連載・巨人をめぐるコラム(1)
巨人というイメージが喚起するものは、なんだろう?
山下敦史氏の特別寄稿記事
「世紀末、巨人は降臨する」の記述は興味深い。大いなる存在としての巨人、そしてそれを目指すわれわれ人類。
数々の神話にも、ひとが律することのできない超越的存在としての巨人は繰り返し登場してきた。
巨大怪獣が人間の手に負えない災害を象徴するように、巨人はそれに対抗しうるただひとつの力だったのである。
もちろんヤマタノオロチ退治や、西洋の数々のドラゴン退治の伝説は、このことの恰好のサンプルだろう。
巨人や英雄という超越的存在しか、この人間の手に負えない怪獣を倒すことはできないのだ。
そしてその系譜は現代でも、ウルトラマン対怪獣という図式へと直結している。
(おもしろいのは、ウルトラマンに登場する怪獣退治の組織がシリーズを重ねるごとに弱体化し、巨人の強さを引き立てるための存在に転落していることだろう。)
映画やテレビの格好の見せ物として怪獣は視覚化されたきた。
「キング・コング」('33)に始まり、もちろん「ゴジラ」('54)まで映画史のエポックとして怪獣映画は欠かせない。「ジュラシック・パーク」('93)だってこのバリエーションにすぎない。
巨大怪獣とは、人間の立ち向かうことのできない災害の象徴なのである。そして怪獣を呼び覚ます原因はほとんど人間の側にある。キング・コングはむやみな南方への進出と商業主義へふりかかる厄災だし、ゴジラはいうまでもなく核兵器の脅威の象徴だ。現代に甦ったティラノサウルスにしても遺伝子さえ操ろうとする人間への警告だったではないか。そうした厄災を”目に見える”かたちに描き出したのが、怪獣だったのである。
怪獣の場合は、そうだったとしよう。しかし巨人、つまり伝説や物語の中に語り継がれる超越的存在から”目に見える”かたちへと再現された巨人は、まず何を想起させるだろう?
それは、どちらかというと伝説のいう”大いなる存在”というよりも、まず、視覚に直接働きかける眩暈の感覚に他ならないと思う。巨人とは幻視されるものなのである。いくつかの例を取ろう。
中原中也の代表作ともいえる詩、「少年時」は幻視された巨人をとらえている。
翔びゆく雲の落とす影のやうに、
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿 (前後略)
夏の照りつける太陽の下、少年は伝説の巨人を幻視するのだ。
不意によぎる影。もし、その影が巨人のものだとしたら?その想像が巨人を見た。それはまさしく眩暈を引き起こす情景であったろう。突如あらわれた巨人に人間は為すすべがない。
同じように、幻視された巨人の姿は、絵画として描かれてきた。
ゴヤの「巨人」は、まさにこうした幻視の生み出した大いなる「巨人」である。
遙か地平から上半身をのぞかせ、画面を横切ろうとしている巨人の姿。
手前には逃げまどう群衆が見える。嵐の前触れのように画面は暗く、重たい。
ナポレオンの登場により騒然とするこの時期のスペインの無力感を表現しているといわれる作品だ。
立ちこめる黒雲は画家の眼前にあった。しかし、その眼のとらえたものは巨人だったのだ。
ここでも巨人は画家の目によって確かに幻視されていたのである。
そして画家によって再び目に見える形に再現され描かれた巨人は、われわれにも眩暈を与えるのだ。人間というよく知った形なのに、その大きさが感覚に痛烈な一撃を与える。狂った遠近法がすべての感覚をしびれさせ、眩暈へと導いていく。
眩暈という意味では、まさに幻視の生み出した巨人はルドンの「キュクロプス」だろう。
手前に咲く花の上に横たわる裸の女、山の向こうから不意に現れたようにこちらを見つめる一つ目の巨人。神話的な解釈がふさわしい絵だ。ここに姿を現した巨人はエロティックでさえある。
ルドンの絵はしばしば、「出現」をキーワードに語られるが、まさしくキュクロプスは「出現」そのものだ。一瞬前には、おそらく山蔭にさえぎられていたものが、画家の呼び声に気付きこちらをうかがうために姿を現したのだ。その出現を眩暈といわずになんとあらわしたらいいのだろう?
巨人が伝説の中から目の前にあらわれたとき、われわれは眩暈に身を任せるしかないのだ。
だから、「葵五郎ジャイアント」のオープニング、窓の外から異様な巨人がこちらをのぞき込むときわれわれは、いいようのない不安と眩暈を同時に感じるのである。冷静に見れば幼稚で滑稽なまでの粗雑な合成映像なのだが、われわれの脳にしびれるような衝撃をもたらす。
それは、巨大な人間というあり得ない存在が目の前にはっきりとした姿を現した瞬間であり、中原中也やゴヤ、ルドンがみた幻視の瞬間と同様の眩暈をわれわれにもたらすのである。目の前に出現した巨人の圧倒的な大きさは、すぐには理解できないのだ。そして巨人とはわれわれと同じ姿をしていながら、その大きさは象徴でもあり超越そのものなのだ。大きさそのものが眩暈をもたらすとともに、巨人を通じて神話世界が再現されているのである。われわれは、そのことを理解する前に視覚として直感する。だから、いっそう眩暈の度合いが強まるのだ。
「葵五郎ジャイアント」のもっとも重要なシーンは、このオープニングの一瞬である。葵五郎自身、巨人を前に凍り付いているではないか!ヒーローたる彼自身、眩暈に耐えているとしか思えない。それに比べれば、格闘シーンなど添え物にすぎない。
ウルトラマンがこうした眩暈をもたらさないのは、人間ではないからだ。ウルトラマンは幻視から生まれたものではない。周到なデザインを重ね生まれた産物だからだ。まったく無機質なそのデザインはむしろメカニックに近い。
ウルトラマンに親しんだものなら、巨大フジ隊員を覚えているだろう。ウルトラマン以上にインパクトのある存在。ビル街を壊しながら歩いて行く巨大な科特隊の女性隊員は忘れがたい。それはシリーズ中のアイドルであったフジ隊員が巨大化することでもたらされた眩暈があったからだ。
「葵五郎ジャイアント」の醍醐味はこうした眩暈にあるのではないか。なにげない日常を、突如破ってあらわれる神話的存在。ビル街を襲う巨人を、われわれは眩暈に耐えながらただ見つめるしかない。「葵五郎ジャイアント」で再び日常の生活に戻っていく描写があるのは、この眩暈から復帰するための間を与えているのだろう。敵対する謎の巨人より、正義である葵五郎の影が薄く見えるのも巨人ながら日常を抱えた巨人として描かれているせいだ。(戦いすんで乱れた髪をクシで整えるところなどはその演出で、芸が細かい)
神話性を背負い登場する圧倒的な敵に、今後、五郎はどのように戦っていくのだろうか。新たな神話を五郎は生み出せるのだろうか。われわれもその創世記を見守っていこうではないか。