末代悪人の章

−浄土真宗本願寺派布教使 木曽隆師 (新潟教区 長岡組 長永寺住職)−


悪人とは唯一念仏後生の一大事浄土真宗の利益

『それ、末代の悪人・女人たらん輩は、みなみな心を一つにして阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いづれ法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからず。しかれば阿弥陀如来をばなにとやうにたのみ、後生をばねがふべきぞといふに、なにのわづらいもなく、ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみもうさん人をば、かならず御たすけあるべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。』

1.悪人とは

仏教は何のために、誰のために説かれた教えでしょうか。先日若い看護婦さんと話しをする機会がありました。彼女は医療の中でも主に末期患者の看護を行うターミナルケアに興味を持っていました。死に直面した患者さんを支える為に仏教に興味を持ったようです。ですから、「仏教とは何か、生きるとは、死ぬとは何か」と熱心に質問をしてきました。私も精一杯答えたのですが、なかなか話しが噛み合いません。いろいろ考えながら話しているうちに思った事は、彼女は仏教の教え、そして生きる事、死ぬ事を全く他人ごとのように眺めているのです。自分の事として聞くのではなく、評論家のような立場で考えているのです。いくら話しても話しが進まない訳です。仏教の教えから私を取ってしまったら成り立たないのではないでしょうか。ただ、単に良い話しを聞くとか、教養の為の話しではありません。仏教とは私が仏になる教えであり、いま生きている私を問題にするのが仏教です。そしてお経の一字一句は私のために説かれてあると頂かなければなりません。ですから仏さまも浄土もあるかないかと問うのではなく、私を救うために説かれた真実の世界であります。

ではその私の真実の姿とは、どのようでしょうか。この御文は「末代悪人の章」といわれています。親鸞聖人は自分自身をそして私たち人間をどの様にみていられたのでしょうか。正信偈の中で『一切善悪凡夫人』と述べられているように、善人も悪人も全て凡夫といわれています。この章の末代悪人とは私達の本当の姿なのです。観無量寿経に『凡夫とは心想羸劣(しんそうるいれつ:心が弱く劣っていること)にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観る事あたわず』と説かれています。縁に触れたら何をするか判らない、将来を見通す事もできない真実に暗い者を凡夫といわれています。これは私たち全ての人間を指す言葉ではないでしょうか。悪人と言う事についても少し考えて見たいと思います。仏教では身口意の三業と言い、身体で行う事だけではなく、口で言う事、心で思う事も罪業です。

身業 殺生・偸盗・邪淫
口業 妄語・両舌・悪口・綺語
意業 貪欲・瞋恚・愚痴、

これらを十悪と言いますが、どれ一つとして私の犯さない罪業はないのではないでしょうか。悪人とは誰の事でもない私の事です。その私が阿弥陀如来の救いの目当てなのです。されにこのご文章は「末代の悪人・女人」とことさら女性を挙げています。当時は女性は仏になることが出来ないとされ、差別されていました。ですから全ての人々を救うという仏様の願いもそれは男の場合であり、女は除かれると思われていました。しかし、仏様の救いの対象は男とも女も全ての人々である事を顕かにされたのが親鸞聖人であり、それを受継いで蓮如上人も述べられているのです。

2.唯一念仏

仏教の中には聖道門と浄土門があります。聖道門は私が修行して学問を積み、善根を行って仏に近付いていく道です。浄土門は仏様が私の所へ来て下さる教えです。ちょっと考えると聖道門の教えは立派で優れた教えであり、浄土門の教えは怠け者の劣った教えのように思われるかも知れません。しかし決してそうではありません。

親鸞聖人は九才から二十九才まで比叡山で聖道門の厳しい修行をされました。しかし修行を積めば積むほど自分の煩悩の深さが見えて来たのです。修行を積み学問を行うことによって、煩悩を断じて仏に近付いていくはずであったのに、いくら修行を積み、学問をしても一歩も仏に近付いていくことのない自分自身の姿に気付かれたのです。さらに仏様の教えは学問が出来、修行を積むことの出来るものだけが救われて、それ以外の人々は救われないのであろうかと考えられたのではないでしょうか。聖人ご在世の当時京都の町は戦争と飢饉によって荒廃し、沢山の死者が出たといわれています。その日その日を必死で生き、修行はもちろん食べる事も出来ない、苦しみの中に生きている人々を仏は見捨てられるのであろうか。親鸞聖人は煩悩に満ち満ちた自分自身の真実の姿に気付かれたと同時に、また人々の苦しみに目を向けたとき、聖道門の道を捨てざるを得なかったのではないでしょうか。そして六角堂に参籠の末、法然上人に出会われお念仏の教えに帰依されました。

