九月二十一日(三日目)

 夜ホテルにて以下を記す。

 今日は結構ぐっすり寝た。朝、ホテルの食堂で飯を食う。私は食券をなくし、十元損する。どうもこの食堂は飲茶形式らしい。今日は書くことが多いので先を急ごう。まず天気がすごい良い。やはり天気は良いに限る。それだけで足が軽くなるようだ。今日の予定は主に西湖の南を行くというもの。湖浜という東岸から船に乗り、南へと渡る。最初、小さな乗り場で船に乗りそこない、失敗したと思ったが、そこからちょっと離れた大きな乗り場で15分待ったら出発。まさしく遊覧船で、湖のせいか乗り心地は良い。どうもこの船は不定期に島や岸の乗り場を往復しているらしく、一度お金を払うとそれぞれの乗り場へ行けばのれる。まず湖心亭に行く。そして田の形をした島、三タン月亭に行く。やはり景色はきれいだ。

 基本的に私はあまり自然の景色とかには惹かれない。しかし、ここの景色は本当に奇麗である。西湖は西施の美しさに喩えられ、そこから名前がついたともされる。西施は呉越の戦いで、越が呉王の気を緩ませるために、呉の後宮に密かに送り込んだとされる伝説の美女である。西湖には十景と呼ばれる風景があり、それぞれの場所には、芸術を愛した清の乾隆帝の御筆の石刻が建っている。昨日は「曲院風荷」「平湖秋月」「断橋残雪」を見、今日は結局「三タン印月」「花港観魚」等を見た。

 さて、ここからの行くところに少し意見を出し合う。実は今朝、私は地図で「于謙墓」を見つけてしまったのだ!于謙は知る人ぞ知る、明の硬骨漢官僚である。当時の正統帝はオイラーとのエセンの攻撃に、寵臣の宦官に唆されて、北京から北へ出陣、無謀な戦いをしかけ、戦場で捉えられるという不名誉な事態になった。北京政府は皇帝不在になり上へ下への大混乱、すわ南遷かという事態になった。しかし于謙は宋と同じ事態になることを憂え、断固として北京を守り抜くことを主張、それを実践したのである。彼は皇帝不在ではまずいとして弟の擁立、すなわち景泰帝の擁立を支持したのだが、正統帝が復位した後、それが怨まれ殺されてしまった(以上の話、正確でないところがある可能性大)。

 私にとっては宋神宗の時の寇準と並ぶ2大硬骨漢として記憶している人物なのである。そういえば昨日の博物館で彼を称える明時代の官僚の文があったが、おそらく于謙は杭州出身なのであり、その文は同郷の尊敬すべき先輩官僚を称えたものだったのだろう。

 ともかくも、そんなにも中国でも誰でも知っているわけではないと思う、その人物の墓。これはぜひお参りしたい、と思ってしまったわけである。

 次の大目標は六和塔だが、それに行くのに「于謙墓」に近いコースと、「章太炎記念館、蘇東ハ記念館」に近いコースがある。私は他の人が于謙墓に行くとは思わなかったのだが結局みんなで行くことになった。于謙墓は森の中にホテルがぽつぽつとあるような閑静な場所を入っていく。何しろ地図に載っているだけなので、どんなのなのかも分からない。本当に見つかるのだろうかと思っていたらあった。なんと、入り口にちゃんと大きく于公なんちゃら、みたいに掲げてある。わ〜い、と思って行くとなんと工事中。伝統的な、なんといったかなあ、四合形式だったか、台湾の廟などでよくある形式の建物である。工事中の中をおずおずと入り込むが別に文句は言われない。「ちょっと見せて」みたいに言ったら「見ていいよ」みたいに言われた。中を覗いてみると、彼の腰上以上の銅像と全身像、そして彼が書いたか、彼を称える文が掛けられているではないか。墓もあるかなあ、と裏をまわるがどうも見つからない。しかしまあ、とりあえず小さな感動。しかし杭州では恐らく超マイナーな于謙墓をお参りし、しかもそれが改装されていることに満足し、そこを後にする。

