摂取不捨について

教育新潮社「宗教」より


−浄土真宗本願寺派布教使 清水正朋師 (新潟教区 与板組 光源寺衆徒)−


はじめに合掌礼拝のおこころ歸命のおこころ他力廻向の信心とご利益南無阿弥陀仏とは摂取不捨一切の諸仏のお勧めくださる摂取不捨

1.はじめに

あるとき、ご門徒のお宅へ月々のお参りに上がった時のことです。来春より小学校に上がる男の子とお婆さんが、お留守番をしておられました。いつものようにお仏壇でお勤めをしておりますと、後ろで坊やが何やらお婆さんにひそひそ話しをしている様子でありました。後になって分かったことですが、お仏壇に向かって両手を合せ、頭を垂れている私やお婆さんの姿について、こそっと問い尋ねたのであります。

お勤めの後、茶の間でお茶をいただいておりますと、また坊やがお婆さんに尋ねるのです。「あそこ(お仏壇の前)で何してたの」。しかし、お婆さんは笑って答えようとされませんでした。それは幼い子どもに、両手を合せる意味を語っても、到底理解ができないと思ったからか、それとも合掌礼拝の意味をイメージとしてはお持ちであっても、言葉で語ることができなかったからなのか・・・・・・。

では、浄土真宗でお仏壇(ご本尊)に向かって、合掌礼拝の姿をとることの意味とは、いったいどのようなものでありましょうか。その辺りを手掛かりにお話を進めさせていただこうと存じます。

2.合掌礼拝のおこころ

浄土真宗における合掌礼拝の姿は、歸命が身体の行為に現われ出た相の一つだといわれます。
親鸞様は、お正信偈の中で、お念仏のお法をお伝え下された七人のご高僧をお選びになり「お釈迦様のもとから、インド・中国・日本と、時代も国も遠く隔たった親鸞のもとにまで、ようこそお伝え下された。このお方々は、阿弥陀様が生身のお姿をとって、現実の娑婆に現われ出られた、お念仏のお法のお師匠である」と、お仰ぎになられました。その中のお一人で、中国のご高僧、曇鸞様は、「歸命はすなはちこれ礼拝なり。しかるに礼拝はただこれ恭敬なり、かならずしも歸命にあらず。歸命はかならずこれ礼拝なり。」とおっしゃっておられます。歸命は必ず表に行為として現われ出ますが、しかし行為の相をもって、直ちに歸命の現れであるとはいえないという話であります。歸命は、合掌礼拝という姿とも現れでますが、格好だけ合掌礼拝の姿を真似ても、それは歸命の現れ出た相とは言えないといわれるのです。

では、私共の合掌礼拝等の姿(宗教生活)に現われ出る源の歸命とは、どの様な意味なのでありましょうか。

3.歸命のおこころ

歸命は、南無の訳語であるといわれます。またこの南無の語は、お釈迦様当時のインド語で「ナマス」の音写であり、歸命は意味から漢訳された言葉であるといわれます。親鸞様は、南無阿弥陀仏の南無をご解釈下さいまして、浄土真宗における歸命の意味を明確にお示しくださいました。その代表的なご文は、次の二箇所であります。

一つ目は『教行信證・行の巻』に「南無というは歸命なり」「歸命は本願招喚の勅命なり。」とご解釈下さり、二つ目は、『尊号真像銘文』に「歸命は南無なり、また歸命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。」とおっしゃいました。二ヶ所とも、歸命の歸の字を「歸依」(依り所)、命の字を「勅命」とご解釈なさっておられますが、一つ目は、阿弥陀様の側から、二つ目は、私の側から歸命をご解釈下さいました。この仏と私との二方面からの歸命の解釈によって、より一層阿弥陀様のお慈悲が味あわれて参るのであります。