この師法然上人は十五才で比叡山に登られました。学問が非常に出来比叡山では知恵第一の法然坊といわれていました。しかし大蔵経を何度も繰り返して読むうちに、お念仏のみ教えに帰依されました。しかし念仏一つで仏になる事に疑問があったのではないでしょうか。そして四十三才の時、善導大師の「観経疏」の『順彼仏願故』のご文に出会われて比叡山を降りられたと言われています。なぜ念仏一つで仏に成ることができるのか。阿弥陀仏のご本願に修行をしなければ救われない、学問が出来なければ救わないなどの条件はありません。全てのいのちあるものを念仏一つで浄土に生まれさせ、仏にするというのが阿弥陀仏のご本願である事を確かに知らされたのです。比叡山を降りられた法然上人は、愚痴の法然坊と名乗られ、また「浄土宗の人は愚者になりて往生す」といわれ、生涯お念仏を称えて過ごされました。また多くの人々にお念仏のみ教えを広められたのでした。

この法然上人に出会われた親鸞聖人は、後に「教行信証」の中にその時の心境を『雑業を捨てて、本願に帰す』と言われ生涯喜ばれました。浄土真宗は他のものを全て捨てて、お念仏一つをとして依りどころとして生き抜く教えです。この『ただ念仏』とは唯一念仏と言う事です。お念仏以外を捨てよと言う事です。しかし多くの人は様々なものを当て頼りにして生きているのではないでしょうか。親鸞聖人は『よろずのこと、そらごとたわごとまこあることなきに、ただ念仏のみまことにておわします』と述べられております。お念仏以外は、本当に当て頼りになるものではなく、移り変わっていくものです。お念仏だけが真実永遠に¥変わる事のない依りどころとなるものであると述べられました。そしてこのお念仏のみ教えこそが、男も女も、若者も老人も、学問があろうが無かろうが、お金があろうが無かろうが、全ての人が平等に無条件で救われる真実の教えであり、仏の出世本懐の教えである事を顕かにされました。

3.後生の一大事

後生というと後の世、死んでから先の話しと考えられていますが、本当はどのように受け止めればよいのでしょうか。仏教はお釈迦様によって今から二千五百年前に説かれた教えです。二千五百年前のみ教えが、そのままお経となって伝えられているのです。二千五百年前というと日本では、縄文時代の後期に当たります。まだ農耕文化も生まれない、もちろん日本と言う国家もない時代です。それから弥生時代、古墳時代へと移り変わるわけです。そんな古い昔ですから今とは、衣食住の全てのものが全く違います。病院もなければ、学校も、商店も在りません。二千五百年のそんな古い時代の教えがこの現代に何の役に立つのであろうと考えるかもしれません。しかしお釈迦様によって説かれた仏教は、どんなに世の中が変わり、科学が進歩しても変わらないものを問題にしているのです。それは私たちの「いのち」の問題です。お釈迦様が二十九才の時出家された動機も、親鸞聖人が求められた根本問題も生死いずべき道であり、「いのち」の問題です。私たち誰もが、いつまでも健康で、若く、長生きをしたいと願っています。しかしそれは決して得られません。いくら科学が進歩し、医学が発達しても人間は生まれ、年を取り、病に倒れ、最後には死が訪れます。これは二千五百年前も今も将来も変わらない事実です。

