皆様による人物紹介の頁
一百六十一〜一百八十

 書いていただいた方々、本当に有り難うございます(^^)。


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投票された人物について知りたいなら中国史人物雑伝

百八十:Thu Oct 15 14:05:00 JST 1998

人物名:冦準
投票者の方:寛ちゃっちゃ < l980581i@ryukoku.seikyou.ne.jp >

冦準について>僕は、東洋史専攻の大学1回生だ。夏休みの基礎演の宿題にレポートの提出を言い渡された。そこで、僕は元々宋代が好きだったので、その時代をやろうとした。そして、本を読み始めた。すると、セン淵の盟のところになった。そこで、当然冦準の存在に直面したのである。彼のあの一見めちゃくちゃな様に見える行動によって宋政府は救われた。王欽若や、陳尭叟があまりにも非力で、臆病で情けないように見えたが、実際僕があの場面であの時勢にたっていたら、やはり真宗に遷都を申請していただろうなって思う。その分、現代に生きている僕にとって冦準の存在は大きいのである。今、僕は彼をかなり尊敬している。実ははっきり言って、僕が宋代を好きになった動機は不純なのだ。僕は大学教授になりたくて、大学でも結構まじめに取り組んでるつもりだ。将来も、本か何か出版できたらいいなって思っている。でも、本屋さんを見ると、三国志関連のものや秦の始皇帝など、古代(三国時代は古代に入らないらしいが)のものが大半である。だから、みんながあまりやらないところをやろうってことで、宋代を最初は無理矢理好きになろうとしていた。でも、後悔なんかしていない。だって、今実際、心の底から宋代が好きだし、冦準に出会えて良かったとも思ってる。


百七十九:Tue Oct 13 17:54:24 JST 1998

人物名:賀抜岳
投票者の方:柱国大将軍 < ado@celle.shd,chiba-u. >

北魏末の人。武川鎮出身。北魏末の六鎮の乱の時、反乱軍と戦い、後に爾朱栄に従う。爾朱天光に従って関中に入る。爾朱氏と高観の争いを横目で見ながら、関中で独立を図るが、高観と結んだ侯莫陳悦に謀殺される。宇文泰は賀抜岳の集団に推戴されてその主将となり、高観と対立した孝武帝を迎えて西魏をたてる。西魏の将領達は多く武川鎮出身であり、それ以外の者でも、賀抜岳と共に関中に入った者がほとんどを占める。この集団が核となり、後に関隴地域の有力者を加えて、西魏から隋・唐にいたる支配集団を形成していく事になる。


百七十八:Tue Oct 13 17:26:04 JST 1998

人物名:王直
投票者の方:徹夜城 < shuki@mqb.biglobe.ne.jp >

えーと、念のため言うと明史に「王直」という奴は二人登場するんですね。私があげているのは倭寇の親分のほう。ただし世間一般の王直記述は必ずしも正確とはいいがたいかも知れません。
彼は徽州出身で、商人の世界から密貿易の世界に入り、東南アジアから日本にかけて幅広い活動をしています。どうも1543年に種子島に鉄砲を伝えたのはこいつらしい(少なくとも学会では常識と化しつつある?)。その後自分の親分の許棟が官軍に倒されると、その残党を吸収し、数多くの海賊を撃破・吸収して海上に大勢力を築きました。大幅にカットしたんだけど、このあたりべらぼうに面白い展開なんです。
ただし、彼自身がいわゆる「倭寇」の活動を行ったかどうかは問題でして、彼はむしろ「海上の秩序維持者」だったというのが僕の意見です。実際彼は大貿易業者という性格のほうが強いのです。ポルトガル人も彼を頼って平戸に集まったといわれています。むしろ後期倭寇の大攻勢は王直の手を離れた者たち、さらに中国沿岸に居住する特殊民がおこなったものだと考えられます。ただ、「倭寇の背後に王直あり」と当時の官軍が見ていた、というほうが問題なわけで。
明軍では彼を利用して海上を治めようという意見もあったんです。そこで王直を呼び寄せたわけですが、王直を倭寇の主犯とみなす意見も多かった。結局当時の政治情勢の犠牲となって王直は処刑されます。しかし彼は逮捕されてから三年も優遇されてますから生き残る可能性もありましたね。
後の時代の鄭芝龍・鄭成功を見ていると王直の後継者という観があります。実際活動範囲はほとんどいっしょですし。
長長と失礼しました!ま、これで海賊史にも興味もってね。


