三百二十一〜三百四十 |
書いていただいた方々、本当に有り難うございます(^^)。
高校時代の卒業小論文に使ったのと、一票しか入っていないという理由でいれました。
文献資料のなかでも、わたしが見た限りでは、彼の才能を誉めているのは、『明史』のほかには、彼の学派の人物が編集した類のものしかありません。つまり、才能についての根拠は、あまりない。ただ、それらの内容を、信憑性があると一般に見とめられる範囲内で読めば、なかなか面白い人です。
日本では、割合その将才を誉めるものが多いです。彼は今から山賊討伐をする直前にも、弟子に講釈した。また、喘息持ちのうえ、わかいころにマラリア(有力な仮説です)にかかったのに、湿気の多いところで戦わされたので、血を吐いたり、最後には韋叡のごとく、輿にのって自軍を指揮した。結構有名な話ですね。
文化大革命以来、本土では避けられている人物ですが、わたしはそんなエピソードがあるので、個人的には好きです。
人物名:張良in楚漢
投票者の方:ゆうちゃん
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人物名:晏嬰(斉)in春秋
投票者の方:ゆうちゃん
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人物名:杜伏威
投票者の方:gaxtuki
< gaxtuki@excite.co.jp >
杜伏威は隋末期に活躍した人で、農民軍にありがちな狭い自己主義と好きなことやったれみたいな行動を慎み最後には、わいが南方と長江東方の地を治めた人です。 結局人がよすぎて忙殺されたみたいやけど・・・ ええ人みたいなんで、クロ−ズアップしてください。
人物名:始皇帝{エイ政} 秦
投票者の方:まごろく
< magoroku@mail7.dddd.ne.jp >
焚書坑儒など悪名高き人ですが、わずか10余年の間にやったことはスゴイ。胡亥でなくて扶蘇が2代皇帝として即位したのであれば、どうだったろう。ダークなイメージが強すぎると思うので、尊敬と同情をこめて。
人物名:費イ(文偉)in三国時代
投票者の方:外朗ヒシロ
< t29y0288@ip.media.kyoto-u.ac.jp >
すみません、どなたも文偉に投票して下さらないので、また投票してしまいました。文偉が正月に酒飲んで演義・張飛的最期を迎えたからといって彼の評価が低いのはどうしてもゆるせないんですよぅ。(←泣きはいってます)・・・訳わからん。
人物名:費イ(文偉)in三国時代
投票者の方:外朗ヒシロ
< t29y0288@ip.media.kyoto-u.ac.jp >
すみません、どなたも文偉に投票して下さらないので、また投票してしまいました。文偉が正月に酒飲んで演義・張飛的最期を迎えたからといって彼の評価が低いのはどうしてもゆるせないんですよぅ。(←泣きはいってます)・・・訳わからん。
人物名:戚継光in明
投票者の方:もずく
< mozuku@urania.dricas.com >
これが二票目ですか。明に限らず王朝の初期と末期の動乱期がどうしても脚光を浴びてしまうのは仕方ないですね。でも国内の平和を維持したのも立派な功績だと思います。この人は中国の北へ南へと大活躍し、陸海双方での戦功を見ても名将の名にふさわしいと思います。ただ、彼の魅力はそれだけでなく、妻だけには頭があがらなかった恐妻家であったことにあります。どんな敵にも怖れない英雄が嫁の一挙手一投足にビクビクしてるなんて微笑ましいと思いません?
人物名:呉秀峰
投票者の方:にせもの
< aam31650@nyc.odn.ne.jp >
呉氏開門八極拳6世 バーチャファイターの協力者呉連枝老師の父親 他派の門派を研究し小架の1路から12路を作った その他八極拳の発力を10大けい(漢字が出ませんでした)別に 整頓した
人物名:太公望呂尚in商・周
投票者の方:青樹のぞむ
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はじめまして。 太公望は、某少年マンガから入りましたが、宮城谷昌光氏の「太公望」で中国史そのものに はまりました。現在、日本文学科の学生ですが、卒論を太公望にしてしまおうか迷っています。 これって無謀な試みでしょうか?
