九月二十九日(十一日目)

 ホテルにて記す。

 昨晩は熱が出なかったようだ。

 まず中山陵へ行く。中山陵へは二階建てバス9路で終点である。中山陵はやはりでかい。でかいというか、最初の牌楼から無茶苦茶遠い。病気中にはつらい。でも天気はまあまあで、蒼い屋根の建物が奇麗だ。I先生によれば青天白日旗の青からの象徴らしい。墓室や墓室前の天井にも大きな白日が描かれている。

 やはり観光地のせいか人が結構多い。墓室には墓棺がちょこんと置かれており、ちょっと違和感がある。一体どういう形で中に入っているのであろうか。流石にホルマリン付けとかはないであろうが、灰が収められているのであろうか。臥せた像の棺が違和感を増す。

 裏には墓の制作課程がパネル紹介されているが、考えてみればこれでは墓陵というほどのものではなく、山の斜面に建築物を建て、その中に遺骨を収めているだけという感じだ。まあでも良い観光地である。

 そこから東の孫文記念館に向かう。買った中山陵のパンフには小道があって直接東に向かうことが出来るように書いてある。切符売場の手前にあって、そこを通る。ハイキング気分である。「やまあるき」の歌を歌いながら歩く。人がほとんど誰も通っていない。にも関わらず山道の途中には物売りのおばさんが荷を広げている。

 孫文記念館は面白かった。人はあんまりいなかったけど。3階くらい使って、豊富な写真や遺品などで孫文の軌跡を描いている。私は例のごとくゆっくり回る。で、気がつくと午後1時。今日は病気だと思ってゆっくり回っていたがそれにしてものんびしすぎたようだ。本当はあと孝陵と南京博物院を回るつもりだったのだが後者は流石に駄目なようだ。

 中山陵の入り口に戻り飯を食う。冷えたチンタオがうまい。

 さて、ここから9路のバスで美齢宮へ。蒋介石とその妻、宋美齢が一時住んでいた館だ。私はそうでもなかったがI先生が行きたがり、まあ博物院も今日行けないことが明白なので行くことにした。

 入口に美齢が使った車があり、屋敷は数々の写真で美齢が描かれている。彼女は宋三姉妹の一人で、姉の慶齢は孫文の奥さんである。すなわち近代中国において歴史に大きく足跡を残した姉妹なのである。しかし年表で現在百歳を越えることが分かり感銘。

 今日思ったことであるが、中山陵にせよ、美齢宮にせよ、よく中華民国のものが保存されているのには感心した。現在は対立する敵国のものであるのに、この辺は度量の違いなのであろう。

 で、今日のメインイベント、孝陵すなわち明太祖シュゲンショウの墓へ向かう。美齢宮の所をちょっと下ると四方城、大金門にあたる。前者は永楽帝が太祖を称えた碑文を置いてる所、後者は孝陵の入り口の門である。ここから石象路という石象が続いている道があり、延々と孝陵まで続く。つまり我々が通るコースが本当に孝陵の参拝コースというわけだ。

 四方城とかはいかにも明代の建築といった感じである。御手洗いに行きたくて落ち着いてみれなかったけど。そして石象。楽しい〜。特に象さんがかわいい。しかし石象の背中に乗るという野望は今回も果たされなかった。

 さて途中に孫権墓へ行く分かれ道があり、向かう。こんなの知らなかったが確かにあってもおかしくない。さてその場所は孫権の像が建っており、孫権の事蹟を表した壁画と文章が並べてあったが、墓がどこにあるのかは分からない。それほど強く興味も無く(というか結構懐疑的)、時間も迫ってきたので先へ行くことにする。そういえば紅楼夢に関する公園なども出来ていたようだ。

 ようやく「一般人の為の孝陵の入り口」につく。さてここからがまた長い。しかし夕方なせいか閑散としているし、木もうっそうとしている。中山陵と違い、終わりが見えない。まあともかく向かう。バスは5時半が最終のようである。4時なのでまあ余裕はある。

 途中の孝陵陳列館はパネルが内部に張られたままお土産屋になっていた。本を買う。墓前の最後の建物に到着。結構寂れている。面倒なので調べなかったが、建物が若干宗教臭い。白蓮教関係なのだろうか。それともやっぱり清時代なのだろうか。

 でも良い雰囲気。背後の山はもう木々で覆われている。元気があれば山をかき分けててっぺんまで行きたいが流石にその気力はない。さて戻る。帰る途中、碑の建っている建物は昔別な建物が建っているようで、その基段がすごく廃虚と化しているが所々にたくさん遺物が残っており、すごく楽しい。興味が惹かれる。基壇は3層なので相当大きい建物なのだろうか。ともかくあちこちに葬られている神獣の首とかが楽しく、持って帰りたいくらいである。

 さて山を下りた。20路にのる。今日、地図で常遇春の墓をみつけたので、帰り、ちょうど途中であることもあってよることにする。ただしその場所は20路と立体交差している道の途中にあり、行くことは困難が予想された。ということでI先生とは別れる。

 バスを降りる。20路は城壁に沿っている道で、ちょうど丘の上に城壁が続いているとなりにある感じだ。そのため、左手に城壁、右手に林を見ながら、一人になったのでEVAのMDを聞きながら歩く。

 立体交差なのでそれらしきのに当たるかと思ったら、ふと気がつくと右手の林から車の激しい音が遠くに聞こえる。「が〜ん、立体交差いっても、下の道はずっと下をトンネルのように通っているんだ」と気がつく。しかたなく林を下りれる階段を下る。階段といっても下へ降りる用でないことは明らかだ。すぐにへんな煉瓦のごみ捨て場のような所へつき、うろうろすると下の道路である。下の道路は高速道路の親戚みたいな感じで車がびゅんびゅん通っている。もっとも自転車も走っている。両脇は深い溝がある。つまり簡単には道路にさえ出れない。排水溝のような切れ目があり、泥地を抜けてそこから道路に這い上がる。

 出た場所は後ろを振り向くとちょうど立体交差の出口(北側)であり、位置としてはどんぴしゃである。あとは北に歩いていけば右手に墓がある筈だ。ここで質の悪いことに御手洗いに行きたくなった。そこで急ぐ。が、はそもそも高速道路っぽいので、そんな所がある気配はないし、気がつくと料金所のようなところでその奥には交差点が見える。地図では交差点はとっくに墓を過ぎた所だ。「が〜ん、墓は私が這いずった山の中にあったのか」と気がつく。トイレにも行きたいということで戻る気にもんなれず、そのまま帰路に就く。

 大敗北。しかしあんまり時間を無駄にしなかったので後悔はない。しかも常遇春についてはたしか明建国の功臣という程度にしか覚えていないこともあろう。また来る機会もあろう。ちなみに地図に載っている通り道には呉テイ呉良の墓もなかったようだ。そもそも誰だっけ?なんか画家でこんな人いたっけなああ。

 がああああああああああああああああああん、今見ていたら帰りに乗ったバス停の近くに明建国の功臣、徐達の墓があったのかあああああ。結構後悔。まあ仕方ないか。急いでいたし。いづれ、再び「明時代墓参り」をしたいものだ。

 で、帰る。薬が切れる夕方、熱が上がってくるのが分かる。酒を飲んでさらに良い気分。で日記を書いて終わり。