親鸞聖人の生涯とその後

親鸞におきては「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と、
よきひとのおおせをこうむりて信ずるほかに、別の子細なきなり。(嘆異抄)


−本堂内欄間−

聖人の誕生激動の幼年期出家比叡の苦悶念仏に帰入きびしい法難非僧非俗結婚

東国の教化同朋教団教行信証成る聖人の帰京悲しい父と子聖人の往生発展する教団

石山合戦とその後江戸時代の教団教団の近代化


聖人の誕生

聖人は、平安時代の末にあたる承安3年(1173)4月1日、太陽暦にして5月21日、京都の東南にあたる日野の里で おうまれになり、幼名を松若丸とよばれたと伝えられます。

父の名は日野有範(ひのありのり)といい、藤原氏のわかれで皇太后宮大進(こうたいぐうのたいしん)でありましたが、 のちに出家して三室戸大進入道(みむろどだいしんにゅうどう)とよび、日野から4キロほど南に行った三室戸に身を ひそめられたようであります。
また生母については、その名を吉光女(きっこうにょ)といって、源氏の一族である義親(よしちか)の息女とか、義家の 孫にあたるとかいわれ、聖人が8歳になられるとき死別されたものといい伝えられておりますが、史実にはあきらかであ りません。

激動の幼年期

おもえば聖人が生きられた時代、とくにその幼年期から青年期にかけては、わが国の歴史の流れが大きな転換期に 向かっておりました。
すなわち、藤原氏を中心として長らくつづいていた貴族政治が、新しく頭をもたげてきた武家政治にかわろうとする、 時代の大波がうねり狂うときであったのです。

巷では院政のゆきづまりから戦乱がひきつづき、たびたびおそいかかる天災地変や悪病の流行で、人々は不安に おびえながら苦しい生活をおくっていました。また、養和元年(1181)には、前例のない大飢饉がおそって、それは 翌年までつづき、みやびやかなはずの都大路は、死体のにおいがただよい、廃虚の街になりはてたといわれてい ます。

出家

このように騒然とした生きにくい時代に成長された聖人は、9歳になられた養和元年(1181)の春、伯父の範綱卿 (のりつなきょう)につれられて東山の青蓮院をたずね、慈円僧正(じえんそうじょう)の坊舎であわただしく得度の式 を受けられましたが、おもえば人生の、悲しい業縁をになっての出家でありました。

生きてゆく目標も立ちかね、移り変わりのはげしい時代に、しかも、人の世のさまざまなつらさを心にいだいて成長さ れた聖人は、人びとが追いかけ求めている財産や地位というものが、どんなに空しく、はかないものかということを、 いやとおおいうほど見せつけられていましたから、世のなかがどんなに変わっても、けっして変わることのない 幸福をえたいと願われたことでありましょう。得度の式が翌日にのばされようとしたとき、

という歌を示して、式をいそがれたと伝えられるのも、そういう願いの切実さをあらわしているのでしょう。

そして聖人は、幼いときから仰いでは、心をひかれていたあこがれの比叡山に、のぼっていかれたのであります。

比叡の苦悶

伝教大師最澄によって比叡山が開かれてから二百年、中興の祖である良源座主(りょうげんざす)の時代を頂点とし て、この一大法城も宗教的に退廃し、堕落していきました。

僧侶の姿はしていても、心から道を求めている真の仏弟子はまれでした。ただ身をそこにおくだけで、なんの自覚も もたず、その日をすごしている人々のなかで、聖人は自分を見失わず、ひたすら仏のさとりを求めて、それこそ夜を 徹して経典を読み、血のにじむような修行に専念されました。しかし学問が深まれば深まるほど、厳しい修行をつめば つむほど、いままで気づかなかった自分のおこないの内容のまずしさが知られ、浄(きよ)らかさも、まことも、もちつづ けることのできない、あさましい心のすがたが目立つばかりでありました。

聖人は、自分の力で心をみがき、行をはげんで仏のさとりにたどりつこうとする、聖道自力(しょうどうじりき)の教えが どんなにむずかしいものであるかを知るにつれて、しだいに心を浄土教に向けてゆくようになられました。

念仏に帰入

そうした聖人の心をしきりによぎるのは、うわさに聞く吉水の法然房ケ源空上人(ほんねんぼうげんくううしょうにん)のこと でありました。まことの救いに望みの絶えたいま、いっそのこと山をおりて、その”うわさのよき師”に会ってみたいと、 聖人の思いはかりたてられるばかりでありました。

”比叡山であれほど深く学問にうちこみ、きびしい修行をはたしながら、観想をこらすどころか、一心不乱の念仏さえ 困難であった。特に幼少のころより恋したっている両親のいます後世(浄土)のことは、まったく解決されていない。まず、 このわたくしの問題が解決されて、あらゆる人の後世に対する不安が除かれることが、ほんとうの救いでなくてはなら ない...”

