2002/03 浄土真宗僧侶養成講座−「そわ」原稿より

この原稿は、勤務先の「新潟県立教育センター」の職員誌「そわ」に寄せたものです。


1.はじめに

 14年前に教員になって以来、時折こんな会話が行われる。

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ある先生「えー、太田さんってお坊さんなの?」

智徳「ええ、あの、その、まあ」

ある先生「家がお寺なの?」

智徳「いや、そういうわけではないんですが・・・」

ある先生「どうやってお坊さんになったの?修行とかしたわけ?」

智徳「はい、まあそれなりに・・・」

ある先生「滝とか打たれたわけ?」

智徳「いや、そういうのはないんですけれど・・・」

ある先生「髪の毛生やしていていいの?」

智徳「ええ、うちの宗旨では許されているんです。」

ある先生「お坊さんって儲かる?」

智徳「・・・」

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 「あの人、お坊さんだって」と聞けば、教員にはよくあるパターンとは言え、こうした疑問を抱くのは当然のことである。また、そのことに興味(あるいは好奇心)を持っていただくのは大変ありがたいことである。しかし、一言で返答するのが難しく、疑問の答えを正確に相手に伝えることができない場合が多い。

この度、ここに、「そわ」という素晴らしい冊子に原稿を書かせていただくことになったので、この一言で答えられない疑問の返答をさせていただくことにした。

2.僧侶としてのステップ

私が僧侶として「度牒」(どちょう:僧侶としての免許)を受けている宗派は、「浄土真宗本願寺派」という。いわゆる通称「お西」、「西本願寺」の宗派である。現代においては、奈良仏教、鎌倉仏教の各宗派の多くは、僧侶になるためのコースが近代化・制度化されており、一定のカリキュラムの中でその養成が行われている。中でも、浄土真宗では、比較的オープンな形で、僧侶になる道と僧侶としてのステップが設定されている。

一口に「僧侶」といっても、各末寺(一般の寺)に所属する形で「未教師衆徒」(一般の僧侶)と、「教師衆徒」(住職継承資格を有する僧侶)とがあり、

○「未教師衆徒」・・・「得度」を受式した者

○「教師衆徒」・・・「得度」受式の後、さらに「教師」を取得した者

となっている。

 つまり、僧侶であっても、「教師」を取得していなければ「住職」にはなれない。僧侶にはこの他に「布教使」、「開教使」などの資格、あるいは学問の上での研鑚に対して与えられる階級としての「補教」、「助教」などがあるが、僧侶としてのステップの基本は、これら「得度」と「教師」である。

3.「得度」受式と「教師」取得の方法

 先に述べた2つのステップをクリアする方法は、次のとおりである。

○「得度」を受式する方法

 菩提寺の住職から許可を受ける→「得度考査」に合格→「得度習礼」を受講→「得度」受式

○「教師」を取得する方法

 「得度」受式→僧侶としての経験を積む

→「教師資格試験」に合格→「教師教修」受講

 この中で、「得度考査」と「教師資格試験」は筆記と実技が課される試験で、それに合格すると、それぞれ「得度習礼」(連続11日間)、「教師教習」(連続10日間)などのいわゆる「修行」に行くことができる。

これらの「試験」は、それなりの準備をしておかないと合格できないため、宗門関係学校では、決められた単位を取得、あるいは卒業するとこれらの試験の免除という特典を与えている。

その代表的なコースは、

@宗門関係大学・短大(龍谷大学等)の真宗学科卒業

A一般の大学・高校卒業→中央仏教学院本科(1ヵ年)卒業

B一般の大学・高校卒業→中央仏教学院通信教育部専修課程(3ヵ年)卒業

などである。

 ここで注意すべき点は、たとえ「龍谷大学文学部真宗学科」を卒業していても、各試験の免除はなされるが、「得度習礼」や「教師教修」などの「修行」が免除されるわけではないことである。どのようなコースをとっても、「修行」なくしては僧侶としてのステップは進めない。

