雑想頁 中国関係 研究書 |
- 「古代中国の刑罰-髑髏が語るもの-」(中公新書)
冨谷至
- 「未来の一歩はすぐ近くの明日」計画第一弾。
淳于コン、黥布、墨テキ、孫ビン。この本を読んだとき、私はそれらの人物を思い浮かべた。中国古代史に興味を持つ人ならばこれらの人物に共通点を見つけられるに違いない。そう、これらの人物の共通点は刑罰を受けた人物らしいと言うことだ。
こういう刑罰を受けた人物が歴史に名を残す活躍をするというのが中国古代史を一層面白くしているように思う。特に入れ墨や足切りなどの肉体刑を負いながら活躍するのはインパクトがある。しかしよくよく考えてみればその時代、すなわち秦漢以降、それらの肉体刑についてそもそも聞かないのだ。そういう人物がいなくなったからではなく、実はそういう肉体刑が無くなったということにこの本では改めて気がつかされた。研究者本っぽい堅い本を想像というか期待していたが、かなり素人向けというか、丁寧に、一般の人でも興味が引かれるように書いている感じがする。「はじめに」の所で語られる『レディ・ジェーングレーの処刑』の絵に関する話から始まる雰囲気がそれを代表しているように思う。とはいうものの、内容は誰でも知っているという話ではなく研究者の本らしい、研究成果と想像力を働かせた興味惹かれるものだ。
第一章では地下からの考古学的成果を文献と照らし合わせつつ紹介しているが、やはり文字として歴史が残っていることの面白さは堪えられないという感じだ。伝来の文献、または発掘された竹簡の文献と、発掘された文物の照らし合わせはすごく面白い話で、秦の始皇帝陵兵馬俑の像と竹簡の記述の対応には思わず感嘆の声を挙げてしまった。他にも発掘結果、画像石などに見られる絵、竹簡、そして残された史書などをいろいろ紹介していて、まさしく中国史の残された資料の豊かさ、そしてそれらを解明する中国史研究の面白さを感じさせる。
三章では長々と「原心定罪」すなわち心理をもとに罪を判定する漢以降の習慣が書かれている。春秋公羊伝の話は若干聞いたことがあったが、中国史においてかなり重要な役割をしていると認識させられたのは初めてだ。春秋と言えば史実に忠実な左氏伝が主に取り上げられるが、公羊伝こそが「原心定罪」を肯定するテキストとして取り入れられたという指摘は興味深く、中国史における恣意的な裁判に関して納得させるものがある。
最終章では中国において残虐刑が減ったことの考察を述べている。その結論「神のいない国」になったからだというのは、なんだか中国史の人間臭さを改めて示すようで嬉しくなってしまった。たしかに宗教が関わると残虐さを麻痺させるものがある気がする。例えば中国だったら商(殷)の時代の、あまりに血なまぐさい陵墓が真っ先に思いつく。そこでは神政一致の中で、多くの生贄が捧げられたのだ。
もっとも疑問に感じることもある。すなわち後世の残虐刑として凌遅処死とか剥皮(皮剥)、サン頭などの刑があるらしい(私は知らなかった^^;、ああ〜、例の如く勉強不足)。著者はこれら中国近世の刑罰の残虐性を征服異民族の影響を受けたものとみるのだが、その考えにはなんとなく抵抗を抱かざるを得ない。それは当時は秦だって一種の異民族国家だったのであって、漢がそれを受け継いだ点は、北朝を受け継いだ唐や元を受け継いだ明も同じという気がするからだ。秦を受け継いだ漢が残虐刑を無くせたならば、異民族の北朝を受け継いだ唐、元を受け継いだ明が何故同じように出来なかったのであろうか。そう考えると中国の残虐性の乏しさを、それらの刑を特殊視して主張するのは無理があるのではないか。
結局の所、宗教的な贖罪の意味はなくなったにせよは、「見せしめ」としての性質がある限り刑罰の残虐性がなくなることは無かったように思う。刑罰における「見せしめ」の意味は、宗教における残虐性も含め、極めて大きい。今の刑罰も教育的な配慮云々と言われつつ、結局の所見せしめ的な性格もあるのは否定できないのではないか。
考えてみるに宗教等による強い自発的心理的抑制が無かった場合、人間の行為を自制するものは社会的な抑制、すなわち社会的な制裁なしには成り立たないように思う。そして社会的な制裁を目に見える形で提供したのが「見せしめとしての刑罰」であり、そういうものは宗教が薄くなった社会だからこそ一層必要となったとも言えるのではないか。ということは結局、宗教が無くなったら無くなったで、刑罰において残虐性が要求されるのは変わらないという気もするのだが。
もっとも「見せしめ」としてならば、ひたすら残虐性を増す必要もない。労役刑という、時間と肉体を酷使する刑も十分に「見せしめ」となるであろう。そう考えると漢帝国においては、労役刑が「見せしめ」と「功利性」という観点を満たすものとして、必要且つ十分であったということが出来る。しかも肉体刑を避けることで、人道的な感覚をもクリアーするならばこれほど相応しい刑もないのではあるまいか。このようにプラグマティズム的な感覚で、秦漢の労役刑を捉えることが出来るであろう。