そういう問題が心にわだかまっていた聖人は、二十九歳の春、在家仏教の先達である聖徳太子にゆかりの深い、京都 の六角堂の救世観音にこのことを念じて、自分の進むべき道をたずねる決心をされました。

「殿が比叡山をおりられ、六角堂に百日間おこもりになり、後世のたすかるように祈念あそばされましたら、九十五日目 の明け方、夢の中で、聖徳太子がげ文を唱えられて、後世の問題を解決する道をお示しくださいました。」
(恵心尼文書)

「すぐ、その夜明けに六角堂をお出ましになり、後世のたすかるご法縁にあわせていただくためお訪ねあそばして」 吉水の草庵で源空上人に会われたのであります。

源空上人の教えは、”末法の世の人間は智慧も力もおとっているから、どれほど修行にはげもうとしても、思いがつづ かず、雑念がまざり、行がたち切れて、自分の力でさとりきれるものではない。そこで、救いのてだての一切をすでに 用意して、この自分を求めていてくださる阿弥陀如来の本願のこころを聞かせていただき、その救いを信じて生きる ことである。この道こそ、力づよい如来の願力だから、迷いに沈み積みにけがれている身であっても、きっと生死を離れ て、さとりに至らしめられるただひとつの道である”というものでありました。

聖人はこのようにしてはじめて如来を信じ、念仏の道にはいり、如来とともに生きる、何ものにもくじけないあたらしい 人生に向かうことができたのであります。

きびしい法難

よき師にめぐり遭い、そのひざもとですごされた聖人の、吉水での平穏な生活も、乱れた世間の波が容赦もなくおそい かかってきて、そう長く許しておきませんでした。

源空上人の説かれる念仏の教えが、さかんになってゆくことを快く思っていない比叡山や奈良の僧侶たちは、ことある ごとに吉水の教団を非難してきましたが、元久元年(1204)の延暦寺の僧徒たちによる吉水教団の解散要求に引き 続き、翌年の奈良の興福寺から専修念仏を禁止するよう求めた九ヶ条の奏上文が朝廷にさしだされると、ついに念仏 を禁じ、教団を解散せよという命令が出されたのであります。

そして七十五歳の源空上人は、藤井元彦(ふじいもとひこ)の俗名で土佐に、三十五歳の聖人は、藤井善信(ふじい よしざね)の俗名で越後の国府に流罪となりました。

非僧非俗

七百年もむかしの越後はそそらずにはいませんでした。膚をつく寒風のなかに光配所の月は、人生を甘く美しく装って いたものをみな打ち消して、ごまかすことのできない人生の実相を、赤裸々にてらしだしているのです。

聖人はこの思いがけぬ逆縁のなかで、すこしもひるむことなく、いよいよ自己をみつめ、信仰を深めていかれました。 そして「非僧非俗」の境地を自覚し、「愚禿」(ぐとく)と名のられたのであります。聖人のいわれた「非僧非俗」とは、 もはや国家のみとめる僧侶ではなくなったのだから、僧侶であるとか、俗人であるとかのへだてをこえて、まったく自由 の立場で念仏のよろこびを味わい、それを民衆にすすめることができる身になったということです。

結婚

聖人の結婚については、まだ不明の点も残されておりますが、一般に越後の地で一人の女性と結婚し、家庭をもたれ たといわれています。その人は兵部大輔三善為教(ひょうぶたいふみよしためのり)の息女で、のちに恵信尼さまとよば れるお方であります。

聖人一家が常陸の下妻に住んでいられるとき、源空上人は勢至菩薩(せいしぼさつ)の化身であり、親鸞聖人は観音 菩薩の化身であると、夢のなかでしらされたことを書かれた手紙のおわりの部分に、「殿が観音菩薩の化身であらせら れる夢のことは申しあげませんでしたけれども、それ以来、心の中では普通の人とは思わずにお仕えして参りました。 あなたさまもこのようにお心得おきください」としたためておられますが、聖人の人柄がしのばれるとともに、恵信尼さま がいかに敬愛の心で、夫である聖人に仕えられたかがしのばれます。

