黒川金山について
塩山市北部の黒川鶏冠山東面一帯に展開する山梨県下最大規模の金山。
戦国時代、黒川金山より産出した甲斐金は武田信玄の軍資金となった。
昭和61年から63年に行われた鉱山遺跡の学術調査によると、長さ600メートル、最大幅400メートルの鉱山町が、急傾斜な谷の両側に展開していたことが判明した。
坑道などの採鉱場所をはじめ作業場や居住地域に使われたさまざまなテラス群が確認されると共に、
陶磁器などの生活用具類や多数の粉成用の鉱山臼、金粒の付着したかわらけ等も検出された。
地元では黒川金山の開坑は大同元年(806年)との言い伝えがあるが、調査の結果、少なくとも16世紀前半には操業を開始していたことが明らかになった。
黒川金山跡は現在国指定史跡となっている。
なお危険防止のため残存する坑道への立ち入りは禁じられている。
おいらん淵由来:「この淵の南西約2キロメートルの地に黒川鶏冠山がありその山裾の鉱山は黒川金山と呼ばれ、今から五百年前から採掘され、武田信玄の時代が最も盛んであった。
その軍資金である甲州金四十八万両の大半はこの黒川の産金であったといわれる。
狭い谷々にあった鉱山街は規模が大きく、今も黒川千軒の名を残している。
長條の戦いに敗れた勝頼はこの金山を織田・徳川に利用されるのを恐れ、坑道を埋め建物を壊して廃坑とした。
その時坑夫の慰安婦であった遊女の処置に困り、慰安のためと偽りこの淵の上に宴台を作り、遊女をその上に集め酒肴を与えてもてなし、頃合を計って両岸から宴台を吊ってある藤づるを切り落とし、淵に落とした。
その数が五十五人であったところからここを五十五人淵ともいう。 塩山市観光協会」
参考文献: 「戦国武田の黒川金山」大藪宏著 山日ライブラリー
「甲斐黄金村 湯之奥金山資料館」
黒川谷に残る金山跡(2001年12月15日撮影)
テラス
坑道跡
黒川金山跡で最大の坑道。入り口は縦横1.5メートルほど。
石臼
黒川金山跡への道:
青梅街道(国道411号線)を奥多摩から塩山市方面へ。
泉水谷が丹波川と出合うところが三重河原。
左手の三条新橋を渡り泉水谷林道の入り口に車を停める。
丹波川沿いの道を上流に向かって20分ほど歩くと、左から小滝をかけて黒川谷が出合う。
木の橋を渡り、黒川谷上流に少し向かい、滑滝が見えたら右手の斜面を登る道があるので、そこを入る。
植林の中をジグザグに高度を上げていく。
「藤尾橋方面至る」「三条橋至る」の道標のある分岐を左折。
自然林の緩やかな道をしばらく進む。
左下方には黒川谷の流れの音が聞こえる。
しだいにガレの斜面が多く現れるようになる。
大きな岩が重なるあたりに坑道跡が見られる。
下り気味になると沢に近づく。
細い枝沢(少し上流に滑滝が見える)を渡る。
黒川谷沿いを進む。
大岩が谷を塞いでいるのが見える。
右岸の斜面が崩れ落ち、大きな岩がごろごろしている。
このあたりから周囲にテラス群が目に付くようになる。
道が細流となった黒川谷に橋をかけて渡るところが、この遺跡の中心部。
新しい道は橋を渡る手前で右のテラス群の中に延びている。
テラス群の中を通り、斜面を上がっていく。
鶏冠山を見上げる位置から谷上部をぐるりと回りこみ、黒川谷源頭部を横切る。
鶏冠山山頂から離れ、ノゾキノタワへと方向を変える。
大岩前の広場に出たところが最大の坑道口。
外側に鉄の扉、内側には木を組んだ柵があるが、12月15日現在、鉄の扉は施錠されていなかったので、木の柵越しに中を覗くことができる。
再び道を進むと旧道に合流し、ノゾキノタワまで急な登りとなる。
なお、この道は東京都の水源涵養林をめぐる遊歩道として最近整備された快適な道である。
りりまる編集長 osaki@mxc.mesh.ne.jp