ところで古代中国において、醢(塩漬け)、炙(火あぶり)、[月昔](干し肉)、烹(窯ゆで)などの刑罰が死亡後に加えられたのか、死亡前に加えられたのか分からないと書いてあった。そう、私も特に醢や[月昔]に関してなんとなくどういう意味があるのか疑問に思っていたのだ。本書では罪人を動物以下として処置する蔑みの現れかもしれないなどと推測しているが、人間と畜生の間に一線を強く設ける中華文明ではなんとなく納得のいく説だ。
うむ、そういえば本書でも中国では死後の世界観として、生前さながらの生活を送るという観念があったと述べている。そのために死後も不便がないよう、装飾品とか財産とかが埋められると。そのような考えでいくと、携帯品どころか埋葬もされずに食用動物と同様な処理を受けるという事は、まさしく死後の生活を畜生道にまで貶めるという、人間として恥ずべき刑罰ということになるのではないのだろうか。この本を読むと中国古代以降の刑罰がどのようなものだったのか知りたくならざるを得ない。唐以降、労役刑はどのような地位だったのか、残虐刑を覆すほど実利的な刑になれなかったのかどうか。いろいろ知りたくなってしまう。
ところで、結局後漢の集団墓地から出てきた労役刑の謎、すなわち「労役刑のはずが、何故これだけの死体になったのか」という点が、結局何も解明されていないのがあまりに歯痒い。「特に事件があったのではく、日常茶飯事だったのだろう」などとさらり書いているが、単なる過労死ではなく、他殺体でありながらこんなにさらりと納得出来るわけないではないか。当時、もしこれだけの殺戮が労役現場で認められていたのなら、それこそ残虐そのものではなかろうか。どうも残虐性に乏しいなどとは全然言えない気がするのだが。(初読み[1997/11/10])
- 「諸子百家-中国古代の思想家達-」(岩波新書)
貝塚茂樹
- 「未来の一歩はすぐ近くの明日」計画第二弾。
中国において春秋戦国時代が面白いのは多くの人が認めるところであろう。その面白さの理由の一つには思想的な多様性が挙げられる。本書は百家思想のうち、儒家、墨家、老荘思想、荀子など代表的な思想に関して概説したものである。原書の逐語訳と書き下し文が頻繁に引用してあり、もともとの漢文の雰囲気を味わえる点がなかなか良い。
もっとも、諸子百家の話なんて教科書の古典も含め(って今は漢文とか習わないのか!?うむむ〜^^;;)中国史関係の本を読んでいるといくらでも話が出てくるので、そういう点で本書では私でさえ知っているエピソードが多く、新鮮みに欠けることは否めない。さらにショックなのは「(『孫子』という書物は)孫武の遺書と称せられているが、これは後人のまったくのでたらめで、実は孫ピン自身の作品に他ならないことが最近明らかにされた」という一文!考古学的成果で『孫子』の孫武による著作が証明された今では、上の文こそ全く出鱈目であるが、さもあらん、この本の著作は1961年。
まあ、神様じゃないんだからいくら東洋史学の大先生と言っても間違いっちゅうか、言い過ぎることはあるわな、という気もするが現在証明されている間違いをここまで断定的に強く書かれていると、本書に対する信頼性が全体的に薄らいでしまう。まあまあ、三十六年も前に書かれている本書が今でも版を重ねて売られているということは、貝塚先生の偉大な業績を物語っており、たかがこれ程度のことで攻めるのは酷なのかもしれないが。さて、本書を読んで印象に残るのはまず、墨家、法家、道家など、百家の代表的な思想が儒教から派生、というか儒教の影響を強く受けて出現してきている感じがするという点だ。確かに墨家の「兼愛」は儒家が説く身近な所から仁徳を治めていくやり方に真っ向から反対する部分に一つの特徴がある。法家の法律絶対主義は儒家の一派である礼中心主義を押し進めたものと見ることが出来る。道家の無為自然は儒家の努力主義への反発から出たものと捉えることができる。
以前にも儒家が孟子と荀子に分かれたみたいな言い方を聞いたことはあったが、流れ的に著者が社会科学学派と呼ぶ子夏−荀卿ラインと人文科学学派と呼ぶ先進の弟子−子思−孟軻ラインに分かれたという話を聞くと改めて儒教の春秋戦国時代における変遷の複雑さを感じるものがある。それは孔子の思想が発展の可能性を含んでいる曖昧なものだったからと言えるかもしれないし、単に荀卿が法家と儒家の思想の間の微妙な立場に立っていただけかもしれない。実際、本書での荀卿は古代思想の統合という立場で書かれているのだ。荀卿の言というのは現代人の私にも強く納得させるものを持っている。忘れかけていたが、私は以前にも荀卿の所を読んで、その発言に非常な共感を覚えた思い出がある。それは春秋戦国という思想的にも、現実的にも相争う中で、淘汰されバランス感覚を持った最終的な形だからなのだろうか。
荀卿の弟子から出た法家の韓非が儒教とは完全に切り離れているのを見るとき、荀子というものの微妙な立場を一層強く感じる。それはすなわち以下のようなことかもしれない。
