臓器移植について
「伝道48号−特集 みえない死臓器移植をめぐる問題」より
−浄土真宗本願寺派布教使 木曽 隆師 (新潟教区 長岡組 長永寺住職)−
はじめに/脳死の問題/臓器移植について/現代科学の問題点/現代医療の問題点/死を自らのものとして/いのちの尊さ
1.はじめに
ここ数年臓器移植についてさまざまな議論が交わされ、多くの人々の大きな関心が寄せられています。しかしこの問題に対する僧侶の声は余り聞こえてきません。また 公の場や、マスコミでも僧侶に意見を求めようとしないのは非常に残念な事です。いのちの尊厳に対して僧侶は最も発言すべきであるし、意見を求められるはずであるのになぜなのでしょうか。それは僧侶の平素の活動に現実の社会問題に対する取り組みが成されていないことが大きな原因であります。それはそのまま現在の僧侶に対する一般の評価です。
もう一つの理由は僧侶側の姿勢にあると思います。仏教の教えはあるかないかと言う教えではありませんから、臓器移植についてさまざまな考えがあって賛成と言う僧侶も反対と言う僧侶もいて当然だと思います、統一見解などを出すことは出来ないと思いますが、お互いにもっと議論すべき事柄であり、余りに議論されていない現状が問題なのです、僧侶間で大いに臓器移植について議論し、また教団としてもその議論の内容をを公にして社会に問題を提起していく必要があります。
2.脳死の問題
さて臓器移植の問題は、移植そのものの問題と脳死は人の死かという二つの問題が議論されます。
脳死の問題は高度に発達した医療技術によって起こってきた新たな死の定義です。人工呼吸器の誕生によって脳死という問題が出てきました、これは今までの心臓死と違って温かくまるで生きているような人を前にして死の宣告をすることに多くの人の疑問を生んでいるのです。もし人の死を全細胞死であるとするならば心臓死も死ではありません。呼吸が停止し、瞳孔が開き、心臓が停止した時を今日まで人の死と定義してきたのであり、今日の医学の進歩が、新しい脳死という問題を生み出したのです。
私は現在発表されている脳死判定によって厳密で公平な判断なされた脳死は、再び生に戻ることのない人の死への過程であると思います。しかし現状はそれを人の死と認めることに人々の合意が形成されていない、この事が問題なのです。現代は人の死が見えない時代ともいわれています。病院で生まれ、病院で死ぬ。それは多くの医療機器に囲まれて家族と良い時を過ごすことの無い人が多いからではないでしょうか。それが脳死ということはもっと我々の手の届かない、医療の手で全く肉親の死が決められてしまうのです。なぜそう迄して人の死の判定を早めねばならのか、ひとえに臓器を取り出したいからではないでしょうか。臓器移植と脳死という人の死の判定は別の問題として議論されなければならないのではないでしょうか。医療者を中心とした一部の学者だけの議論ではなく、宗教者も含めた幅広い人々が加わって脳死を人の死とするか否かを充分論議し、合意を形成する時間が必要です。
3.臓器移植について
さて次に臓器移植についての問題ですが、僧侶の中で大きく賛成派と反対派に二分されているのが現状であると思います。賛成派の多くの意見は「このいのちはいただいたものであり、自分にとって必要がなくなった時は全てに執着することなく、社会のために役立てるのは仏教者として当然のことであり、布施の行である」と言われるでしょう。しかし私はこの人々の意見にちょっと待って下さいと言いたい。
臓器移植は布施の行だと言うが、私たちに清らかな本当の布施行など出来ないのではないか。私はいつも自分の都合の良い様にしか生きられない身です。そして臓器を提供される側も、臓器移植を行う医療者も縁に触れたらなにをするか解らない凡夫なのです。人間の姿、ご自身を見つめられた時親鸞聖人は御和讃に
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