 さて次に章太炎記念館である。章太炎とは清末の思想家、章ヘイリンである。といっても私も名前だけはよく聞くが詳しいことは良く知らない。今日の勉強によれば彼はコウユウイの戊ジュツ新法運動に参加し、その失敗の後、革命派となり、袁世凱政権に参加したりもするが、彼の政策に反対して捕まったりし、その後は反共を進める蒋介石に反対し、共同で抗日にあたることを主張した学者である。ここには彼の形跡を記した記念館があり、彼のことを知ることが出来、面白かった。彼の墓の前でしばしたたずむ。なお、彼の墓標は彼自身が袁世凱に軟禁されたときに、死を覚悟して書いた物らしい。

 さて実は同じ敷地内に「張蒼水」という人物の墓もあった。これがいやに立派で岳飛廟の墓より、広いくらいである。一体誰だろうと思ったが、とりあえず墓には「カンポウ」とか書いてあり、兵部尚書とか書いてある。清時代の官僚かなあと思った。

 その後、彼の記念館に入る。そこでとっても感動!なんと彼は明末に清に対して徹底抗戦した人であった。鄭成功などと協力したりしながら、結構反撃したりし、鄭成功が台湾で死んだあとも抵抗を続けたが、結局捕まり殺されたらしい。岳飛、于謙と並び、西湖湖畔に葬られた三傑の一人としてあった。この経歴を見る限り、彼はかなり有名な人物っぽく、きっと私が忘れているか、知らないだけなのだ。墓もでかい筈である。ともかく、ここで知ることが出来、その墓を拝めたことにひどく感動!その感動に浸りながら六和塔へのバスにのる。

 あ、蘇東ハ記念館に行き忘れた。が〜ん。まあ、でも彼にはそんなに思い入れがあるわけではないし、有名な人物なのでまた来る機会もあるだろう。気が引けるのはMLなどでお世話になっている、蘇軾好きのトンポウロウ様に申し訳ない気がすることだ(^^)。ともかく今日はあまり時間が無いのでとにかく六和塔へ向かう。

 六和塔につく。これは呉越王、銭弘叔がセントウコウが荒れるのを鎮めるために作ったとされるもので、宋時代の雰囲気をかなりよく残しているとされるものだ。中国の塔は本当にどっしりしていてでかい。上まで登ったが景色が好い。ただしつかれる〜。ここからはセントウコウが一望できる。ここから見ると砂利船さえゆったりと走るのが小さく見え、風流である。

 さて降りる。実はM先生が「六和塔は水滸伝のロチシンが死んだところかも」といっており、みんなで半信半疑だったのだが、彼の銅像などがあり、それが本当だったと判明。一同感銘する。またここには呉越王の祖先の銭ビョウが、荒れ狂う河神を弓矢で退治したという伝説もあるらしい。

 古塔博物館があり、ちょっと期待していたのだが、あまりイケてない。まあ私の塔に対する勉強不足もあるが。中原文物展というのもあるらしかったが改装中であった。無念。総括すると六和塔はあまり面白くなかった。私には建築の知識が不足しているのだ。まあ仕方ないだろう。

 さてここで友人たちと別れることになる。私は宋の王城があったあたりを行きたくなったが友人たちはもう帰りたいというのである。そこは「地球の歩き方」の上海、蘇州、杭州編にだけ載っており、当時の面影を偲べるという。しかしたいしたものがあるとは思われず、またバス停から遠い。ということで私だけ行くことになった。

 久しぶりの単独行動である。気の置けない友人たちとの旅行は気楽なもので、我が侭ばかりを言っていてもほとんど受け入れてくれるし、喧嘩になることも滅多に無い。行く方法を考えるとき、ホテル取りなどで私がよく分からなくても、彼らと一緒ならなんとかなる。だから彼らとの旅は凄い楽だ。だから不満はない。