一つ目のご文では、「本願成就の弥陀に歸(依)せよと、招き喚ぶ(勅)命」が、歸命であるとおっしゃられました。「本願成就の弥陀」とは、「必ず摂め取って救う」とのおはたらきに他なりません。今正に有無をいわさぬ勅命として、私共の上に躍動しつつあるおはたらきを指して、歸命とおっしゃったのであります。これは、「歸せよの命」とお読みになられた歸命のご解釈です。
二つ目のご文は、如来様の勅命のままに随ったのが、歸命であるとのご解釈であります。阿弥陀様の「必ず摂め取って救う」というおはたらきが、有無をいわさぬ勅命と届いて、今正に我が身の上に、実現し躍動しているところを指して、歸命と讃じられたのであります。これは、歸命を私共の側に立って、「命に歸す」とお読みになられたご文であります。阿弥陀様は命ずる側で、私はその勅命に歸依した、受け身の側になります。そうしますと、歸命も受け身の意味となり、そこから現れ出た合掌礼拝等の姿も同様に受け身の意味となります。また、命ずる側とそれを受ける側とは、同時でありながら前後関係があるといわれます。例えば、マッチを摩て光を放つのと、闇が破られるのと同時の関係でありながら、マッチを摩るのが先でなければ闇が破られないのと同じように、命ずる阿弥陀様が常に先手となるお救いといわれるのであります。

4.他力廻向の信心とご利益

この、如来様の勅命に疑い晴れ、随った歸命は、浄土真宗で一番大切な他力廻向の信心をあらわします。「摂め取って捨てない」の勅命の届いた即時を信心といい、その信心の成立したと同時に、摂取不捨(摂め取って捨てない)のご利益にあずかるお法が、親鸞様のお勧め下された浄土真宗であります。 これを信心得益同時とか、受法得益同時と申します。信心(受法)とご利益(得益)との間に、何ものをも介入させる隙間を許しませんので、「即時」とか「同時」といいます。これは、我々の行為の介入を許さない、阿弥陀様の独りばたらきを示すと共に、如何なるものに対しても先手のお救いであることを表しているのであります。如来様の勅命には、煩悩の身を仏にさせるに、揺るぎ無きお功徳が円かに具わっておりますので、そのお功徳が勅命となって届いた信心は、いのち終えた後に必ず仏とさせる因種となるといわれます。この因種は全く阿弥陀様のお独りばたらきによるものですから、我々の行為をプラスしない成仏の因種です。それ故に万人が平等に、いのち終えた後、必ず阿弥陀様と同じ悟り(弥陀同体の悟り)を開かせていただけるのであります。また、必ず弥陀同体の悟りを開く身(現生正定聚、不退転の位)と定まるのは信心の成立した、生きている今であります。これが浄土真宗の説くお救いであります。この、凡夫を仏にさせるに揺るぎ無き、類い稀にして世に超えた、阿弥陀様のお力を「他力」といいます。この他力によって裏付けられた信心ですので「他力廻向の信心」といわれるのであります。独りばたらきの阿弥陀様が我々の行為に先手を掛けて、成仏の因種となってくださるのですから、我々の行為は因種にはならずに、最早救われた上の報恩の行為となるといわれるのであります。そうしますと、合掌し頭を垂れている、礼拝の姿も、口にお念仏を頂いている姿も、最早救われた後の報恩の行為となります。もし仮に、幾分でも私共の行為をプラスして成仏の因種を完成させるとするならば、 加える行為が千差万別でありますから、因種も千差万別となり、開かせていただくお悟りの結果も千差万別ということになりますが、何物をも介入させないお救いの前には、因も果も万人において分け隔てがなのであります。

5.南無阿弥陀仏とは摂取不捨

お経様を始めとして様々なお聖教には、阿弥陀様のおはたらきを光明で表して「摂取の光明」と説かれております。また摂取の光明(勅命)に疑い晴れた、信心の利益が「摂取不捨のご利益」であります。この「摂取不捨」というご文は『仏説観無量寿経』に説かれるのが最初でありますが、親鸞様は、浄土真宗の救い主である、南無阿弥陀仏を表すお言葉として、大切になさいます。
南無阿弥陀仏は、ご本尊であり稱名念仏でもありますが、共に「摂め取って決して捨てない」の、おはたらきのお姿であるとお仰ぎになり、