と述べておられます。人間の真実のありさまを見る時、直ちに賛成とは言えません。そして一旦始まってしまえば臓器移植と言う医療もどんどんエスカレートしてどこまで行くか解りません。
次に医療に対する不信感の問題です。全国で次から次へと起こる医療者のモラルの低下を示す事件、医は仁術ではなく医は算術と言われる事件が多発しています。またこころない医療による医療過誤の裁判も各地に起きている現実を見た時、医療者に対する不信は相当に根強いものがある。先の脳死判定も医療の密室の中で本当に公平な判定が下されるか危惧するものです。時間の余裕が無く(これは医師や医療者だけの責任ではなく日本の医療制度の欠陥である)、病気は看ても病人はみないと言われる今日の医療現場に「本当にいのちの尊厳は護られているのか、脳死や臓器移植などを安易に任せられない現状ではないか」と言うのが今の私の気持ちです。
私は長岡西病院ビハーラ病棟(厚生省認可の緩和ケア病棟、現在末期癌の病棟では唯一の仏教系施設、医師・看護婦などのほか僧侶がケアに加わる)の設立とその後の運営に約十年関わってきました。その間さまざまな学習会や研究会、学会、シンポジュームなどに参加し医療や医師、病院の問題点を見聞きしてきました。僧侶と同じように医師の資質が今日ほど問われている時はないと感じています。医療者が自分たちだけの殻に止まって、その中で安穏としている現状を変えなければ信頼は取り戻せないと思います。ビハーラ病棟にもこれまで全く医療者から見捨てられて身体が固まってしまった老人、余り意味がないと思われる手術や化学療法で医療不信を募らせた患者さんなど、なぜこんな医療を受けてきたのだろうかと言う人を何人も見てきました。すばらしい医師も数多くいます。しかしこれら医療の現場の問題点をどう解消していくのか問わなければなりません。
4.現代科学の問題点
次に医療を含めた、科学全般に対する問題があります。十八世紀から急速に発達した科学文明は目覚しいものがあります。それによって私たちは考えられないような進歩を遂げたと思っています。特に第二次世界大戦後の科学の進歩はこれまでの何倍ものスピードで進みました。その結果はどうでしょうか。私たちの地球は荒廃し、環境問題が大きなテーマに成っています。このままでは取り返しのつかない、地球全体の破壊にも繋がりかねない状態にまで至っています。それでもまだ環境問題よりも経済の発展に重点を置いた政策を取り続けているのが日本を含めた世界中の現状です。
四十六億年の地球の歴史を一年間に縮めた計算があります。四十六億年前地球はガスの固まりでした。それが冷えて、水や空気が出来てきました。そして三十六億年前海の中に単細胞の生物が誕生しました、それから十四億年前頃に多細胞の生き物が現れました。約四億年前、最初の地上生活をする生物が現れました。二億五千万年前頃にようやく哺乳類が誕生したと言われています。人間の先祖は約二百万年前に誕生しました。この歴史を一年に縮めると、単細胞の誕生は三月のお彼岸の頃です。そして人間の祖先が誕生したのは十二月三十一日午後四時頃だそうです。更に直接の現代人の誕生は大晦日の二十一時を過ぎた頃誕生したのです。この人間が十二月三十一日まで三百六十四日と二十一時間延々と創られてきた、美しい水と空気、多くの資源、そして緑の自然と多くの生き物たちを犠牲にし、滅ぼして人間だけの欲望を満たしているのが今日の私たちの現状ではないでしょうか。石油も石炭も皆三十六億年間の生き物達によって出来あがってきたものです。それを数百年、一年に換算すれば僅か数秒の間に近代文明は使い切ってしまおうとしています。恐ろしいことではないでしょうか。
私たちの欲望にはきりがありません。そして釈尊が説かれるように欲望の果てに待っているのはばら色の未来ではなく、餓鬼道の世界です。この様な現状に対する懺悔や反省がないまま進んでいって良いはずがありません。臓器移植や遺伝子操作によるさまざまな試みは、人間がいのちの尊厳を冒すまでになっているのではないかと思います。これからも科学の進歩は功罪両面を持っていることを良く知らねばなりません。そのために多くの自然が破壊され、大量のエネルギーが消費され続けるでしょう。それはそのまま地球全体、そして自分たちのいのちを縮める行為です。このような視点からも臓器移植の問題を考えてみなければならないと思います。