 なお、「教師」を取得していると、「住職」になる資格を得るが、「住職」は本山からの任命によることになっており、実際には、門徒総代とともに2泊3日の「住職補任式」に出席した後、各末寺において「住職継承慶讃法要」を執り行い、就任となる。

4.私がこれまでにたどった道

 さて、私は、上のコースの中のどれであったかというと、一見安易そうに見えるBのコースを選択した、というか、それしか他に方法がなかったのである。

愛知県の県職員の子として生まれた私の家は一般の「在家」であり、菩提寺は「曹洞宗」の寺であった。「ふつー」に高校に行き、「ふつー」に大学の工学部に入学した私は、「宗教って、あの祈ったりするやつ?」という程の教養しかない「ふつー」の人間(「ふつー」以下だったかもしれない)であった。

次に、その「ふつー」に生きてきた人間が、ある意味で「ふつー」でなくなった経緯を次に示す。

昭和59

4月

某民間企業に就職

昭和60

9月

中央仏教学院通信教育部専修課程入学

昭和60

11月

新潟県の寺の長女と結婚

昭和61

4月

第1子誕生

昭和62

8月

第2子誕生

昭和62

12月

得度考査合格

昭和63

2月

某民間企業退職

昭和63

3月

得度習礼修了

得度受式

昭和63

4月

新潟県公立学校教員となる

平成元

6月

得度披露慶讃法要

平成2

 8月

ようやく中央仏教学院を卒業

平成7

5月

教師教修修了

5.「中央仏教学院通信教育部専修課程」のこと

 一見安易そうに見える「中央仏教学院通信教育部」での宗門に関する勉学は、想像を超えて厳しかった。大量に送られてくるテキストと、何科目にもわたるレポート課題。全科目必履修・必修得。通信教育であるのでスクーリングがあるのだが、それが1回につき連続3日で、京都または富山での受講。おまけにスクーリング時に特定の科目の筆記試験、実技試験が行われたのである。卒業までに修得しなければならない科目は、

・宗教(1・2・3年次)

・仏教(1・2・3年次)

・真宗(1年次)

・真宗T(2・3年次)

・真宗U(2・3年次)

・仏教史(2・3年次)

・真宗史(2・3年次)

・寺と教団(1・2・3年次)

・伝道(1・2・3年次)

・おつとめ(1・2・3年次)

の24科目であった。

 おかげで、通常3年間で卒業のところ、5年間も要してしまった。教員としての業務を最優先させる中での受講だったので、単位を落としてばかりいた。途中でしびれを切らした家内は「私が教えてあげる!」と意気込み、私に遅れること2年、昭和62年の9月に私と同じ中央仏教学院通信教育部に入学し、私を厳しく指導した後、最短3年で私と同時に卒業した。やっぱり寺の娘は根性が違う、と痛感した。

なお入学当初からもたもたしていたので、卒業すれば免除される「得度考査」を、在学中に実力で受けることになってしまい、家内の指導のもと、夜を徹して勉強し、卒業前に合格、「得度習礼」、「得度受式」となった。

6.「得度考査」のこと

 ここに、「得度考査」の試験問題の一部を紹介する。「得度考査」の内容のレベルは、私が受講していた中央仏教学院専修課程1年次修了程度であった。ご門徒の方でも、詳しい方はよくご存知のような内容であるが、「ふつー」の人間であった私にとっては、初めて学ぶことばかりであった。

筆記試験

(問)「浄土三部経」の経典名を書きなさい。

(答)仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経

(問)「教行信証」の正式名称を書きなさい。

(答)顕浄土真実教行証文類

(問)七高僧を全て書きなさい。

(答)龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信和尚、源空上人

(問)仏教の三法印とその意味を書きなさい。

(答)諸行無常、諸方無我、涅槃寂静(意味は略)