法家は李カイに始まるというし、先程も法家は儒家から出てきたと言ったが、孔子以前にも子産などの法治主義的な人物がいることを思うと法家が儒家から出たとは単純に言えず、法家と儒家の対立は孔子の時点で内在していた気がする。孔子は仁徳主義を唱えたが、これは仁徳というもので人を靡かせることが出来るという、いわば人に対して高い信頼を寄せる考えであった。それに対して法家は法律とそれに対する罰という、極端に言えば規則と鞭が人間を靡かせるのに最も効果的だという考え方ではなかろうか。長く続く戦乱、社会の複雑さ、そしてモラルの廃退が進むにつれて、孔子の仁徳主義は現実の社会に於いて適用がますます難しくなり、そんななかで儒家の思想も理想的な仁徳主義から後退せざるを得ず、荀子の時には法家思想的な思想へ寄っていったとみるべきなような気がしてならない。
しかしながら荀卿の優れていたのは儒家の「仁徳の力」すなわち「人間への信頼」を捨てなかったことだ。性悪説とは人間を冷たい視線で見たものというよりも「人間は努力をしないと道を外れやすいが、そのかわり努力することで誰でも聖人になれるのだ」という感じであって、ある意味ではやはり人間に対して強い信頼を寄せた考えなように思う。
しかし韓非、李斯の場合には完全に儒教を切り離し、人間への信頼はもはや打ち砕かれている。そこにあるのは法と罰であって、強制力という意味での「法の力」に大部分をを頼るものである。しかしこれを押し進めた結果といえば、統一して大きな功績を残したものの、あっと言う間に亡んでしまった秦であるということは周知の事実である。それを思うとき以下の言葉はあまりに象徴的だ。すなわち「儒なければなるか。故に曰く、粋にして王たり、駁にして覇たり、一もなくして亡ぶと。これまた秦の短とするところなり」([秦に欠けているのは]儒教ではないでしょうか、すなわち粋く儒教を用いると王になれる、ある程度儒教を取り入れると覇者になれる、全然儒教を取り入れないと国は亡んでしまうという言葉があります。これが秦の唯一の欠点でしょう)というの荀卿の吐いた言葉はあまりに秦の将来を予見しているではないか。
皮肉なことに、そして当然なことに、漢に入って儒教が大きく取り入れられたものの、実際に国民を支配したのは法だった。しかしそれは秦のときのような人間を不信な目で見る法でも、君主の恣意的な行動を正当化する法でもなく、あくまで世の中のトラブルを円滑に処置するための法だったといって良い。そして国家による民への支配は「仁徳の力であるべき」というのが強調され、それが中国における専制政治ながらも、根本には民の支持があることをが第一の国の存在価値であるとする、啓蒙主義的な国家体制が成立したのである。
うむ!そういえば絶対主義時代の本で「絶対主義は中国のような専制主義とは違う」みたいに書いていたことがあった気がするが、中国の方こそ、万年啓蒙君主制だったと言える気がしないでもない。まあこれは中国史シンパシーの私の偏った見方なのであろうが。ともあれ『荀子』というのは私にとって一度読んでみたい書物である。
一方、正直なところ一番理解できないのは老荘思想である。私は以前から法家のような厳しい考え方には馴染めず、といって老荘思想のような無為自然の考え方は苦手であった。本書で読んでもそうだがそこでは難解な哲学論議になっており、私の浅学非才もあって何を言いたいのか分けがわからないというのが正直なところなのだ。う〜む、何が言いたいのかはともかく、それによって天下が収まるのか聞きたくなってしまう(これが自体が儒家的な考えか^^)。
もっとも宋ピン[金扞]や尹文子など田駢、慎到、恵施など、その書物が失われてしまった思想家達の思想が『荘子』または『管子』などに散逸して見られることは興味深いものがある。それらの全貌が明らかでないのは残念な限りだが、そういうのを窺い知ろうとする研究も実に面白い。でも今までの東洋史って文献中心に研究されてきたそうだから、そういう研究ってされ尽くしているのかなあ。いづれにせよ、散逸した書物が孫ピン兵法が出てきたように考古学的発掘で出てくれたら嬉しいのだが。 (初読み[1997/12/4])
- 「ゴビに生きた男たち」(白帝社)
富谷至
- 「未来の一歩はすぐ近くの明日」計画番外編第一弾。
「李陵」。文学作品に少しでも興味のある人ならその本を知っているだろう。夭折した中島敦の名作と言われる作品だが、蘇武、李陵、そして司馬遷の三人の生き様を見事に描いた作品だったと記憶している。
私自身としては正直なところ中島敦『李陵』は忘れてしまった。この本を評するなら、もう一度それを読むことが正しいのだろうが、時間もないということで取りあえず本書の感想を書いておこう。
この本では途中までは蘇武と李陵の話が述べられている。武帝までの匈奴対策がいあかなるものだったのか、どんなに屈辱外交を強いられていたのかを書いている。挿入写真、図が多いのが良い点であるが、内容的にはそれほど珍しいものではない。面白いのは、全く著者に「専門家臭さ」が感じられないことだ。丁寧に述べてあるためもあるのだろうが、見方も「名君」武帝を基本的に賞賛するなど、通常の見方に沿っていて目新しい点は今一つ感じられない。そういう点で本書は「極めて一般向け」と言えるであろう。