百七十七:Thu Oct 8 14:08:28 JST 1998

人物名:夏侯惇
投票者の方:クルサ < t18046@hcs.ipc.ibaraki.ac.jp >

私を中国史に引きずりこんで下さった人です(^^;)。普段温厚そうな割に、なにかあるとキレそうな人物だと私は思っているのですが・・・。曹仁と仲良さそうだと考えているのも私だけでしょうか。なんとなくお互いタメ口きける人って感じで。


百七十六:Wed Oct 7 11:23:30 JST 1998

人物名:伍子胥
投票者の方:K.Y < j3197092@ed.kagu.sut.ac.jp >

伍子胥の有名な故事は楚王への復讐と彼の死に関するものがあるようです。
こちらでは彼の死に対する逸話は載せておられないようですがなかなか凄まじいものです。 越王(勾セン)の処遇をめぐってその関係が悪化し、剣を賜って(自殺の命令)しまいます。
これで伍子胥自身は恨みを飲んで死んでしまうのですが、この時の彼の行動はまさに常軌を逸したものでした。
彼は家族に「目をえぐって東門に懸け、自分の墓にカ(棺の材料の木)を植えよ」と命じるのです。
つまり彼は自分が死んだ後、呉は(呉の東にある)越に攻められ、滅亡する(ので王は命をまっとうできないであろう)と予言しました。
しかも果たして彼の予言は事実になったようですからなかなか恐いものがあります。(史記か十八史略のものでしょう。高校の漢文の授業が初見でした)


百七十五:Thu Oct 1 03:53:59 JST 1998

人物名:趙桓子
投票者の方: < >


百七十四:Tue Sep 29 17:14:59 JST 1998

人物名:赫連昌
投票者の方:慕容玄恭 < >


百七十三:Tue Sep 29 17:12:36 JST 1998

人物名:赫連定
投票者の方: < >


百七十二:Fri Sep 25 04:57:01 JST 1998

人物名:方悦
投票者の方:ラメ入り頭巾 < >

 言わずと知れた河内の名将であり、初登場が彼の最後  名将ぶりを一目見たかったものである


百七十一:Thu Sep 24 21:13:14 JST 1998

人物名:王莽
投票者の方:畑 < hatanori@silver.ocn.ne.jp >

ある中国史の本に書いてあったのですが、高句麗という朝鮮半島の国を見下して
「高」の字を「下」に置き換えて「下句麗」と勝手に命名して喜んでいたと
いう話が印象に残っています。


百七十:Wed Sep 23 16:36:52 JST 1998

人物名:墨子
投票者の方:増田 将雄 < m_masuda@fc4.so-net.ne.jp >

孔子の学問を修めながらも”喪服期間などにより生産を妨げ人を不健全な生活に追いやってる” という考えを持ち儒から脱し新たに自分で墨家を作り出した人物です。
現在の社会において彼の唱えた兼愛とはまさにうってつけの主義ではないだろうか? 自分の利益だけを優先させ他を軽んじる限り人や社会の対立抗争は絶えない。 平和を実現するためには家族・国家という枠をはずしすべての人を平等無差別に
扱う必要がある。 この平等無差別な人間愛が兼愛というものである。


百六十九:Sat Sep 12 16:53:06 JST 1998

人物名:蘭陵王
投票者の方:娑姫羅 < >

ずーっと蘭陵王高長恭のことを調べています。「美形で仮面を着けて戦った」なんていう 華々しい話が残っているのに、北斉が滅ぶ前に毒殺されちゃうんですよね。あと、 本当は仮面を被っていなかったかどうかわからないとか、この人のことを調べていると 奥が深くて楽しいです。ところで、能と京劇に演目があると書いている方が ネットサーフィンしてたらけっこういたんですが、私はお目にかかったことがないです。 雅楽(舞楽)なら何度か見てますが。どこでやってるかとか、ビデオなどがあるなら、 教えて欲しいです。
来年、蘭陵王のお墓と墓碑のお参りに、中国旅行できるといいな。