東国の教化

流罪から五年たった建暦元年(1211、聖人三十九歳)、聖人は源空聖人と同じ日付でその流罪を赦(ゆる)されて、 自由の身になられましたが、そのまましばらくこの地にとどまって、京都へは帰られませんでした。そして建保二年 (1214)、四十二歳になると妻子をつれて、七年間すごしてきた越後をあとに、信州を経て、関東の常陸(茨城県) に移られました。

常陸にはいれれた聖人は、下妻・小島や稲田などに住んで、二十年間にわたって伝道にはげまれました。その努 力が実をむすんで、徳を慕い、教えを求める人びとは、常陸を中心として、遠く奥州方面にまでおよんだのであります。 しかし聖人は生涯にひとつの寺院も建てず、縁にしたがってあるまる人びとを、身分の上下でへだてることなく、おん 同朋、おん同行とよびかけ、あるときは道ばたのお堂で、またあるときは民家の炉ばたで、膝をまじえて仏法を語り合 われました。


同朋教団

寄り合い談合しては、聖人とつよく結ばれ、心に灯をともさらた民衆は、権力によって支配される社会ではなく、ゆるぎ のない如来の本願を土台にした念仏者の同朋集団を、関東一帯に築いていきました。

聖人の直弟子は、孫弟子のなかでお会いして教えを受けたものと、聖人の手紙や、その他のの書面に名前がでている ものを合わせれば、七十人前後の門弟があったことになります。この門弟がまた、それぞれの在所で聖人の教えをひろ めて、性信房(しょうしんぼう)を中心とする横曽根(よこそね)門徒、順信房を中心とする鹿島(かしま)門徒、真仏房を中 心とする高田(たか)門徒というようにひろがって、念仏の同行は十万をこえたといわれます。

教行信証成る

聖人はこのようにして、人びとに教えを伝え、法をひろめながらも、源空上人の十三回忌にあたる元仁元年(1224) 五十二歳のとき、常陸の稲田で[教行信証(きょうぎょうしんしょう)」六巻を著わされましたが、のちに真宗教団が成立 して、親鸞聖人を開祖と仰ぐようになってから、この元仁元年を立教開宗の年と定め、この書が一宗の根本聖典である ところから、「本典」とも「本書」ともよぶようになりました。

聖人の帰京

二十年あまり関東に住んで、真実の教えをひろめられた聖人は、六十二、三歳のころ、家族をつれて京都に帰られ ました。しかしその京都では、鎌倉幕府によってふたたび念仏禁止令がだされ、念仏者んじ対する迫害がつづいて いましたので、表だった教化もできにくく、住居も五条西洞院や、三条富小路などを転々とされなければなりません でした。

そういう状況のなかで、聖人は、のちの世の人びとに、浄土真宗の教えを伝えようと、ひたすら著述にはげまれました。

悲しい父と子

聖人が京都へ帰られてからのちの、三十年にちかい生活のなかで特筆すべきことは、わが子の善鸞を義絶せね ばならなかった事件であります。
善鸞は、はじめ聖人が関東にのこしてこられた門弟たちを教化するために、いわば聖人の代行として、東国におも むかれたのでありますが、いつしか門弟や同行の統率者になろうという望みをいだき、”みんなが今まで聞いてきた 教えは、父親鸞の真意ではなく、正しい法義は、ある夜ひそかに自分ひとりが父から授かった”と吹聴しはじめた のです。

いかに善鸞が、師である親鸞聖人の実の子であっても、ことは信心と教団にかかわる大切な問題でありますので、 在来の門弟や同行としては黙って見のがすことはできません。動揺しはじめた関東の主だった代表者は、聖人に 会って真偽を問いただそうと、はるばる十余ケ国の境を越えて上京してきました。その人たちに対して聖人は、善鸞 のいう密伝のうわさを否定するとともに、

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをこうむりて信ずるほかに別の 細なきなり」(嘆異抄)

と、ご自身の信念をあきらかにされました。

そして、ついに建長八年((1256)五月二十九日をもって父と子の縁を切ることを善鸞に告げるとともに、性信房など 主だった門弟にこのことを通知せられました。
正しい法をまもりぬくことと、断腸の思いであったことでしょう。

聖人の往生

善鸞の背信、動揺する関東の教団、幕府の念仏者への弾圧と、ひきつづく事件にもめげることなく、それこそ”身を粉 にし、骨をくだく”思いで、精力的に著述をつづけていかれた聖人も、弘長二年(1262)十一月二十八日、弟の尋有 (じんう)僧都の善法院で、念仏のうちに静かに息をひきとられました。

