往生極楽の道
ラジオ放送「本願寺の時間」より
−浄土真宗本願寺派布教使 木曽隆師 (新潟教区 長岡組 長永寺住職)−
私達は、何のためにみ教えを聞くのでしょうか。歎異抄の第二章に『おのおの十余ヶ国さかひをこえて、身命をかへりみずして、たずねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを聞かんがためなり。』と言う親鸞聖人のお言葉があります。今こうしてラジオ放送を聞いていただくのも、又お寺のご法座で聴聞させていてだく事も、全て「往生極楽の道」を問い聞く為であるとお示しになっています。さらに「ひとへに」と述べられていますから、私がみ教えに遇う目的は往生極楽の道を聞くこと以外にはないということでしょう。
しかし、この往生極楽の道という言葉は現代の人びとには、大変誤解をされている言葉です。往生というと行きづまる事とか、死んでしまう事などに使われています。しかし、往生という文字に行きづまる、死ぬという意味はありません。生きていく、生き抜くということではないでしょうか。それに道とありますから、一時点ではありません。生きていく道程です、今現在より生き抜いていく人生ではないでしょうか。次ぎに極楽とは、お浄土の事であり、私が仏になる世界でありますが、文字の上では楽しみが極まると書きます。では楽しみとはどんな事でしょうか。親鸞聖人は『教行信証』、ご本典のなかに「楽」とは、欲であり、願いであり、歓びであると説かれています。欲とは意欲のことであります。朝目が覚めて、きょうはこの仕事をしようなどと意欲ある生活、それがなにもすることがない、何時まで寝ていても良いということでは、どんな立派な家に住んでいても決して楽しくありません。願いということも同じでしょう。こうなりたい、こんなことをしたいと多くの願いを持ってこそ、楽しい生活が送れるのではないでしょうか。さらに聖人は、よろこびという文字を四つ挙げて身も心も歓びにみち満ち溢れることと述べられています。私達は何時も、身も心も喜びに満ち溢れ、沢山の願いや意欲を持って人生を送ることを望んでいるのではないでしょうか。しかし、私達の願いや喜びはいつも自己中心であり、はかないものです。その極まる世界はお浄土に生まれ仏になることでしょう。しかし、お念仏は、今ここに生きている私を問題にするみ教えです。けっして死んでからの私を救うみ教えではありません。「往生極楽の道」とは、今日ここよりはじまる道でなくてはなりません。親鸞聖人は、その生き生きと喜びに満ち溢れて生きぬく人生は、ただ念仏申す人生であると、お示しくださいました。ただ念仏とは、お念仏以外にはないということです。「ただ」とは唯一ということです。このこと一つということです。
では、お念仏申す人生とはどんな人生でしょうか。それは、仏さまの光に照らされる人生です。仏の光に照らされると自分の本当の姿が知らされます。自分は、何時も間違いのない正しいものと思っていましたが、間違いだらけの自己中心の思いから抜けられぬ私と知らされます。忙しい忙しいと欲望に振り回されている自分に気ずかされます。そして、同時にそんな私を捨てられぬお方のおられることも知らされます。私を見抜かれ、必ず救わずにはおれないと願いをかけられたお方が仏さまです。その仏さまの願いが、お念仏となって私に届いているのです。私の知り合いに八年間もわが子を看病し続けているお母さんがいます。そのお母さんは、たった一人の子供が二才半の時病気になり、動くことも、話すことも出来なくなってしまったのです。それ以来、お母さんは一日中その子を見守り続けています。お母さんの悲しみはどの様であろうと思われます。しかし、その子は痛いとも、悲しいとも言わずにただじっと眠りつづけているだけです。このお母さんが、ある時こんなことを言われました「この子が元気だった頃のようにお母さんと呼んで欲しい。一度でいいから『お母さん』と私を呼んでほしい。その日が来るのをまっているのです。」と。この親子を見ていると仏さまを私は思います。毎日毎日わが子を看病し続けているお母さんしかし、気づかずに眠りつづけている子供、一度でいいから母の名を呼んでほしいと願い続けているお母さんがいるのです。私たちはいつも自己中心で仏さまなどあるものかと疑っています。しかし、いつも仏は私を見守り続けていてくださいます。そして仏さまはその願いと功徳の全てを『南無阿弥陀仏』の中にこめられて、わが名を称えよと呼び続けておれらます。今私の口から出る一声一声のお念仏が、そのまま私に寄り添っていてくださる仏さまの呼び声です。この私をけっして見捨てることのないお念仏と共に生きることが真実の人生であるとお聞かせいただくことです。
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