『十方微塵世界の
念仏の衆生を見そなわし
摂取して捨てざれば
阿弥陀と名付け奉る』

とご和讃されておられます。親鸞様は、特に大切なご文にお左仮名(ご左訓)を施しておられます。これは読み仮名ではなくて、ご文のおこころを平易にお示しくださったものであります。「摂取して捨てざれば」のお左仮名に、「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」とお示し下さいました。如来様の摂取の光明を撥ね除け、疑っている者を「ものの逃ぐる」とおっしゃったのであります。これは紛れもない、嘗ての私の姿であります。この疑い撥ね除けている者には、お救いのはたらきは注がれていても、撥ね除け無視しているのですから、注がれていない分と同じです。しかし、飽くことなく、はたらき掛け・喚び掛けてやまない阿弥陀様のお手回しに、到頭ご縁が有って、頑固なまでの疑いが破られて、如来様の摂取不捨(勅命)に遇う身とさせていただいたのであります。摂取不捨のお慈悲に触れてみた上からは、嘗てお慈悲を疑い撥ね除けていた我が身の上にも、実は飽くことなく、おはたらき通しであった阿弥陀様のご苦労が、久遠劫来(数で表現できない昔から)であったとお聞かせいただくのであります。その久遠劫来の響きを思うとき、身に湧き起こる慚愧と悦びは、お法に触れる毎に表現し尽すことのできない思いと拡がって参ります。

しかし、この悔やむ心も悦ぶ心も、移り変わり消えてゆく私のこころであります。如来様の先手のお救いの前には、後の仕事に他なりません。確かなのは、先手を掛けて「摂め取って捨てない親がおるぞ」と照らし通した、摂取の光明(南無阿弥陀仏)の他はありませんでした。嘗ては、如来様のお喚び声よりも、己の感覚の方が確かだと思い込んで、「お浄土なんて作り話だろう」と疑って止まなかったこの身の上に、阿弥陀様の光明は、飽く無く照らし育み(調熟の光明)、到頭頑固な疑いをも、お破り(破闇の光明)下されたのであります。その間何と、久遠劫来捨てずに、寄り添い下された阿弥陀様(光明)でありました。ご左訓の「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」は、疑いの者には阿弥陀様の救いの手は、背後にあって見えないでいたけれども、遂に疑い破られてみたら、実は常に真正面に在して、抱き取っておいでの阿弥陀様でありました。山口県に在住の法友が、「田舎ではご本尊を[真向かえ様]と申し上げる」と聞かせてくださったことがあります。正にこのお謂れによるものでありましょう。

6.一切の諸仏のお勧めくださる摂取不捨

歸命が口を通して声と現われ出たのが稱名念仏であり、その出てくださる南無阿弥陀仏の名号は、お喚び声であると親鸞様はお仰ぎになられました。お稱名の名の字は南無阿弥陀仏の名号を指します。この名号の中には、私共の口をついて声と現われ、聞かれて下さるおはたらきまでもが具わっているといわれるのであります。稱えものではなくて、聞きものであるという点よりいえば、お稱名も礼拝同様に、やはり受け身の意味となります。

本よりお名号は、南無阿弥陀仏が未だご成就なさる前、一介の修行者の法蔵菩薩でおありの時、お建てになられた四十八の大願の中、第十七番目の願いの成就した姿であります。この願は、「一切諸仏に我が名号(お念仏の法)を褒め讃えさせ、一切の迷いの衆生に聞かせることができないようであれば、阿弥陀と名告らない」とのお誓いであり、そのお誓いに妥協を許さず、飽くなき苦行の末に成就なされた南無阿弥陀仏(名号)であります。親鸞様は、この第十七番目の誓願を「諸仏稱揚の願と名づく」と讃えられました。稱揚とは、稱はほめることを意味し、揚は声を高らかに挙げて、世に堂々と示すという意味であります。阿弥陀様が数えきれない一切の諸仏如来(お釈迦様はその中の一仏)をお遣わしになり、摂取不捨の南無阿弥陀仏を褒め讃えさせて、迷いの衆生に堂々と聞かせることをお誓いになられたのが第十七願のおこころであります。

私共は、人間娑婆にお出ましになられた諸仏中の一仏であるお釈迦様から、親鸞様を通して、南無阿弥陀仏(摂取不捨の勅命)に遇わせていただきました。しかしこれも疑い深い私に、摂取不捨の親のおることを聞かせんとして、遠い昔から、無数の諸仏をお遣わしになり、自在な変化のお姿もおとりになられて、飽く無くご縁を結び、お育てくだされた南無阿弥陀仏のお手回しに他なりませんでした。南無阿弥陀仏のお謂れを聞いてみたら、この途轍もないお手回しの全体が、摂取不捨の南無阿弥陀仏でありました。

稱名

(本文中改行、空白はホームページ作成者が入れました)


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