本書で面白いのはやはり「黄昏 西域慕情」であろう。李陵の悲劇は後に拡大され、李陵と蘇武とがやり取りした手紙も偽書であったという。そして、中国における「李陵の悲劇」はやがて中島敦の「李陵」に繋がった。では、どうして李陵は中国で悲劇の英雄とされたのか。それを追求する部分は、後の西域の事情などが絡んできて私としては結構面白かった。 この本はこの本で面白く、とりわけ著者の強い憧憬、先生のいう所の「ロマン史学」が感じられて面白かったが、私の個人的な意見としてはもう少し内容的に突っ込んで欲しかったのは否めない。確かに中島敦「李陵」を専門家から捉えた一種の解説本を兼ねようとした試みは分かるが、これだけ有名な「李陵」の解説本にすることが必要だったのであろうか。
本書で登場している竇融の話は恥ずかしながら初耳で実に面白かった。終章では西域慕情を書き立てられる著者の気持ちが書かれているが、しかし西域慕情を駆り立てる人物なら、他にもたくさんいるではないか。秦において対外戦で活躍した蒙恬将軍。陳先生が「中国任侠伝」にお書きになっていた班超。彼は国策が西域を手放す状況だったにも関わらず、自らの決断と力で西域を維持している。彼だって「ゴビに生きた男たち」の筆頭に挙がって良いはずだ。それ以外にはあまり知らないけれども、田中芳樹先生によれば中国での英雄は対外戦での活躍が一つの条件だったそうなので、そう考えると西域最前線のゴビ砂漠や西域で活躍した人は多かったはずだ。
そういう人達を洗い出すことこそ、「ゴビに生きた男たち」というタイトルに相応しく、他の中国史人物に比べれば確かに「超大物」とは言えないまでも、集めて語るに足る、独特な「中国歴史人物選」になったのではなかろうか。
最後に「古代中国の刑罰-髑髏が語るもの-」の私の感想をお読みになり、本書を贈呈して下さった本著者の冨谷至先生に感謝するとともに、またもや一層勝手な感想を書いてしまったことを深くお詫び致します。 (初稿[1998/2/14])
- 「モンゴル帝国の興亡」(上・下)講談社現代新書
杉山正明
- 「未来の一歩はすぐ近くの明日」計画第四弾。ホームページを作るようになって屡々聞くようになった杉山正明氏。初めて読む彼の著作である。
面白い。確かに面白い。ただしこの意味は単純な意味の面白さではなかった。
私があまり知らないモンゴル史を結構詳しく書いてくれていること。モンゴル史とモンゴル史研究というものの奥深さを痛感させられる書物であること。索引や挿入図が豊富という丁寧な作りであって、真面目に、でも楽に読みたい読者にとってまれにみる親切な書物であること。
しかしなによりも「くっ、くっ、くっ、面白いじゃねえか」と思わせるのは著者の従来の中国史研究、というよりは中国の文献をもとにした研究に対する痛烈な批判、毒舌ぶりであろう。現在、幸か不幸か研究者と言える立場にいない為に私が臆面もなく言えるのは「俺は中華思想だぞ〜(自分の出身は夷狄だけど)」ということだ。そういうことを自覚しつつ言わせて頂くと、正直言って最初に本書を読んでいる時、屡々カチンと頭に来たものである。本書からは漢民族、中国文化への慕情・同情が微塵も感じられない。そこには従来の中華思想〜それは中国人だけのことを言っているのではない、おそらく東洋史学の中心として日本に蔓延ってきた中国史研究者達、その間で意識無意識のうちに醸成され続けている中華思想である〜に対して強烈な反撃を試みているのだ。
もちろんそのパンチは、新しい視点を提示するという、いわば頭をガツンと叩いて目から鱗を落とすようなものであり、そこが「面白さ」を感じさせる部分にはなっている。中国史が好きでそれらの本を中心に読んでいると、いつもモンゴルの所で軽い戸惑いを覚えてしまうのであるが、それはモンゴルが中国文化にとっては極めて異質な文化を持っており、結局お互いに受け入れなかったからだと思っていた。
しかし本書を読むともう一つの理由が思い浮かぶ。すなわち中国史研究者は元の時代を公正に見てきたのだろうかということだ。前述のような私としては確かに「恐るべき民族」モンゴルへの偏見を持っていることを否定できないし、それははっきり言って「元は好きくない」と言ってしまう程である。それは中国史を中心に読んできたという「中国文化愛好者」としての気質があるためだろうが、中国史を研究する人々にとっても実は同様に、中国文化から逸脱しているモンゴルの文化を公平に眺めることは困難だったのではなかろうか。そしてそのことが歴史を研究する、又は歴史の本を書く上でも滲み出てくるのでは無かろうか。いわば中国史の人が書くモンゴルは「中国から見たモンゴル史」に為らざるを得ないのだ。
ともかくも、そういう点で本書はまさしく「モンゴルのためのモンゴル史」であると言える。しかし、そう思ってしまうほど、本書での書き方は中国には手厳しく、モンゴルには甘い気がして為らない。本書ではモンゴルが先見的な視点から自由貿易的な世界交流推進の役割を担っていたこと、そしてモンゴルの破壊性は後世の脚色が強く、実際はそうでもなかったこと、そして民族平等的な面などを特に強調している。
