富山別院宗報「ともしび」より

−浄土真宗本願寺派布教使 清水 正朋師 (新潟教区 与板組 光源寺衆徒)−


御本尊は見えて下さる南無阿弥陀仏ですし、お念仏は聞こえて下さる南無阿弥陀仏であります。

お仏壇やご本堂のお内陣の中央には、御本尊がお立ちのお姿をお示し下さっておられます。また、その他にも、さまざまなお荘厳(お飾りのお仏具)が、形をもって南無阿弥陀仏のお徳を讃えております。そして、このお荘厳の形が、みな私の方を向いていることに気を付けさせて頂きたいのであります。仏様におあげする華ならば、御本尊の方へ向けて生ければよさそうなものですが、私共の方に正面が向けられております。なぜならば、お仏壇は見えて下さる(南無阿弥陀仏のお謂れ)お説教であるからです。さまざまなお荘厳がありますけれども、その意味内容は全て、中央の御本尊に収まります。称名念仏も同様です。称名は、称える私の行為が尊いのではなくて、口に現れ聞かれて下さる南無阿弥陀仏の御名の側が尊いのであります。南無阿弥陀仏の御名と超世無上の大功徳が不二一体であるというので、名体不二のお名号といわれます。たった一声のお念仏に、法蔵菩薩たりし時からお積みになられたお功徳の全てが、欠目無くみな備ってあるというのです。その功徳を広く讃嘆すると浄土のお三部経にひろがり、延いては一切経にひろがります。逆を言えば、お仏壇もお経様も、みな南無阿弥陀仏に収るのであります。

では、見えて下さり聞こえて下さる南無阿弥陀仏とは、どの様な仏様なのでしょうか。お仏壇にお掛けしてある御本尊のお裏書に「方便法身尊形」とあります。この方便とは、善巧方便のことで、大慈悲心のことです。色も形も無いお覚りの世界から、我々に応じて色や形や声となって、凡夫の口に掛り、心に思い描かれ、味わうことのできる如来様と成って下さったお慈悲のお姿を方便法身と申上げます。お仏壇におあげしてある三具足(仏華・香炉・灯明)の、灯明と仏華は対になっておりますが、それぞれ智慧と慈悲を現したものといわれます。この智慧とは、お覚りそのものの表現でして、未だ覚ったことの無い我々には手に触れることも、思い描くことも及ばない無色無形のお姿です。それがお灯明の光に象徴されているのであります。光には色も形もありません。我々が光を感じるときは、物に当たって色や形と現れたときです。それは丁度、ロウソクの光が、対になっている生華に当たって色や形と現れ出るように、「無色無形ではお前の心に届かないから、色や形や声とも成って届いて行こう」というお慈悲の如来様であります。仏華は、このお慈悲の象徴です。またこれをお聖教には「金獅子の譬え」としてお教え下さってあります。金塊の価値の分からない幼児に、金の延棒のままを渡したら、その価値を理解しえないが故に粗末にも致しましょうが、これを獅子の形の玩具に加工して与えたら、幼児はその玩具を大切にするというのです。その玩具は、幼児の価値観として最高位のものと位置付けられることでしょう。玩具を大事にしているままが金の価値の全てを手にしているとの喩えであります。

私達の個々の口に声と現れ、心に想い描かれて下さる阿弥陀様のそのままが、無上の功徳の如来様でありました。「摂取して捨てない親が抱いておるぞ、お前を抱いて離さないはたらきを阿弥陀というのだ」と勅し命じて下さるお姿が御本尊でありお念仏でありました。如来様が私を見抜き、そして最善の救いの用意は「その身そのままを救いとる」との御決断でありました。この私向けの御用意のままを頂いて行く宗教が、聖人一流の浄土真宗であります。親鸞様の御跡を慕わせて頂くばかりでございます。

(本文中改行、空白はホームページ作成者が入れました)


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