私は今日本唯一の仏教を基盤としたターミナルケア施設、長岡西病院五階の『ビハーラ病棟』(厚生省認可の緩和ケア病棟・主に予後六か月以内の末期癌の患者さんを受入れケアをする病棟、二十二床、仏堂があり僧侶が常駐する病棟)に関わっています。ビハーラとは古代インドの言葉、サンスクリット語で心休まる・休養の場所・僧院などの意味があります。今はホスピスに代わる仏教によるターミナル施設の名称として、また仏教者が老病死の様々な場面に関わる活動の用語として使われています。長岡のビハーラ病棟に入院される方は、末期癌の患者が中心ですから、二年半を経過した現在まで、私は多くの方々の苦しみ、悲しみ、そして死を共に看てきました。その中には会社の社長さんも、大きなお屋敷の奥さんや学校の先生もお医者さんもいました。しかしどんな人でも、お金が有ろうと、何十人の従業員がいようと、どんなに立派な家を持っていても役に立たないのです。「貴方のいのちは後六ヶ月です」といわれた時、お金も地位も学歴も役に立たないのです。さらにまた「六ヶ月先の話しか」とは決してけとめられないのです。自分のいのちの短さを知らされた時、いのちの問題は、私にとって何にも替え難い、今・今日の大問題なのです。

これらの人に接しながらこれは決して癌患者さんだけの問題ではないことに気付かさせていただきました。今日の私自身の問題でもあるのです。私は後十年か二十年生きるかもしれません。しかし明日のいのちが保証されている人は一人もいないのです。いのちの問題は今私の大問題なのです。しかし私たちは目の前の様々な欲望に追われて自分の大問題に気付きません。お金や地位や名誉に追われて忙しく生きています。その私に目を覚ませと呼び続けて下さるのが、お念仏ではないでしょうか。後生とは決して死んだ後の話しではありません。今私の最大の問題なのです。この後生の一大事が解決すると真実に目覚め、目の前の様々な問題に精一杯立ち向かう人生を送る事が出来るのではないでしょうか。この後生の問題、生死の解決こそが宗教の課題であります。

4.浄土真宗の利益

浄土真宗のみ教えは、私の後生・生死の問題が念仏一つで解決するのです。どの様に解決するのでしょうか。浄土真宗の利益には、現当二益があります。正信偈のご文に『本願名号正定業』と説かれているように、全てのものを必ず救うと誓われた阿弥陀仏の本願によって出来上がったお念仏を申す人は、今この身のままで仏になる事に定まった正定聚にさせていただくのです。正定聚の身ですから、この世の縁が尽きて命終わると同時に仏に成ることができるのです。現世においては、仏になることに間違いない、確かな人生を送り、命終る時阿弥陀仏と同じ仏になる、これがお念仏の利益です。何ごとも当てにならない確かなもののない人生、不安の多い人生にあって、お念仏を申す人生は確かな変わる事のない真実に支えられて生き抜く力が与えられるのです。念仏は、仏様の呼び声であり、念仏申すものはいつも仏様に見守られ、仏様と共に生かさせていただく事ができるのです。

亡くなられた曽我量深先生が書かれた色紙に

『仏様とはどのようなお方であるか
我は南無阿弥陀仏であると名のっておいでになります
仏様はどこにおいでになるか
仏様を念ずる人の前においでになります
仏様を念ずるにはどのような方法があるか
仏たすけましませと念じます。
だれでも どこでも いつでも たやすく仏を念ずることができます』

と書かれています。仏様はお念仏となって届いてくださるのです。お念仏申す人といつも一緒にいてくださるのです。しかし念仏申すと言う事は、仏様に助けて下さいとお願いするものではりません。この御文章の中にも『後生たすけたまへとふかくたのみもうさん人』というお言葉がありますが、「生死の問題は引き受けたら必ず救うという阿弥陀仏の呼び声にまったくおまかせする人」という意味です。阿弥陀仏の本願に帰依するということです。仏様は私が願ったり、祈ったりするより先に、先手をかけて「まかせよ、必ず救う」と呼び続けて下さったのであります。そのお呼び声が我を呼ぶ声と聞かせていただいたとき、自然にお念仏が私の口から出て下さるのです。その念仏一つで救われ、私のいのちの問題は解決されてある事に気付かせていただくのです。

しかし私たちはお念仏一つがなかなか頂けません。次から次と疑いが起こってきます。しかし阿弥陀如来のご本願の誓いは間違いなく私たち凡夫の救われる唯一の道です。それをお釈迦様が勧められ、インド、中国、日本の高僧が受け継がれ、親鸞様が九十年を通して喜ばれ、お勧め下さったのであり、このみ教えを蓮如上人が決して疑ってはならないと諭されたお言葉をしっかりと味合わねばなりません。そしてお念仏と共に一日一日を力強く生き抜かさせていただきたいものです。

(本文中改行、空白はホームページ作成者が入れました)


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