大三輪龍彦先生追悼集から



人生の友 大三輪龍彦君

                     松中 健治
 (鎌倉市議会議長) 「御成小・中学校・湘南高校同期生」

 

 友人の死を語ることは、つらい。それに尽きる。 
 それも、人生の友である大三輪君の死を語ることは、予想もしていなかっただけに、彼との付き合いを思い出すことは、耐え難い。
大三輪君とは御成小・中学校・湘南高校、バスケット部、私の選挙と50年来の付き合いだけに。

 毎年、年の暮れ30日に、御成中学校同期生の有志吉井君ほか10人くらいが、鎌倉の飲み屋で集まり、放談会を続けてきている。
若いころの気分に帰ることが出来、気が許せる仲間だ。私も参加して30年だが、でも、昨年の集まりには、君がいなかった。

 君が亡くなって、一ヶ月後、会の山田君も鬼籍の人となったよ。仲間は次は誰かと怯えた。
暮れの集まりはどうしようかと仲間で相談したが、やはり、供養のため続けることにした。

 いづれ、年と共に一人一人消えていくのは、生を受けたものの宿命とはいえ、大三輪君、(みわさん)が最後と皆が心に決めていたはずだ。
君が坊さんであるから、君が仲間の最後を看取りお経をあげるのは、当然だといつも話題にしていた。そんな話も、自由に出来る間柄の
仲間だった。

 本当に走馬燈のように、君との思い出がクルクルと回るように思い出される。
 湘南高校時代、バスケットのインターハイ神奈川代表で九州・熊本に行ったこと。君の親父さんが、いろいろと旅支度を手配してくれて、
帰りに桜島、宮崎、大分、瀬戸内海を回ったこと。乗り物は、まだ、途中、蒸気機関車であった。煙が目にしみたことが、今でも忘れない。

 また、通勤途中、戸塚駅で、私が気分を悪くし、君は一緒に途中下車してくれ、「大丈夫か」と背中をさすってくれた優しい感触は、
今でも忘れない

 湘南高校時代の恩師であった石川一成先生が不慮の交通事故で亡くなり、教え子たちで先生を偲ぶ碑を作ったとき、建立の場所に、君の
お寺である浄光明寺の一角を、快く提供してくれたことは、皆、感謝している。

 また、その縁で、私と同じように高校時代、問題生であった同期の清田君を知ることとなった。清田君は、現在、岐阜・瑞龍寺の住職で、
保南老師と言われ、禅宗の師家として、活躍している。

 大三輪君に、清田君のことを聞いたら、「大変な坊さんだよ」と言われ、是非、会いたいと思って、彼を岐阜のお寺に訪ねた。
会った瞬間、老師のオーラーに打たれ、人の威厳と優しさ、まさに生涯で畏怖畏敬の人物に会えることが出来たのも、君がいたからだ。

 私が、鎌倉市議会議員に立候補した30年前、君は快く応援を引き受けてくれて、初めての講演会でも、弁士として熱弁を奮ってくれた。
それから、8回の連続当選の選挙戦、いつも君は駆けつけてくれ、後援会の集いでも、第一声の開会の挨拶をしてくれていた。
また、当選を祝ってのダルマの目入れでダルマを抱えてくれた。当時の写真を見ると涙が出る。

 そして、また、私が議員になって、鎌倉の歴史のことで大手を振っていられたのは、鎌倉の中世歴史家としての大三輪龍彦教授が
いたからである。困れば、君に電話して、頼めば、快く引き受けてくれた。

 1992年に、源頼朝公による800年前の「良い国」幕府成立にちなんだイベントを町うちの有志で企画したとき、君はいろいろとアドバイス
してくれて、武家政権誕生800年記念の大事業をやり遂げることが出来た。あのとき、鎌倉の議員として、源頼朝公に関わることが出来て、
僕は、感激した。

 このことが、さらに、鎌倉市民有志による源頼朝公の供養塔のレプリカを鹿児島ゆかりの磯庭園・鶴嶺神社前に建立出来たことに繋がった。
  
 そして、その縁で鹿児島・島津家、山口・毛利家から鎌倉・大倉にある源頼朝公供養塔周辺一帯が、無償寄贈を受けることことになった。
今は周辺も発掘調査され、国史跡として拡大され、いずれ、鎌倉の歴史的中心的場所として、整備されることになった。
また、世界遺産登録の対象物件としてあげられている。

 これほどのことをしながら、大三輪君が、道半ばしてこの世を去ったことは、残念至極であるし、一番つらい思いをしているのは、君自身で
あろう。  

 君とはよく語った。鎌倉に中世歴史研究所を作ることを。君との約束でもあった。私は力なさを詫びるが、君は種を蒔いた。水をあげ、
いずれ花を咲かせ、結実させるのが、我々の役目だ。

 世界遺産登録を目指している鎌倉、中世歴史研究所は絶対必要であることは明白である。
 大三輪君、忘れないよ。これは君に対する思いであり、出来なければ死ぬことが出来ないと思うくらいである。
 
 みわさん、見守っていてくれ。頑張るから。