このときの市職員高額退職金引き下げの戦いは凄かった。昭和55年12月


なつかしい資料が
  なつかしい資料が出てきたました。その一部を紹介します。市職員組合員が200人以上が座り込んで騒いでいました。

当時、私の対する組合から攻撃は激しく、発言も都合良く書かれています。

まぁ、攻撃されるのは、当然でしょう、さらに下げるべきだと私は戦うと、委員会を常にリードしていたのですから。政治の世界は背中を見せたら切られてしまいますから。

幹部も一般職も高いことには変わりなく、制度が変われば同じように下げなければいけないはずですが、組合は、市職員労組の立場で書いています‥いずれ、PDFで紹介します。

市会再選後も、私は留まることなく、行政改革を訴えていきました。

それが、行革市長誕生となるのです。市民の有志も立ち上がり、行革市民の会が結成されました。


下の記事は今年1月31日のものです。
 
 

私が、32年前、日本一の高額鎌倉市職員退職金制度を議会で問題にし、引き下げに戦っていた当時のビラが、出てきた。

当時の鎌倉市の職員労働組合は、共産党が支持する日本で最強と言われた。右の記事のように、200人の組合員が総務常任委員会が開かれている日、廊下に座り込んで、抗議の行動に出ていた。

私はいずれ、もっと、下げるべきだと発言すると、廊下では組合員は声を出して騒いでいた。数年後、高額退職金引き下げ実現のため、行革市長を誕生させて、国家公務員並みへ、市職員の高額退職金引き下げを実現させた。

懐かしいビラである。当時は、ワープロもなく、新聞の切り抜きと手書きで作成し、市民に訴えた。

写真のように、私の頭には髪の毛がフサフサしていた。
 ウソみたい!
 

 
 



私は真っ正面から戦った。
当時、背中を見せず、日本一の鎌倉市職員の高額退職金に対し、発言通り、闘いを続けました。

議会内でも新自由クラブが同調してくるかと思ったが、新自由クラブはそのご解党し進歩党となって、我々の行動から離れていきました。

当時は土光臨調、中曽根行革と国では自民党が積極的に行革を訴えていましたが、鎌倉の自民党は、革新市政の時、なれ合い政治体制が出来上がり、どちらかといえば、職員側でした。

当時の自民党が応援してくれれば、もっと、行革が進んだと思います。日和見主義の自民党は今でも変わりません。解散、解散と騒ぐだけです。

私を応援してくれたのは、同志の松尾議員(現市長の父)、石井議員、斉藤政朗議員数名でした。

また、亡くなった江藤淳先生が強烈な応援していただき、マスコミ、新聞、雑誌、週刊誌等で私たちの行革運動を支援してくれました。

また、行革市民の会の有志達が大きな力となってくれました。
その力が行革市長を誕生させるのです。


して、日本一の鎌倉市職員の高額退職金は、国家公務員並みまで引き下げました(つづく)