(問)知っている和讃を一つ書きなさい。

安楽浄土にいたるひと 五濁悪世にかえりては

釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきわもなし

実技試験

(問)正信念仏偈六首引を、行譜で誦みさない。ただし、正信念仏偈は暗誦すること。

(答)帰命無量寿如来・・・

7.「得度習礼」と「得度受式」のこと

 「得度習礼」とは、僧侶としての基本的な知識と作法を学ぶためのもので、京都西京区にある西山別院に併設されている「得度習礼所」にて、1年に数回行われている。11日間の、完全に外界とは隔離(新聞・テレビ・ラジオ・電話等はなく、手紙のみ許されている)された中で行われる修行である。「得度習礼所」から入所前に送られてきた「入所に当たっての通知」には、「頭髪を3ミリ以下」、「生活環境がかわるので、体調を十分整えて入所されたい」と記されていた。

「得度習礼」の基本的なスタンスは、「共同生活の中で、寝食を忘れて教学を学ぶ」ということにあるようであった。

朝は、4時半起床、洗面・清掃の後、およそ2時間の「晨朝勤行」(じんちょうごんぎょう)の後、朝食。午前中は3時間ほどの講義とその講義の内容に関する確認試験。昼食を終えて、すぐに実技関係の課題試験の後、午後の講義と確認試験がやはり3時間。

これが終わるとすぐにおよそ1時間の「日没勤行」があり、その後夕食。夕食を終えると実技関係の課題試験があり、その後2時間の「就寝勤行」があった。最後は、班単位で翌日の予習と「習礼」(翌日の勤行の練習)が夜の12時まで続いた。

 これらの指導にあたるのは「特別法務員」の資格を持った「僧魂」のかたまりのような職員で、私たち教育センターの心優しき指導主事とはおよそ正反対の、(ピー)のような方々であった。

 たかだか11日とはいえ、さすがにこのスケジュールには心身ともに疲れきってしまった。習礼所は街中にあるため、その隣には小学校があった。毎朝、「晨朝勤行」が終わって居室に戻るとき、2階の廊下から小学校の生徒が「おはようございます!」と言いながら先生に迎えられて元気に登校する姿を見ることができた。無邪気な子ども達の笑顔を見るのが唯一の楽しみだった。

ところで、この習礼中に特に辛かったことは、

・睡眠時間が平均4時間ほどしかない。

・食事(もちろん精進料理)時間が朝昼夕ともに5分しかない。

・疲れすぎて入浴する元気も出ず、風呂に入れない。

・「講義の確認試験」や「実技の課題試験」を確実に一つ一つ合格しないと、休憩時間もない。

・勤行の最中はもちろん、講義の間も「法衣」を着用した上で「正座」をしなければならない。
 おかげで、修了直後は、早飯が得意になったし、「正座」も比較的平気になった。休憩時間がない日々を過したことは、今の情報・職業教育課での業務に非常に役に立っている。

 ちなみに、特別法務員の中に、「喜太郎」の「シルクロード」が好きな人がいて、毎朝、起床時間になると大きな音で全館に流していた。毎朝その音楽を聞きながら体に鞭打って起床していたので、今でも「喜太郎」の「シルクロード」が大嫌いである。

 11日間、耐えられなくなって途中で退所した人もいた。たまたま班長をしていた私は、説得にあたったが、その人は「こんな刑務所みたいなところはいやだ」と言いながら去っていった。怪我をして退所した人もいた。当番にあたった班は、本堂の一番前の内陣に座り、勤行の中心的な役割を果たすのだが、勤行の後の退場も作法の中にあり、足が痛くて立てなくても、静々と退場しなければならない。無理をして「人の足のような自分の足」で立とうとして転倒、骨折をしてしまうのである。

こうした場合、病院で治療した後、容赦なく退所が命ぜられる。途中で退所しても、次回はまた初日から参加しなければならない。

 11日間の「習礼」を無事修了すると、その最終日の夜、理容師が来て頭を剃髪してくれる。生まれて初めて「ツルツル」になった頭を習礼生同士で見合い、その時あらためて「僧侶になるんだな」という感慨がこみあげてきたのを覚えている。浄土真宗本願寺派で、剃髪が義務づけられているのは、この時だけである。