臨終の枕辺には末娘の覚信尼と、越後から上京した三男の益方入道(ますかたのにゅうどう)、門弟では高田の顕智 房や、遠江池田(とおとおみいけだ)の専信房などが見まもっておりました。おもえば九十年、一世紀にちかい聖人の ご一生は、じつに”いばらの道”でありました。
しかし、「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かにして、衆禍の波転ず」と「教行信証」に のべられているように、弥陀の本願を信じ、念仏に生かされることによって、この”いばらの道”がそのまま、真実への 白道だったのであります。

発展する教団

聖人がなくなられたあと、聖人のご子孫や門弟たちの努力によって、教えは次第にひろまってゆきます。
ことに、本願寺第八世の蓮如上人は、応仁の乱前後の戦国時代といわれる時代に、戦乱にあけくれ動揺する人びと に親しく接して、教えをわかりやすく説き、それを簡明な文書にしたためて各地の門徒を教化されました。それらの文 書は、のちにまとめられて「御文章」とよばれ、いまでも日々拝読されております。また、親鸞聖人の著述のなかから、 「正信偈(しょうしんげ)」や「和讃」を刊行され、朝夕のお勤めに拝読するならわしとsれたのも、蓮如上人であります。
このような熱心な活動により、真宗は爆発的にひろまり、それにつれて門徒の組織をもとに、近畿、北陸、東海地方 などに、一揆が続発しました。ことにはげしかった加賀(石川県)では、守護大名の富樫氏を倒して、門徒の合議に よる自治を100年間も続け、近隣の地方にも勢力をふるいました。

しかし、反面では、こうした発展にともなって、圧迫も加わります。まず比叡山の僧徒が東山にあった本願寺を破壊し たので、蓮如上人は近江(滋賀県)から、遠く加賀(石川県)や越前(福井県)に移らねばなりませんでした。しかし そのために、かえってこの地方一帯に、浄土真宗がひろまることになったのです。上人はその後、京都の山科に 本願寺を再建され、その教えは庶民の間に浸透してゆくのであります。しかし各地の領主のなかには、真宗を禁制 するものもあり、幾多の苦難と信徒の殉教のなかに、念仏の声は全国にひろまっていくのであります。

石山合戦とその後

蓮如上人の没後、山科の本願寺はふたたび戦乱にまきこまれて焼かれたため、淀川河口の要地である石山(いま の大阪城付近)に移りました。そこでもまた十一代顕如上人の時代に、天下統一をめざす織田信長は、その寺地の あけ渡しを要求してきました。本願寺はそれを拒絶したため、信長はこれを機会に真宗の巨大な力を一挙につぶ そうと考え、石山本願寺を包囲攻撃したので、教団は危機に立ちました。

信長と和睦ののち本願寺は、鷺森(和歌山県)や貝塚(大阪府)天満(大阪府)などに移りましたが、豊臣秀吉が 土地を寄進したので、ふたたび京都に帰ることになりました。それが堀川六条にある現在の場所であります。

江戸時代の教団

江戸時代に入ると、教団は充実期に入ります。幕府は、一面ではキリシタン禁制、鎖国政策のため、仏教を保護 しましたが、他面でその活動に厳重な制約を加えました。宗学の研究が盛んになるとともに、学僧たちが熱心に教え を説いたため、妙好人(みょうこうにん)とよばれる篤信の信者が育てられました。しかし、寺院の本末関係が整備され、 寺檀関係が固定化するとともに、教団の体制は封建化され、それまでのような活動力を失ったこともいなめません。

教団の近代化

明治になると、維新政府は、江戸時代の保護政策とはうって変わった、はげしい排仏政策(いわゆる廃仏毀釈)を とりました。本願寺は仏教諸宗の先頭に立って奔走し、信教の自由を守りぬきました。また、有能な青年僧侶を欧米に 派遣して見聞をひろめ新知識を吸収して帰らせたり、公選による宗議会を開設してひろく意見を宗政に取り入れる などしました。そして、新しくひらけた北海道や、海外移住者とともにアジア、アメリカの各地に開拓伝道を行い、 学校を建て、対象別の教化団体を結成し、刑務所の教誨(きょうかい)、職場の布教など広範囲の活動を展開して きたのです。

聖人によってひらかれた本願念仏のみ教えは、内には、わたくしの心により深く、外にむかってはよりひろく、生きる よろこびをよびさましてゆくことでしょう。


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