たしかに世界史はモンゴルから始まり、近代的な世界の結びつきの露払い的な役割を担った点はあるかもしれないが、はたしてそれがモンゴルの役割をそこまで強く肯定する根拠になるのであろうか。まるであたかもモンゴルが将来を見据えて、世界が結びつく現代までも視野に入れているかのように一方的に肯定しているのはいかがなものであろうか。
そもそも経済的な先進性はあったとしてもそれが重要なことなのだろうか。著者は中国の場合、モンゴルを受け継いだ明は「暗黒の相続人」とまで決めつけている。確かに明のイメージは明るくなく、宋に比べれば知識人にとっては若干不遇であったし、国策も基本的に農本主義であった。しかしながら元の時代に中国の知識人がもっともっと不遇だったのは明らかであるし(著者も言っているではないか、そんなに善政で無かったはずの仁宗アユルバルワダ、英宗シディバラの治世を、科挙を少し復活しただけで過分に漢文資料は誉めていると。それが示すものは「善政の事実」ではなく「当時の知識人の望外の喜び」であり、ひいては大元でのそれまでの知識人の不遇さであろう)、農本主義は中国において伝統的な治策(そもそも農業人口の多く、当時巨大な国家システムを抱える中国にとって単純に重商主義に傾くことは国家存続の上で危険であったのではなかろうか、よく知らないが)であったのだ。
すなわち明が大元の残したものを暗愚で相続しなかったのではなく、大元の残すものが所詮それほどのものではなかったと言えるのではなかろうか。もし先進性を主張するのなら一体、大元は中国、またはその他の国に何を残したというのだろうか。
しかもである。あまりに先進的な政策が失敗し、実際の世の中にはシステム的に何も残さなくても、決定的に残せるものが一つある。それは「理想」だ。著者は大カアンが理想を語るに置いてアメリカ合衆国大統領に比しているが、大カアンの語る理想とはモンゴル族を中心とする一部の支配者階級のものでしかなく、それは被支配者の人々、しかもそれまで支配者であった漢民族知識人にとっては理想でもなんでもない。著者はモンゴル支配の「民族の平等」を謳っているが、政治上の強い差別を漢民族、特に南宋の人々にしておきながら「平等」などとは言えるのであろうか。さらにである。大カアンの侵略主義とモンゴル族至上主義は決定的なものを各民族から奪っている。それは「誇り」である。これはまあ主に知識人の話であろう(もっとも中国では階級の交代が科挙や政権交代などを利用して行われていたため、決して知識人と言っても恒久的な貴族のようなものではなくて、結局の所、廻り廻って漢民族全体にとって他人事ではなかったように思う)が、自分たちの領土が侵され、自分たちのそれまでの立場が否定されると言う屈辱感は想像にあまりある。東西を問わず各地でモンゴルに対する嫌悪感があったのはその「誇り」を一方的に踏みにじるものであったからではあるまいか。日本が防衛になんとか成功して自分たちの国に対して強烈な自負心を持つようになったのも、いわば「誇り」を守ることに成功した民族として、それに取りあえず失敗した漢民族の反対の立場であったと言えよう。著者はこのような被支配者民族としての心情を無視しすぎているのではなかろうか。
よく言われる言い方であるが中国の場合には面白いことに、結局知識人などは文化的なものへ流れ、そのことがより一層中国の文化的な強靱さを生み出すこととなった。そしてそれが後にモンゴルと同様に征服王朝であった清時代には支配者の満洲族をすっかり漢化してしまうくらいの威力を発揮することとなる。
もちろん上で述べてきたような否定的なモンゴル族の話は漢民族にも通じるものが多々あることに気がつく。漢民族がその領域を広げていったとき、支配される民族(部族)の誇りを潰していったのではないか。そしてそこでは暫くの間、ほとんど記録はされていないけれど、あらゆる差別があったろう。本当に漢民族の方がモンゴル族よりも人々の安寧と平和を生み出してきたのであろうか。
それにはまだまだ人々の歴史への探求が必要であろう。ともあれ、どんなに攻撃的であれ、従来の既成概念に真っ向から抵抗し、本書のような内容を書かれた著者に対し、感謝と尊敬の念を抱かざるを得ない。私の興味は以前、中国史から世界史へと広がりかけたが最近また中国史へと回帰しつつある。中国史にどっぷり浸かることも面白いが、中国史のみに視点を囚われることなく、広い見方で眺めることの重要性を改めて認識させられた。とりわけ周辺異民族は中国にも直接絡んでくるので、例え中国史だけを対象にするとしても一方的な見方は許されないであろう。これからも氏の著作を読んでいきたいものだ。 (初稿[1998/2/14])
- 「史記 中国古代の人々」中公新書
貝塚茂樹
- 『史記』。中国史を語る人にとって『史記』は間違いなくお世話になる本であろう。本書では『史記』に関する概説書である。