5.現代医療の問題点
次に現代の医療に対するさまざまな問題を考えてみます。医療の閉鎖性や医師のモラルについては先に触れました。現代の高度な医療の発達と国民医療費の高騰は表裏一体です。今高齢化社会を迎えて医療費の問題が議論されていますが今後も医療費は増大するでしょう。その為に今後一人一人の医療費負担はもっと大きくならざるを得ません。医療を受けるわれわれはこの負担を受け入れなければならないのです。また病院における三時間待ちの三分間診療と言われる現状では、患者中心の医療は行われません。自分の体のことを納得するまで医師に尋ねることは大変難しいことです。例えば病院の検査で癌が見つかった場合、殆ど多くの場合手術をするか、抗がん剤を投与するか、放射線治療をするか、それらを併せて行うことになるでしょう。それらはすべて医師の指示によって行われます。しかしその事についてある程度説明を受けても、その後のことまでは聞くことは殆どありません。手術や抗がん剤による苦痛、そしてその後また新たな違う苦痛が出現し、更なる治療を受け、また次に新たなる異なる種類の苦痛が出て徐々に衰弱していきます。そしていつかは必ず死が訪れます。今の医療は、高血圧に成るから塩分を多く摂ってはいけない。食道癌になるから熱いお茶を飲んではいけないなど、何々してはいけないと言う否定から始まります。そして最終的に「心臓は止めてはいけない」と言う、「死は医療の敗北」と言う思想で出来上がっています。しかし仏教では生死一如を説き、「生まれてきたものは必ず死ぬ、そして生の遥かかなたに死が在るのではなく生と死はいつも裏表に存在している」これは必然の事です。死を自然の事と知らされ、自分自身のあるがままを受け入れて、このいのちを精一杯生き抜くことを教えてくださるのが仏教です。
しかし私は決して現代医療を全て否定するつもりはありません。肉体の修理工場としての医療は必要不可欠です。その恩恵に私もあずかっています。さらに輸血や皮膚や骨髄などの臓器移植はいのちのやり取りの無い、負担の少ない医療であり必要なものと思います。しかし他人の死を当てにして、いのちのやり取りをしなければならないような臓器移植は止めたほうが良いのではないでしょうか。心臓や肝臓などの臓器移植には必ず強い拒否反応が起こります。これは臓器移植が自然の摂理に反しているからではないでしょうか。そしてたとえ移植が成功しても生涯免疫抑制剤を飲み続けなければならないのです。しかし自分自身、また家族が移植を必要とした時はどう考えるかと問われます。私はその時も多分臓器移植には反対するでしょう。
この様なさまざまな医療の問題点を抱えている中で、自分はどの医療を選ぶかが問われているのではないでしょうか。
6.死を自らのものとして
人間は生まれてきたからには必ず死が訪れます、これは自然の事です。ビハーラ病棟である若い男性に死について聞かれた時に「あなたは癌で死ぬのではありません。寿命で亡くなるのです」と答えたことがあります。死ぬべきいのちを生きているのが私たちです。しかしなにをやっても何時かは必ず死が訪れる人生、ではこの人生は無意味なのでしょうか。そうではありません自らの死を見つめた時、生について真剣に考え、真実のいのちに出会うことが出来るのです。人間は死という問題を抱えているからこそ真実を求めるのです。もし仮に死が無いとしたら、私たちは何もしない生き物に成ってしまうに違いありません。死を見つめた時本当の生に気づく事が出来るのです。ビハーラ病棟で「病気になって始めていのちの大切さに気づきました」「今までの人生を振り返っています」と言われる方がいます。四十七歳で亡くなった北海道の鈴木章子さんは、四十三歳で乳癌になった時「癌は 私の見直し人生のヨーイ・ドンのGUNでした 今私スタートします」と述べています。
