で無理は出来ない。尿漏れは当分続き、胴回りの筋肉の引きつけも、半年以上、いや、2年とも。とにかく頑張ります。