百六十八:Sun Sep 6 12:29:49 JST 1998

人物名:衛青
投票者の方:三島ミチル < mitiru@ma2.justnet.ne.jp >

こんにちは、はじめて記帳させていただきます。 私は衛青が好きです。彼は元は奴隷で姉の衛士夫が漢の武帝に寵愛されたために将軍にまで出世する人物なのですが、すごく「身分相応」という事を知っていてハメをはずさず、ただ自分は戦争という職務をまっとうすればいいと細々と暮らすんです。欲を出せる身分なのにそれをしない彼は節度ある人物として買っているのですが、陳舜臣さんに「うっとうしい性格」とか言われて ましたね。(笑)彼の死後、姉の衛士夫は江充という人を摘発して自分の優越をひたる男に皇太子である自分の息子を「皇帝を呪い殺そうとした」とでっちあげられ結局死んでしまい、また、そのために衛士夫自身も死を賜ってしまうんですよね。衛青は姉が微せんの身であったから自分の活躍で姉の後ろ盾となれば・・・とがんばっていた面もあるので、一体、彼がやって来たことはむなしいかったのかも、と同情する心もあります。 それでは。


百六十七:Fri Sep 4 20:56:57 JST 1998

人物名:
投票者の方: < >


百六十六:Fri Sep 4 20:53:13 JST 1998

人物名:
投票者の方: < >


百六十五:Sun Aug 23 19:36:17 JST 1998

人物名:カイシャン{大元武宗}
投票者の方:斎藤雅泰 < BYT01612 >

はじめまして、斎藤雅泰と申します。今回はじめての記帳ですが、大元の部分を選ばせていただきました。モンゴル(元含む)の時代では大抵世祖の時代までしか詳細が記述されていないことが多く、その後の時代についてよくわからなかったのが大変残念に思っていました。ここ最近、いろいろは資料を見るようになって、大元の武宗ほど豪傑で変わった者はいないと思って、ここに選ばせていただきます。私の扱える時代区分は一応全体ですが、三国志は苦手ですね。


百六十四:Tue Aug 18 03:35:34 JST 1998

人物名:愛新覚羅溥儀
投票者の方:井上伸之 < taimon@m1.interq.or.jp >

ラストエンペラーを見て感動しました。自分が中国史にはまるきっかけになった御方です。


百六十三:Tue Aug 11 11:31:37 JST 1998

人物名:関羽
投票者の方:梶原 < >

関羽の魅力について疑問を呈しておられた無名氏様へ。あなたが列挙されていた欠点はファンの目から見れば愛嬌の一種に映るのです。 ファンになるきっかけとしてはやはり「三国演義」でしょうか。子供の頃にあれを読むと洗脳に近い影響を受けます(大げさ)。 私としては、「侠」の義を貫いた個人として彼が好きです。もちろん歴史的意義としての観点からは落第点を付けざるを得ませんが。 なお私は曹操の歴史的意義は認めても彼を許すことは出来ません。徐州での虐殺は弁解の余地はありません。


百六十二:Sat Aug 8 13:04:43 JST 1998

人物名:毛沢東
投票者の方:小野 < >

 毛沢東は中国史上だけでなく、世界史上でもナポレオン、明太祖、ドルゴン、デイオクレテイアヌスと並ぶ戦略家だと思う。(政治家としての才能はともかくとしても)彼なら漢高祖と天下を争うことができると思う。数字はあやふやだが日本軍が進駐したときに長期戦に持ち込めば必ず最後の勝利は中国のものだといったような趣旨の発言をしている。どんなときでも冷静に状況を判断し自分の勝利につなげるのは戦略家の必須条件だ。


百六十一:Wed Aug 5 16:47:33 JST 1998

人物名:関羽
投票者の方:? < taizo629@lilac.ocn.ne.jp >

なぜ?自分が初めてこの頁のランキングをみたとき関羽が圧倒的な得票数で一位の座に収まってるのを見て、そう思わずにはいられなかった。自分が三国志演義や三国志を読んだときには、関羽という人物は、登場人物のなかで一番嫌いな人物になっていたのになぜ関羽を好きな人が多いのか?自分が関羽のことを嫌いな理由は、「自分の力を過信しすぎる性格」「容姿が不格好」などが大きなところだが、関羽の人気への疑問点としては「個人的な強さでは、一般的に呂布や張飛のほうが上に位置付けられているのに、なぜ関羽だけが人気がでるのか」「知勇兼備の将としては趙雲や張遼のほうが関羽なんかよりずっと似合っている」「劉備のもとに帰る関羽よりもそれを引きとめようとしなかった曹操のほうが立派ではないのか」「非業の最期にしても自らの外交姿勢に問題があったのではないのか」とまあ関羽の短所をあげようと思ったら張飛と同じぐらいあげられるのにのに・・・ 誰か関羽の魅力を教えてください。


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