(特別寄稿)
人は、巨大なものに憧れてきた。バベルの塔、ピラミッド、そして、ナスカの地上絵。“巨大”は権力の現れでもあり、また、神の象徴でもあった。古代神話の神々は、往々にして巨人として描かれてきたものであり、また逆の一方で、我ら人類のことを“小さき人”と呼ぶこともまた珍しくない。そのために、一歩でも主なる神の御元へと近づこうとする我々人類は、大きなものに憧れ、畏怖を抱き、自らも、完全なるヒト…巨人へ成ることを目指すのである。
映画の歴史の第一歩にも、やはり巨人の足跡が残る。映画はその草創期において、サーカスやカーニバルの見せ物としてスタートした。“動く映像”そのものが珍しかった当初こそ、それらの映画は人や馬が走ったり、といったような単純なものだったが、やがて、映画はサーカスにふさわしい見せ物となるため、様々なトリック撮影を生み出す。二重露光や、ミニチュア撮影などである。だが、もっとも最初に行われたトリック撮影とは、目の錯覚を利用した、“人の巨大化”であった。本来、手前と奥とにいる人を、あたかも同じ場所に立っているかのようにカメラに収めることで、手前の人物をまるで巨人のように見せるのだ。単純なトリック撮影ではあるが、これによって、映画はただ写しただけの“映像”から、作り込まれた“映画”へと進化したのである。
それから100年。我々は、“映像の世紀”といってもよい20世紀から、“デジタルの世紀”となるであろう21世紀を迎えようとしている。そのときに、草創期のデジタル・ムービーの先駆けとして、あらたなる巨人…この『葵五郎 ジャイアント』が発表されたことは、まさに歴史の必然であった、といえるかもしれない。デジタル・ムービーが電子紙芝居から総合芸術へと進化する予兆として、さらには新世紀を導く旗手として…。
火、車輪に続き、今またコンピューターという道具が人を進化させ、“巨人”に近づけようとしている。デジタルによって人類はいっそう大きなものへとなるのか。マウスクリックによって巨大化するサラリーマン・葵五郎の姿は、我々人類の姿そのものだ。デジタルは我々に福音をもたらすのか、それともバベルの塔のように、人類の増長、傲慢を招くだけなのだろうか。
ともあれ、我々はもう巨大化変身ソフトを手にしてしまった。世紀末の世に降臨した巨人・葵五郎の行く末を、人の未来になぞらえて注目してゆきたいと思う。
山下敦史 やました あつし
1967年東京生まれ。編集者・ライター。PR誌、週刊誌の編集を経てフリーに
。
現在は主に「ワイアード」誌等に映画やデジタルエンターテインメント関係の
記事を執筆。
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