人物名:西太后in清末
投票者の方:ダエイ
< 425−0011 >
普通の人間は欲望や憎悪を誰かにぶつけたいのを我慢しているのだが、西太后(イー妃姫)の場合はその欲望や憎悪を人にぶつける事で中国の歴史を築いていった、しかし今の世の中には自分の気持ちを素直に相手に言えることが出来なくなっている人が多くなっているので西太后のように自分の思っていることをしっかりと言えるような人間になりたいと思って投票した。
人物名:西太后in清末
投票者の方:ダエイ
< 425−0011 >
普通の人間は欲望や憎悪を誰かにぶつけたいのを我慢しているのだが、西太后(イー妃姫)の場合はその欲望や憎悪を人にぶつける事で中国の歴史を築いていった、しかし今の世の中には自分の気持ちを素直に相手に言えることが出来なくなっている人が多くなっているので西太后のように自分の思っていることをしっかりと言えるような人間になりたいと思って投票した。
人物名:費イ(文偉)in三国時代
投票者の方:外朗ヒシロ
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興勢の戦いで蜀が滅ばなかったのは彼のおかげ。・・・王平のおかげ?
人物名:韓非
投票者の方:元雄
< zombie@d3.dion.ne.jp >
韓非を韓非子とするのはよろしくない。韓非子とは書名であり、人物名にあらず。そんなことは別にどうでもいいのである。韓非は中国で唯一本当の法治を説いた人物だ。現代に韓非の思想を体現できたら、今の日本の不祥事など一掃されるぞ。
人物名:郤缺in春秋
投票者の方:野中 崇史
< taka-n@kitanet.ne.jp >
この人物は、重耳(文公)の晋への入国に反対した恵公の知恵袋であった郤丙の息子で、趙盾が宰相になり霊公を立てたときに同調した長老だった。その後趙盾の後宰相になり、軍事・内政とも輝かしい成果を残した。2年しか宰相にいなかった士会も名宰相としての認識が高いが、それ以上の名宰相であったと思う。
人物名:蔡鍔in近代
投票者の方:T.M
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(1880〜1916)*多分そうだったと思う(近くに専門書が無かったので・・・)
雲南にて、新建陸軍(近代化された陸軍)を創り出し、第三革命(袁世凱の帝政問題を
きっかけに勃発した反乱。1915〜1916)を引き起こした開明かつ進歩的な軍人で
ある。幼少の頃より梁啓超のもとで学び、日本に留学した後、雲南新軍の創設など中国の
近代化に一役買った。辛亥革命時、雲南起義に参加して雲南都督となる。民国成立後は、
師匠である梁啓超が北京政府に参加していたこともあって、袁世凱よりの立場にいた。そ
のため、第二革命(孫文が袁世凱に対して起こした反乱。失敗に終わる。1913)には
起義に参加しなかった。後に1913年(だったと思う)に北京政府からの命令で雲南を
離れ、北京へ赴くが、対華二十一か条を起に袁世凱への期待を喪い、帝政運動とその表面
化によって袁世凱打倒を決意。北京を脱出後、日本を経由して雲南に入り、反袁の志を持
つ人々と共に第三革命を引き起こした。袁世凱死後、四川都督になるが、以前から患って
いた結核によって、12月(だったかな?)療養先の福岡にて死去。ちなみに彼は第三革
命以前から結核を患っていたらしい。
卒論でこの時代をやっていたので非常に思い出ぶかいのだが、地元中国では(台湾もそ
うだが)彼のことを「愛国主義者」と評している。一方、日本では彼に関する本が非常に
少なく、A=スメドレー『偉大なる道』(蔡鍔の部下であった朱徳の半生を綴っている)
が彼のことについて記している。もっと詳しく知りたい人は、中国語の本だが、
謝本書『蔡鍔伝』
任光椿『将軍行』
等がいいだろう。それにしても誰か蔡鍔を小説で書いてくれないものだろうかのぅ。
人物名:劉秀
投票者の方:宮野輝久