本書を読んだきっかけは...単に「何故か持っていたから(^^;;)」。いつ買ったか覚えていないのだが実家にあった。おそらく学生時代ふと買った本であろう。当時は好きなものを気楽に読む程度だったから、少しでも研究っぽい本書のような本は、買ってみたものの読み続けられなかったのであろう。
とはいうものの、今読むと研究書っぽくはほとんどない。というより一般向けであろう。なんか最初の方の話は読んだ記憶があり、たしかに面白い。そこには司馬遷が『史記』を書いた理由が載っており、司馬遷の歴史に込める情熱の強さを改めて痛感させられる。このような背景があるのが中国史の面白さであろう。
もっともこのような司馬遷の話を読む度、逆に「どうしてこんな面白い本が、正史として尊ばれるようになったのであろう」ということだ。権力者もその出身の卑しさを隠さず、権力に反するような人物も評価する、そのような書物がどうして尊ばれたのか。
それはともかく、本書では途中から『史記』の内容についての概説となっており、本書の初版発刊から35年も経ってしまった現在では他書でも結構聞くエピソードが多く紹介されるに留まっている。私が昔挫折した(気がする)のもそこら辺に理由があったかもしれない。つまり、本書の『史記』の中のエピソードは私にとっては「中国任侠伝」「項羽と劉邦」、その他の小説、そして高校教科書などで聞いた話が多いように思う。ちょっと目新しかったのは「庶民の世界」か。しかしそれとても触れられている書物は多い。
本書のような本を遙か以前にお書きになった貝塚先生に敬意を表しつつ、しかし今読むならもっと面白いがあるようなあ、と思ってしまう私であった。 [初読み 1998/5/25]
- 「則天武公 女性と権力」中公新書
外山軍治
- 歴史上、に中国政治上で女性が活躍するというのは決して良い印象ではない。その代表として挙げられるのに、劉邦の呂皇后や西太后がいるが、名実共に正統な君主として中華王朝に君臨したのが本書の則天武公、中国で言うところの武則天である。
本書では彼の夫である高宗、すなわち唐建国の礎を築いた太宗の息子の即位の経緯と武則天の後宮入まで、皇后になるまで、次第に力をつけ反対派を排除していくまで、やがて高宗に変わり実質上の支配者となり果ては息子の中宗まで廃するほどの権力を持つようになるまで、そして新たな国の建国、そしてその死後の余韻まで、というような章で分かれている。まあ通史本で大体の経緯は読んでいるはずだが、通史本で詳しく載っている訳でもなく、しかも例の如く忘れているので面白かった。
内容的には政治史が中心となっており、武則天の各種の政策上の話はそれほど多くない。そのせいか、どちらかというと武則天の敵対者をジワジワと蹴落としていく政治史での様子が印象づけられ、あまり気持ちよくない。とりわけ排除される硬骨漢達の行く末が哀れである。彼女によって直接、間接的に追い落とされた剛直な士、皇族のなんと多いことか。
太宗の義兄でそれをよく補弼した長孫無忌、太宗のもと書家として任官したが諌臣・史官としても活躍した[ネ者]遂良、宰相格であり教養豊かな韓エンと来済、最初の皇太子・李忠、高宗の王皇后とその兄・柳セキ、武則天の実の息子で皇太子となったものの幽閉された異母姉妹を気遣ったために憎まれたと思われる李弘、章懐太子として学者としても有名で次に皇太子になったものの実の母が武則天でないことを知ったために疎まれた李賢、武則天の実の子ではなかった太子である李上金と李素節、高宗と共に武則天の廃后を練った上官儀、高宗を継いだ武則天の実の息子・中宗...。この他も数限りないのだ。
武則天を擁護する声に「彼女の周りの争いは所詮コップの中の嵐であって、政争であり、それが国民まで害を及ぼさなかったことを考えると大した問題ではない」という話を聞いたがまあそうかもしれない。しかし、もし史書に記された彼女の権力争いの行動を信ずるなら好意を抱くのは結構難しい気がする。そこでやはり注目したいのは彼女の時代の政策であろう。
そもそも後の世に名を残す名君には二つある。何もしなければ単なる平凡君主で終わっていたのが、運と才に恵まれ名を残す場合と、もう一つは何もしなければ後ろ指を指され、後世からは囂々たる非難を浴びる恐れがあった場合である。すなわち、後者とは皇帝の位にあること自体が批判を浴びてしまう場合であって、例えば梁の武帝、唐の太宗、明の永樂帝などが挙げられよう。彼らは正統な手段で君主に為ったとは言い難く、その為なんとしても名君たらねばならなかったのだ。正統な手段で位を継げなかったのは、運命なのだから仕方あるまい。それよりも、位を継いだ後に努力した業績を認めるべきなように思う。
ということで、則天武公も権力を握った手段よりも、政策がどうであったかというのが知りたいのであるが、そういうことは本書では詳しく書いていない。ただ最終章における後世の史家による武則天への肯定・否定意見が面白い。それに付随して著者は一般的な外交・経済政策は対して誉めるべき所はないとして武則天の文化的な貢献、宮廷の国民への開放性を評価しており、この注目点も面白い。