現代は超高齢化社会です、多くの人が八十歳・九十歳まで生きられます。しかしいくら長生きをしてももっと生きたいと思っている人は満足できない不足の人生です。逆に僅か三十歳や四十歳で亡くなっても、今を喜んで生きればすばらしい人生でしょう。今の医療は一日でも長く生かしたいと懸命の治療をします、この様な医療ももちろん必要です、しかし私たちはただ長く生きただけでは意味のある人生にはならないのです。自分の人生を振り返り、限りあるいのちを一日一日精一杯生き抜くことこそ悔いの無い人生ではないでしょうか。
7.いのちの尊さ
脳死や臓器移植を考える場合いのちを仏教はどう考えるかを論じなければなりません。
いのち尊しと言うことが仏教教えの基本です。この私のいのちはなぜ尊いのでしょうか。それは足の先から頭のてっぺんまで全て自分の造ってきたものではなく、頂いたいのちであり、育てられたいのちであるからです。また大きな願いの懸けられたいのちだから尊いのです。私たちは生きているのではなく、生かされているのです。
ビハーラ病棟で四十九歳の女性が入院していました。この方は癌のため徐々に身体の自由が効かなくなり、排泄も食事もすべて十九歳の息子に介助してもらう様に成っていきました。この息子は今春入学したばかりの大学を一年休学して母の側につく決心をして介護しているのです。大学生活よりも残り少ない母との日々を悔いなく過ごすことを選んだのです。これも命の短さを知らされた為です。ある日この女性が私に「生きることもとてもつらいのです」と言いました。この一言のなかには、死にたくはない、しかしもうすぐいのち終わらねば成らないこの身、身体的にも精神的にも極限状態での毎日、そして経済的負担、そしてなによりも息子を思う気持ちが辛いのだと思いました。生きることも死ぬことも全く自分の自由にはならないのです。このいのちは自分のものだ自分の自由に出来るのだと思っていますが、事実はいかされて生きているのです。この女性に「私たちのいのちは頂いたものです。いかされて生きているのです。多くの皆さんの願い、そして何より息子さんの願いの中に生きているのです。あなたが生きていることが息子さんの支えです。いのちある限り生かさせて頂きましょう」とお話しました。
あらゆるいのちは自然の摂理の中にいかされて生きているのです。そして全てのいのちは関わりあって生きているのです。科学万能と言われている現代、人間の知識を超えた仏様の声に耳を傾けなけばなりません。宗祖親鸞聖人は晩年「自然法爾章」で
「自然というは、自はおのずからといふ、行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。然というはしからしむといふことば、行者のはからいにあらず……中略……このゆえに他力には義なきを義とすとしるべきなり」
と述べられています。人間の我執を離れて如来の大いなる願いに乗託する時、真実に安心出来る人生が開かれてくるのではないでしょうか。それは生死を越えるいのちのすくいです。「人間死んだらしまい、何も無い、生きている時だけなのだ」と言うことでは死んでは行けません。阿弥陀如来の大いなる誓願に出会う時、壊れることの無い安心の人生、仏になる身が知らされます。一人ぼっちではない、見捨てること無い如来と共に生き抜いて行ける人生が開かれ、この世の縁が尽きればいのち終わって仏になる身と死ぬ事も出来る、生死を超えた人生を頂くことが出来るのです。
死を見ない医療、生のみを追求する現代の医療現場に宗教的なものの見方は殆ど在りません。(勿論すばらしい宗教性を持った医療者も中にはいます)今いのちの医療が求められているのです。生死一如、真実のいのちのあり方を説く仏教の視点から脳死や臓器移植に対し大いに発言していかなければなりません。
(本文中改行、空白はホームページ作成者が入れました)
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