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後漢の光武帝ですね。最近有名なのであまり説明の必要はないでしょう。 この人の名前は、まだ中学生だったころ「三国志」を読んで知りました。なんか文字づらもいいし、中興の祖というのも格好がよくて興味をもったのです。考えてみれば、それまでぼくの中の 中国史というのは史記の範囲内でした。王莽も、平家物語で名前を聞いたことがある程度でしたから、なぜ漢が前後にわかれているのかも知りませんでした。それで調べてみようと、この時に「後漢書」を購入したのです。言ってみれば僕が漢籍に手を出すきっかけになった人物で、その意味でも思い入れは深いですね。 光武帝本紀をよんで思ったことは、その謚から感じたイメージとは違って、非常に落ち着いた感じの青年だったことに新鮮な驚きを覚えました。どちらかといえば劉秀の兄、伯升のような人物を想像していたのです。このようなタイプの英雄もいるのか、と思いました。「ほんとは皇帝じゃなくて執近吾(近衛兵)になりたかったんだよなぁ」と後年ぼやいているくだりなどは、案外 ミーハーな一面もあったんだ、と苦笑してしまいます。 安能務の「中華帝国志」では、驚くほど簡単に天下が転がり込んできたから、という何のどこを読んだのか解らない理由で、光武帝の項はあっさり割愛されていましたけど、あんなバカなはなしはありませんね。どの王朝のどの創始者と比べても遜色ない苦労を、ちゃんとしています。 後漢書光武帝本紀は読み物としてもおもしろいですから、漢籍がOKで、まだ読んだことのない人には絶対お勧めですよ。いまだに三国志小説ばかりよんでるひとは、三国志の前後に興味がわかないのでしょうか?不思議でなりません。まぁ、これは余計なお世話ですね。
人物名:晁錯in前漢
投票者の方:きいわこ
< keitanaka@sannet.ne.jp >
すみません。間違えて1度に2回投票してしまいました。(わざとじゃありません)
この方、嫌われているようですね。
同僚を落し入れ、偏執的なやり方で各地の皇族たちから、
些細な罪で領地を没収し、呉楚七国の乱を引き起こしたとかで。
でも彼は、漢王室の安泰のために、我が身を振りかえらず、孤高に自らの役目を
遂行しようとしただけなんです。なのに、乱が起きると皇族たちを宥めるため
景帝に見限られ処刑されたとは、哀れです。
人物名:高延宗
投票者の方:宮野輝久
< tellow@mte.biglobe.ne.jp >
この人は北斉の勇将、蘭陵王長恭のすぐ下の弟ですね。 北斉において名将といえば斛律光や蘭陵王ということになっていますけれども、沙姫羅さんが 紹介されていた段韶や、この安徳王延宗なども、北斉を支えた名将といっていいとおもいます。 ただこの人物はちょっと矯激なところがあって(高氏には多く見られるタイプですね)ちょっと書くのがはばかられるような悪戯をしたり、奴隷をつかって試し切りをしたりと、けっして人格者ではありませんでした。あまりにも無法がすぎるため、ときの皇帝に厳しく罰せられました。それ以後は悔い改めたようです。 こんなこともありました。兄の蘭陵王が宿命的な敵国、北周をさんざんに打ち破って凱旋しました。ほかの兄弟はみなくちぐちに誉めたのですが、ただ一人延宗は 「兄貴はそれで男か?俺ならその勢いを駆ってそのまま周に侵入し、ほろぼしている」 と非難しました。あるいは兄達にたしなめられたことでしょう。 その後北周が力をつけて北斉に最後の決戦を挑みました。このときには蘭陵王も斛律光も主君によって殺されてしまっています。そこで活躍したのがこの延宗でした。北斉で軍を全うしているのは延宗だけという有様になっていましたがそれでも最後まで抵抗し周軍を翻弄しました。 周の武帝は斉の首都を占領したあと、みずから馬を降りて延宗の手を取ったという話も伝わっています。 最後になりますが、冒頭で、延宗を「北斉を支えた名将」のひとりに数えました。しかし、より正確に表現すると「惜しくも北斉を支えきれなかった名将」かもしれませんね。
人物名:高延宗
投票者の方:宮野輝久
< tellow@ >
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