もっとも折角並の男性に全く劣らない、君主としての優れた資質を持ちながら、自慢が文化面だけだったのかと思うとき、甚だお寒い限りである。文化というのは君主個人の才覚のみで繁栄する者ではなく、時代の幸運もある。彼女の一般大衆への解放性も、人気取りのパフォーマンスと言えばそれまでである。結局の所、唐の基礎を築いた太宗と、その繁栄を築いた玄宗の間に挟まれて、結局「女性として」「寒門を採用した」という点でしか注目されないのは寂しい。
しかも女性としてならば徹底的に「女性重用」の道を歩んで欲しかった気もする。本書で指摘するように、女性の彼女も今後は皇帝を女性の系譜で継がせようとしたり、女性を男性と同じように官僚にするなどという発想は終ぞ生まれなかった。もしそうなっていたら中国の歴史はもっと面白くなっていたかも知れない。
もっとも後世散々非難を浴びた王莽と違い、簒奪したにも関わらず、それほど非難を浴びなかったのは、元皇后だからだけだったとは思われない。おそらく周囲を納得させるだけのカリスマ性を備えていたと見ることは出来るだろうし、本書でも述べて有るとおり別に卑賤の人々を無闇に採用したわけではなくて、官僚同士の派閥争いを巧く利用しつつ、政界のバランスを保ち続けたことを考えるとやはりその政治的な資質は並々ならぬものがあったのであろうか。[98/5/25]
- 「李卓吾 中国にとって思想とは何か」中公新書
劉岸偉
- 李卓吾ぐらいになると、普通の中国史に関して全然興味を持たない人にとっては完全なマイナーな人物に入るであろう。簡単に言ってしまえば、儒教の浸透した中国に於いて、その考え方に反するような過激な理論を述べた「異端の思想家」ということが出来よう。
私の原点は陳舜臣先生の書物だが、先生の「中国の歴史」で屡々李卓吾のことは取り上げており、中国に於けるその思想の奥深さを感じたものである。
本書ではその李卓吾を取り上げている。しかし前書きにも書いてあるとおり「体系的な評伝ではない」。正直言って、ちょっと取っ付きにくかった。それは恐らく私が李卓吾の思想自体をよく分かっていないからかもしれない。彼の思想は本当に独創的で、他の書物でちらっとだけ見たところ、例えば女子に対する偏見の排除なども主張しているのある。儒教社会では結局解放後でなければ確立できなかった男女平等論の圧倒的な魁であろう。それらのような、すなわち李卓吾の思想の概要などがほとんど無く、李卓吾の概要を知っているという前提で書かれている気がするのが私が取っ付きにくかった理由かもしれない。
つまりは、この書物を読む場合に前提としている知識が要求されているのであろう。この書物を楽しむには明・清の思想史についてある程度知識を持っていることが必要であろう。そして、本書は確かに李卓吾の「生き様」を描いているが、どちらかというと歴史の本というより、思想関係の本という方が望ましいのではないか。もちろん歴史は懐が深く、思想をも含むが、ともあれこの本の内容は「思想史」の範疇に入るかも知れない。内容的にも哲学、思想に関する用語や歴史が頻発しているように思う。
本書では李卓吾の時代背景を序章として、続いて友人論、生死論、剃髪や孝から眺めた李卓吾の行動と思想、日本へのその思想の影響、そして終章でその後裔について述べて有る。
私として興味深かったのは明代に庶民層にまで広がったという知的狂熱であった。恥ずかしながらこのこのことに関しては知らなかった(というか忘れていた)。王守仁(王陽明)の説く学問は実践を重んじ、そして「聖人」の特殊性を否定した。その結果、「誰でも聖人になれる」という意識が広まり、国民全体に知識欲向上の意欲が高まったらしい。その結果、講学と呼ばれるもの、今で言えば大学、いや庶民層という点ではカルチャーセンターに匹敵するものであろうか、そういうのが広まったという。それは決して洗練されたものではないが、一つの社会に於ける大きな動きとなった。
現代の日本にとって、いろいろな点で源となっているのは室町時代だという話を聞いたことがある。それと同様に中国にとって現在に直接通じる時代は明代というのを聞いた気がする。それが正しいのかよくわからないが、いづれにせよ社会の隅々にまで知的活動が広まっていたというのは興味深い。もっとも庶民層にまで知識が広がっていたのは宋時代もそうだと聞いたことがある。そもそも庶民というのが、どういう地位の人々を言うのか、都市と農村では全く状況が違うのか、など各種の問題を含むように思うが、ともあれ官吏となるなるような読書人以外で、そのような知識欲とそれを追いかける生活の余裕があったというのは興味深い。
さて私にとって意外にも面白かったのは日本の思想との関係である。日本史にはすっかり興味を失いかけている私だが、日本独特の思想の元となった本居宣長や吉田松陰などに李卓吾の思想が与えた影響というのはかなり興味深い。
また小説と歴史の関係も然りである。私の訪問帳でもMLでも、小説と史実の関係が話題にされたことがあったが、極端な意見は「小説は思い入れの偏見を生むため、参考とするに足りない」というものであった。本書で書かれているように、そのような姿勢が中国の正統な考え方であったといえる。しかしそれに対して小説などの本をそれが史実かどうかはともかく人間の本質を捉えるものとして評価したのがまさしく李卓吾などであった。
