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三皇五帝
夏(前2000?-前1600?)
商(前1600頃-前1050頃)
周【西周】(前1050頃-前771)
春秋時代【東周】(前771-前403頃)
戦国時代(前403頃-前221)
秦(前221-前207)
漢【前漢=西漢】(前202-後8)
新(8-25)
漢【後漢=東漢】(25-220)

三国【魏・呉・(蜀)漢】(220-280)
晋【西晋】(280-317)

五胡十六国(304-589)
南北朝(304-589)
隋(589-618)
唐(618-907)
五代十国(907-979)

宋【北宋】(960-1127)遼(916-1125)
金(1115-1224)宋【南宋】(1127-1279)
元(1271-1368)
明(1368-1644)
清(1636-1912)

中華民国(1912-)
中華人民共和国(1949-)

KOKYUU

[97/5/18]

 

三皇五帝
 三皇は伏羲とか神農とかで,五帝は黄帝とか尭とか舜が入ります.伝説時代ということになっており,やれ文字をつくったとか,火をみつけたとか言われます.神農とかは薬(薬草)を人間に与えたということから,今では薬屋さんの神様らしいです.黄帝とかはおそらく黄河(黄土)崇拝から来たのでしょうが,中国では中国人の直接の祖先として一番敬われているらしいです(ほんとか?).

夏(前2000?-前1600?)
 歴史書には王の系譜まで載っており、血族による皇帝制度はこの王朝から始まったとされますが、実在は確かめられていません。この王朝の存在を証明することが中国考古学の一つの話題です。

商【殷】(前1600頃-前1050頃)
SHAKU
 伝説の王朝だと言われてきましたが,今世紀に入ってからの殷墟の発掘で実在が確かめられました.おまけに甲骨文から,この王朝の1000年ぐらいあとに書かれた司馬遷の「史記」が極めて正確だったことも確認されました.神権政治が行われ,おどろおどろしい青銅器が作られた時代です.
 なお殷という名前は最後の首都名で,正式名称は商です.この国の人たちが亡国の民となり,各地に散って,仕方なく危険な流通業を始めたことから,その仕事を商業というようになりました.

周【西周】(前1050頃-前771)
 太公望が武王を助けて天下をとったのがこの王朝です.商に比べて、人間中心の政治を始めたとされます。

春秋時代【東周】(前771-前403頃)
 周の勢いが傾き,各地の封国が力を持ち始めたのがこの時代です.孔子や老子などいろいろな思想が出ました.一応,周王朝は尊重されましたが,実質的には覇者と呼ばれる人たちが各地に対する発言力を強めました.

戦国時代(前403頃-前221)
 周の力は完全に地に落ち,各国が領土と覇権を争って,本気になった時代です.この時代もいろんな人が活躍して面白いです.

秦(前221-前207)
 秦王・政が天下を統一して作った王朝です.彼は偉大な業績に酔いしれ,自ら「皇帝」という尊称をつくり,在位につきました.強行的な政策を推し進め,結局反乱であっと言う間に潰れましたが,中国に「中華は一つ」という考えを植え付けた功績は大きいでしょう.
 ちなみに英語のchinaは秦の言葉からきたものです.もともと秦国は西方の国であり,西と接触が多かったためだと思われます.

漢【前漢=西漢】(前202-後8)
 かの有名な楚漢争覇戦(項羽と劉邦の戦い)ののち,劉邦が創った国です.農民(というか,ありゃあごろつきだな)出身で,負けてばかりで,人望だけはあり,しかも最後は約束を破って奇襲をかけて勝つという,あまりに現実的というか,現実的で無いというか,そんな所に歴史の面白さを感じます.
 他にも,ライバルの手足を切り取り目鼻耳口をつぶした,こーわい呂皇后とか,拡大政策をとってえらそーにした武帝とかが活躍した,結構典型的な王朝です.また「宮刑」にあいながらも,りっぱな歴史書「史記」を作り上げた司馬遷もこの時代です.彼の業績は偉大です.
(右図は”信憑性が極めて怪しい”呂皇后の図)
RYO KOUGOU

新(8-25)
 やがて漢では暗君などが出て、外戚である王莽が力をつけるようになりました。そして最後は帝位を簒奪します。
 王莽は古式制度マニアで、儒教で理想化された古代の周の体制を目指しました。地名や官制を変えまくり国外の異民族への待遇を悪くして彼らを怒らすわ、秦以前の統一的でない貨幣を使おうとして複雑な貨幣制度を作り経済を混乱させるわ、全ての土地を国有にしようとして豪族の反発を浴びるわ...で、あっという間にほとんどの国民の信用を無くし、反乱が続発、短期間で滅んでしまいました。

漢【後漢=東漢】(25-220)
 乱れた天下を再び統一した劉秀(光武帝)の王朝です.彼は「役職につくなら,華やかな警察長官,奥さんをもらうなら美人で有名な陰家の娘さんがいいなあ」などと言っていたミーハーな兄ちゃんでした.
 「虎穴にいらずんば虎児を得ず」の名言で有名な班超が,西域を服従させた時代です.

三国【魏・呉・(蜀)漢】(220-280)
 後漢が衰えた後,群雄割拠の時代になり,3つまで集約された状態の時代です.いわゆる「三国志」の時代で,曹繰とか劉備とか諸葛亮(孔明)の活躍の時代です.

晋【西晋】(280-317)
 三国志で有名な司馬懿(仲達)の孫が統一した王朝です.たくさんの夫人のうち,どこに行こうかを,乗ったロバが勝手に行く先で決めたなどという皇帝が出たような,今一つやる気のない王朝で,皇族争いであっというまに滅びます(その時の風習で,現在でも飲食店の前に塩を置くとか).

