浄土真宗の教え

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、
念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり、
弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。(嘆異抄)


−本堂内陣内金灯篭−


救いを求める人間

人間はともすれば,自分の生きる目標を,財産や,地位や,名声などという世間的な願望のなかから選んで,それら のものを懸命に追いかけて求めております。そして,それらの願望が満たされたら幸福な人生であると思い,満たさ れなければ不幸な人生であると考えがちでありますが,はたしてそれは正しいことなのでしょうか。

わたくしたちが,この人生を生きていくためには,その途上において,まったく思いもかけなかった苦しみや,悲しみ, 障害にあうことがあります。そのとき,普段は利口そうなことをいっている学識のある人でも,また実証的な考えをもった 若ものでも,ひとたびこのような人生の壁につきあたると,占いや,まじないや,祈祷によるご利益などを,本気になっ て信じたりします。それは、いろいろな災難や障害の奥に,悪魔とか,たたりとかいう、ものの気の作用がひそんでい るように思ったり,それを祈りやお払いをして,悲しみや苦しみからのがれたいと思うからであります。

そこに人間本来の弱さ,もろさというものが,うかがわれます。しかしこのような救いは,ときには解決されたように思う ことがあっても,それは決して根本的な解決ではありませんし、科学と矛盾し,社会に毒害を及ぼすようなことさえあ るのです。そういう要素をもった救いを説く宗教は正しい宗教ではありません。

真実の救い

わたくしたちが直面しているさまざまの問題は、信じたり祈ったりすることによって打開されるものではありません。真 実の「救い」とは、たとい現実が、どれほど自分の願いどおりにならなかったとしても、また絶望と破綻のなかで思案 にくれるようなときであっても、なおその壁を突破し、のり超えて生きる勇気と力を与えてくれるものでなくてはなりませ ん。

それは、絶えずわたくしたちのために願い、わたくしたちを救おうとして、はたらきかけていてくださる阿弥陀如来を 信じ、その本願力の恵みのなかにいかされるという、まことの心のよりどころをもつことによってこそ得られるのであり ます。それがそのまま仏のさとりをきわめていく道を進むことになるのであります。

阿弥陀如来と釈尊

わたくしたちは、釈尊という歴史の上に現れた仏(ぶつ)を知ることができました。この世に生まれ、修行し、さとりを ひらいて仏となり、教えを説いて人びとを救い、八十年の生涯をおえて入滅されました。この釈尊はたしかにわたく したちと同じ人間として誕生されました。しかし誕生はおなじでも、われわれとちがって「さとり」という体験をされ、 仏陀(ぶっだ)になられたということを忘れてはなりません。そのさとりの内容は、永遠に変わらない真実の法であり ます。”この法は、わたしが勝手につくりだしたものではない。また、わたくしがこの世に現れても現れなくても、それ には何のかかわりもなく。真実の法はつねに存在している。わたくしはそれをさとっただけである”とご自身がのべて おられます。

釈尊をして、仏たらしめているものは、この永遠不滅の真実の法にあるのであります。この、永遠fっ不滅の真実の法 そのものを、久遠の仏といいます。

さとりをひらいていない、わたくしたち人間の心では、久遠の仏を直接に知ることはできません。親鸞聖人のことばを かりていえば、「いろもなく、かたちもましまさぬ」この久遠の仏である法性法身(ほっしょうほっしん)が、迷いの世界に むかって動きだし、わたくしのおろかな心をめざめさせ、迷いの衆生を救おうとして、み仏になられたのが、阿弥陀 如来であり、この如来を方便法身(ほうべんほっしん)といいます。

すなわち、阿弥陀如来は、わたくしたちを救ってくださる真実のみ仏であり、釈尊は、この阿弥陀如来の救いを説 いて、如来の本願を信ぜよとすすめてくださる、歴史のうえにあらわれた救いの教主であります。親鸞聖人は「釈尊 ・弥陀は慈悲の父母(ぶも)」(和讃)といわれましたが、阿弥陀如来は救いの母であり、釈迦如来は教えの父である といえましょう。

信心

親鸞聖人は、「真実の信心」を明らかにし、信心ひとつで救われることを説かれました。それは、信心は人間の迷い 心がつくったものではなく、本願力の回向(えこう)による信だからであります。では真実の信心が仏になる因である としたら、信心はその条件であるかというと、けっして条件ではありません。如来は「信じたならば救う」といわれるの ではなく、「かならず救わねばおかない、わたくしのまことを信じてくれよ」といわれるのです。

つまり「救う」という如来の誓願が先に動き出しているのであって、それに呼びさまされておこるのが、わたくしの信 なのであります。そのめぐみを受け入れるためには、何の条件もいりません。ではわたくしにとって「信ずる」とはどう なることでしょうか。それは「如来の本願力について疑いがなくなり、それにまかせること」であります。

浄土真宗の信心は自分の心を固めて信心するのではなくて、そういう我執によるはからいがなくなることです。本願 の光りに照らされて、自分の本当のすがたを知らされ、如来のまことに目覚めてゆくのであります。その信心をいただ くには「真実の教えを聞く」ことしかありません。

だれが救われるのか

阿弥陀如来の救いの正機(しょうき、めあて)は、悪人であります。この「悪人」とは、如来の光に照らされて知る「わた くし」の代名詞にほかなりません。たとえ世間的には、よい人だといわれても、また法律の罪は犯していないからといっ ても、肩をはって、自分は善人だといえるでしょうか。悪とはそういう表面的なことではなく、もっと根の深いところにある のです。

ただここで注意せねばならないことは、救いの正機が悪人であるということは、悪事はいくらしても許されるということで はありません。「救う」と「許す」とはおおいにちがいます。子どもがかわいいからといって、子の悪事をよろこぶ親があり ましょうか。如来はわたくしの悪を嘆きながら、捨てずして救い、ふたたび悪におちいることのない仏にすることが、 その願いなのであります。「どんなによい薬があるからといって、好んで毒を飲めというようなことは、あってはならない」 と親鸞聖人は、いましめておられます。

浄土に生れる

聖人は浄土を、「真実の報土(ほうど)」とか、「無量光明土」と名づけておられます。


「真実の報土」とは、如来の願力によって報われてできた世界ということです。わたくしたち一切の衆生を迎えとろうと いうのですから、その願いに報われた世界は「わたくしが待たれている世界」であります。したがって、浄土とは、「ほん とうにあるのか」と問うべきではなく、生れる資格のないこのわたくしが「待たれている世界」と受けとらねばならないの です。

浄土に生れて仏になる...これですべてが終わるのではありません。浄土は一面ではわたくしの罪悪と業苦にまつ わる迷いの終着点ではありますが、他面、あらたに無量のいのちと智慧を得て、仏としてのはたらき、衆生を救う役を はたしてゆく、無限に未来にむかったひらかれた世界の出発点でもあります。

ここまで読みつづけてきたあなたは、これまで積極的に生きてきたつもりの人生が、実は消極的なしなないためのもが きに過ぎなかったと、気づかれませんでしたか。ながいといっても百年に足らぬ生涯を、死を終着とする灰色の人生に 終始するか、あるいは無量の光につつまれた尊い仏の働きをする出発点とするかを、いつの日にか、あなたは選ば ねばなりません。

釈尊に、また親鸞聖人にみちびかれて、さとりをひらいて仏になる浄土への、真実の道をただいまから歩もうではありま せんか。


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