 翌日は、朝から「大谷本廟」(おおたにほんびょう:親鸞聖人の墓地)や、「本願寺」にお礼参拝した後、国宝「黒書院」の中で「黄袈裟」(きげさ)に着替え、閉門後の本山の「御影堂」(ごえいどう)の闇の中で、古式作法に則り、親鸞聖人から数えて第24世にあたるご門主から直接「度牒」と法名「釈智徳」をいただいた。

得度直後の「智徳」(衣体は、色衣・五条袈裟・二輪念珠)

8.「教師教修」のこと

「教師教修」は、住職として必要な教義に関する知識や、様々な法要を企画・運営するためのノウハウ、作法を学ぶためのものである。

 内容は、「得度習礼」に比べて格段にレベルアップしていた。勤行の時間も「得度習礼」に比べてはるかに長かったし、法要の教修内容も多岐にわたっていた。教学については、もはや「学問」という領域に近かったように思う。

しかし、正直言って「教師教修」は「得度習礼」に比べれば楽であった。内容が楽だということではなく、「僧侶」としての自覚がそれなりにできていたし、何よりも「覚悟して行った」からそう感じたのだと思う。

「教師教修」の間も、もちろん「精進料理」を食べ続ける。最終日、昼前に終わったので私は帰りの列車までの待ち時間に一人本山に行き、お礼参拝した後、宗務所内の食堂で「刺身定食」を注文した。久しぶりに食べる動物性たんぱく質である・・・はずであった。しかし出てきたのは「刺身に似せた『こんにゃく』の定食」であった。実はその日は16日で、親鸞聖人の命日であり、本山の食堂は「精進料理の日」なのであった。

9.おわりに

 私は以上のような過程を経て、「教師衆徒」となった。定年退職してから自坊「浄土真宗本願寺派瀧谷山了明寺」の住職を継承すると、私が第18代目となる。

 「得度」が3月で、4月から新潟市内の高校に新採用で赴任したため、ご覧の通りの頭に、スーツ姿の私を見て、当時の校長先生はずいぶん驚かれたことと思う。生徒も私を見て「ちょっと危ない筋の人」と思ったらしく、赴任当初は私が歩いていると生徒はよけて通った。しかし、3ヶ月もすると少ないながらも髪は元通りになり、今度は生徒は私にわざとぶつかってくるようになった。

 「教師教修」は教員になってから行った。クラス担任をしている時、7日間(休日をはさんでいたので)ほど連続して年次休暇をいただいた。事情を理解して、休暇を許可してくれた校長先生や教頭先生、同僚の先生方に感謝するとともに、生徒たちに申し訳ないことをしたと思っている。

 釈尊が正覚の後、鹿野苑で最初の説法をしたとされるが、その中に「四諦八正道」という教えがあった。「四諦」とは、

「苦諦」:人生の実相は「苦」である。

「集諦」:「苦」の原因は「煩悩」である。

「滅諦」:「苦」の原因を知り、「我執」の心をなく

した平静な悟りの境地が「涅槃」である。

「道諦」:「苦」のもとである「我執」を超えるた

めには「八正道」が必要である。

であり、その「八正道」とは、

「正見」:正しい智慧

「正思惟」:正しい思索

「正語」:真実のことばを語ること

「正業」:正しい行為

「正命」:清らかな生活

「正精進」:正しい努力

「正念」:正しい思いをもちつづけること

「正定」:心の安定をたもつこと

である。

 まわりの人々のおかげにより、まわりの人々に支えられて僧侶「釈智徳」になれたことに感謝している。退職までは、僧侶としての活動は休止しているが、僧侶としての自覚だけは持ち続け、釈尊の教えである「四諦八正道」を心に、精進努力し、「教育」という世界の中で生きていきたいと思っている。         合



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