 そんな中、不満というより唯一の欠点は「思索にふけれない」ということであろう。そ時間がようやくできた。さて宋城跡へ向かう。なお、途中で白塔の前を通り写真を撮る。
 宋城は宋城路と呼ばれるあたりらしい。宋城路は南北に走る道から西へ向かっており、行き止まりになる道である。宋城路は全く庶民が住んでいる住宅街であった。こういうのをなんというのであろう、私は「下町」というのが良く分からないが、そういう感じなのだろうか。いや、そうか、これが陋巷なのだ。帰ってホテルで気がついた。家々が並び、人々が軒先で話したり寛いだりし、子供は学校から家路へ向かう。洗濯物が通りに掛けてある。

 旅行者としては、他人の家に踏み込むようでちょっと恥ずかしい感じである。しかし人々はそれほど奇異な目で私を見るわけでもなく、無意味そうに立っているおじさんや、家まで椅子に座っているおばさんなどが何気なくこちらに目を向ける程度だ。こちらはその通りの住居人のような顔をして通るのが一番良い感じだ。

 さてずんずん進んだが、昔の跡を思わせるようなものは何も無い。左手の丘を過ぎ、道はいよいよ狭く、舗装さえされない山道となり始めた。さすがにもうあまり関係ないだろうとそこで引返すことにする。さっき気にしていた丘を上る。上は田んぼだった。しかしよく見るとその上り道や田んぼの脇に多くの陶磁器片が落ちている。私は学生時代、これでも考古学研究会で、熱心ではなかったが、少なからず山の中を遺物を捜しながらかけづりまわったものだ。その為、こういう所では足元の文物に目が行くのである。最初は瓦片や陶器片に目がいったが良く見ると青磁片も散らばっている。さては宋時代の文物か!?と思ったが、よく見ると最近捨てた皿なども捨てられている。ただのごみ捨て場なのだろうか。しかし模様らしきものが入った宋時代っぽい破片も多くて、私としては宋時代と思いたい感じだ。なんとなく気になりながら足も痒くなってきたのでそこをあとにする。

 ところが帰りに、軒先に宮殿で使うような円形の礎石を一個みつけたのだ。こういうのはさすがに庶民の家では使わず、寺や宮殿に用いられるものではなかろうか。おお、これこそ南宋のものであろう。とりあえず満足して帰ることにした。それにしても、あまりの陋巷で写真も撮りにくい雰囲気だ。礎石を撮るのは諦めた。さらに宋城路の入口では軒先に小さな獅子の置物が置いてあるところがあった。それも王城に関係するものであろうか。それとも単なる置物なのだろうか。

 まあ、そんな体験をしていたら宋城跡に来た気分になった。さて、そのもう一本北の道の突き当たりには地図に「梵天寺」と書いてある。なんかあるのかもしれないと思い、どうせならと思っていってみた。そこは梵天路と呼ばれる通りらしい。ほぼ突き当たったあたりになんと高さ2,3メートルの石塔が二つあるではないか。かなり崩れているが、仏の並ぶ図や力強い龍のレリーフが彫ってある。周りには安全なように鉄の柵で囲ってある。かなり古そうなので、一生懸命文字を見たら、呉越王、銭なんとかが建立とか書いた文がようやく見えた。これが五代時代のかは分からないが、ともかくもここに彼に関するゆかりの寺があったかなにかしたのであろう。私としては文化辞典に載っているようなかなりゆかりのある石塔のように感じたがよくわからない。ああ、こんなことなら六和塔で塔に関する本を買っておけば良かった。日本に帰って調べることにしよう。

 ということで思いがけないみつけものをして帰路に就く。友人にちょっと教わった文物店を探して歩き回り、へとへとになってしまった。一人では食堂に入る気もせず、ビールと鶏肉と果物を買って帰った。友人達は先に帰っており、それによればなんか部屋に「ホテルの保証金が足りない」という紙が入っていたという。ホテルに掛け合ったら結局問題ないようだ。

 ということで、今日ではなく、昨日買ったスイカを切って食べて一日が終わった。スイカは意外に黄色いスイカで、あまり甘くなかった。