また吉田松陰は李卓吾の影響を受け、一方で清末の譚嗣同や康有為などは吉田松陰等の日本の革命の影響を受けていたという。なんというダイナミックな日中間の交流であろうか。もちろん当時だって常日頃からそのような思想家同士の影響があったわけではないが、それにしても日本にとっては戦後の、そして中国にとっては解放後の双方の交流はなんともお寒いものである。
ともあれ、彼のような特異な人物が歴史上に存在し、屡々忘れ去られそうになりながらも、時代が変わると浮かび上がってくることがあるというのが中国歴史の面白さである。ちなみに彼が世に著述を広めるようになるのは五十を過ぎてからであったという。すなわち「天命」の歳以降の彼が後世に残ったと言える。人間はなんと凄い生き物なのであろうか!歳を取って朽ちるとは、人間の場合、必ずしもそうなるとは限らないのだ。
私の五十以降は何があるのであろうか。[98/5/25]
- 「中国軍閥の興亡」桃源社
来新夏 著 岩崎富久男 訳
- 昭和44年刊。本書は中国人研究者の「北洋軍閥史略」の訳本である。
病気中に一気に読んだのであまり頭に入らなかったが、ともかくもあまり中国軍閥については深く知らなかったので、それなりに面白く読めた。時代は北洋軍閥の誕生、袁世凱の権力掌握とその瓦解、北伐までである。
手近な通史本と読み比べたが、特に目新しい視点とかはあまりないように感じられる。中共下の著作だけあって、中共の活躍を強調しているほか、アメリカ帝国主義、日本帝国主義に対する敵対心をむき出しにしている。軍閥同士の抗争も全て外国の帝国主義による代理戦争という視点を貫いており、著者の立場を痛感しよう。しかし書かれている内容は中共が活躍する以前のこともあり、また当時諸外国が中国領土で軍閥を手先に覇権争いをしていたことは事実なので、それほど現在の日本人の感覚との違和感は少ないと思われる。
印象としては「詳しいけれども深くはない」という感じであろうか。つまり通史でならさらっと述べてる内容を、各本からの引用などを引き出して細かく述べて有るという程度な気がする。
うん?そういえば恐らくは誰も手に入れる機会の無いであろう、本書に関して批評めいたことを書いてもあまり意味はないな。では本書を読んで、ふらふらと思った雑想を書こう。
....とはいうものの、アメリカ合衆国、日本の当時の劣悪さはもはやここで言うに足る問題でもないしなあ...改めて印象づけられたのは、やはり孫文の偉大さであろうか。度重なる革命の失敗にもめげず、なんとか辛亥革命を行ったものの、その成果は袁世凱に取られ、中国革命党を結成、中国国民党に衣替えし、北伐を決意。「革命未だならず」と言ったのはまさしく彼の心から振り絞るような意思だったに違いない。
孫文は中華人民共和国からも、中華民国からも誉められる数少ない近現代史の中の一人である。彼の革命の志は、結局共産党とそれに敵対の目を向ける国民党に分裂して、現在のような形になった。それにしても当時の諸外国における中国に対する仕打ちはまさしく帝国主義である。後に日本を民主国家へと導くアメリカ合衆国だが、それはタイミング的に極めて幸運なことだったと言えよう。他書でも語られるとおり、アメリカ合衆国は理想だけを追い求める警察国家なんかではなく、当時は紛れもなく帝国主義国家の一端であった。
それにしてもである。日本は奉天派を助けて、勢力拡大を選ぶしか、道は無かったのであろうか。そのことが結局、日中戦争という不幸な結果をもたらし、ひいては戦後長きに渡る国交断絶をもたらしたのでは明白であって、どう考えても更にベターな道があったのは容易に考えられよう。なぜ、偉大な中国に対して、その偉大さの影響を大きく受けてきた日本が、自らの支配下に収めようなどという愚挙をしたのであろうか。
もっとも清朝も、その少ない満洲民族により、中国を支配し、中華帝国を帝国たらしめた。それと同じ事が、同じ東方の日本が実行できると夢見たとしてもまあ不思議ではない。歴史を教訓にする場合、歴史の都合の良い面を取捨選択して、都合の良い歴史を取り出せる危険性があるのはさまざまな例を見ても明らかだ。
まあ、アジアや欧米の多くの血を流した結果、今の日本がありことを感謝せねばなるまい。
そういえば、本書では例の如く袁世凱が悪く書かれている。歴史を知り出すと、こういう非難ばっかりされる輩の真の姿、あるいは肯定意見が聞きたくなるものだ。友人に聞いたら最近出版された新書でそのような本(「中華民国」中公新書?)があるらしい。読んでみようと思う。
やはり中国は近代史も面白い。心がちくちく痛むけれども。[98/5/25]
- 「中国古代再発見」
貝塚茂樹
- 貝塚茂樹先生と言えば中国史で超有名な先生である。中国古代史というのは文献が 比較的少ない分、考古学における成果が大きく、文献学とても考古学を無視してはやっていけない。
本書亡失のため続きはいづれ。