東晋十六国【五胡十六国】(304-439)
 そして、また戦乱。晋が皇族争いの乱により、わけがわからなくなった結果、異民族などが蜂起し、各地に国が創られていきます。晋は一端滅亡、南に亡命政権が誕生し、その結果、北の異民族諸国家と南の漢民族国家・東晋の構図が出来上がります。
 やがて北は世界主義者の符堅により統一され、あわや全国統一寸前まで行きますが、東晋との決定戦にあっけなく敗北、再び北は分裂してしまいます。

南北朝(439-589)
 今度北を統一したのは雲崗の石窟などを造った北魏でした。南の東晋は軍閥の台頭により政権が交代していきます。しかし北魏も分裂、北は三たび分裂時代に入る一方、南でも血で血を洗う生臭い戦いが繰り広げられます。

隋(589-618)
 楊堅が統一したものの,息子の楊広(煬帝)の時代にあっという間に滅びます.「秦の失敗を参考にせいっ!」という感じです.もっとも煬帝はむちゃくちゃ悪者にされ,煬帝という呼び方自体,悪い意味になっています.でも一般に政権を奪われた皇帝は悪く書かれるので,どれぐらい本当に悪かったのでしょうねえ.

唐(618-907)
 李淵が建国した,日本ではとても馴染みのある王朝です.この時代は確かに国際性が豊かですが,中国の歴代王朝から言えば結構例外的だと聞いたことがあります.それは李氏自体に異民族の血が交じっており,当時は必ずしもまだ漢民族化していなかったからだとか...城の中で,宮城が中央ではなく,周辺に作られたのも,いつでも外へ逃げられるようにだとか...(それを真似た日本の都っていったい...^^;)
 楊貴妃の物語で有名な玄宗皇帝はこの時代ですが、玄宗の時に反乱が起きて....

五代十国(907-979)
 取りあえず反乱軍は抑えたものの、地方軍閥の力はどんどん強くなりそれによって唐は滅ぼされます。弱小中央政権と地方政権が乱立、中華に憧れる遼も絡んできて血で血を洗う戦いが行われます。穏やかに王朝交代をするはずの「禅譲」とは名ばかりで、禅譲したら前の皇族は皆殺し、なんてことが行われました。
 しかしその分、各地方独自の文化が形成され、その影響は後世まで残ります。現在の省区分ももとはといえばこの時代に遡ります。

宋【北宋】(960-1127)
 ああっ,偉大なる大宋帝国っ!(思い入れ有りまくり^^;).趙匡胤さまが創建した王朝です.士大夫に言論の自由(といっても殺されなかった程度で,不敬罪などは駄目)が与えられ,町は庶民の活気で賑わい,文人が活躍し,青磁はきれいで,武は疎んじられた素晴らしい王朝です.
 おかげで,戦争には負けるわ,北方の遼に毎年莫大な貢ぎ物はしなくちゃいけないわ,最後に皇帝は捕らえられて極寒の地で引きずり回されるわ,なかなか大変な目にあいました.でもこの時代を見ていると外国に金を払ってでも平和を維持することがどんなに普通の人々にとって有り難いかを感じます.水滸伝の舞台となった時代でもあります.
(右図は建国者,趙匡胤)
CHOU KYOU IN
遼(916-1125)
 当時としては北方の外国で,大宋帝国のライバルでした.宋とは今の北京付近の土地である燕雲十六州をめぐって激しい領土争いを繰り広げましたが,中国的な文化や制度なども積極的に取り入れるなど,なかなか優れた政策を押し進めました.

金(1115-1224)
 この時代から漢民族にとっては塞外民族の支配という悪夢(?)を 味わうことになります.当時は完全に漢民族ではない女真族は遼を滅ぼした後,ライバルが滅んで喜ぶ宋をも攻め込み,長江以北で支配しました.
宋【南宋】(1127-1279)
 金に長江以北を取られましたが,なんとか南はこらえました.たまたま南にいた皇族の趙構が建国し,それ以上の金の侵入を防ぎました.

元(1271-1368)
 金のさらに北方から起こったモンゴル民族はあっというまに金を滅ぼしました.またもやライバルの滅亡に喜ぶ南宋ですが,同じことの繰り返しで今度は名称を元としたモンゴル族に,最終的には全領土占領されてしまいました.彼ら騎馬民族は最初,農耕の重要さを理解できず,広々と広がる農作地を見て「もったいない!これだけ広さを全部潰せば,さぞ良い放牧地ができる違いない」と叫んだとか(それを止めた耶律楚材?はいい奴です).
 占領後,漢民族,特に南宋だった人々はモンゴル族中心の差別的な政策に苦しむことになります.

明(1368-1644)
 しかししばらく時間が経つと,差別を受けている漢民族の不満が高まってきたほか,元の皇族は内部争いばかり.やがて朱元璋が天下を制してモンゴル族を北方に追い出したのでした.結局モンゴル族は中国を支配しながら中国化しなかった数少ない民族となったのでした.ちゃんちゃん.
 さて朱元璋は漢の劉邦とともに農民から皇帝になった数少ない一人であり,自ら劉邦を見習おうとした感じがありますが,結構酷薄な人物だったようです.それが反映してかしないでか,この時代は暗愚な皇帝が多く,また秘密警察も横行していたそうです.官僚の給料も少なくて,賄賂が横行したとか.
 いきのいい話と言えば鄭和がアフリカにまで至る7回もの大航海をして,中国の名声を広めたことでしょうか.大航海時代の前にあった,中国の大航海を忘れてはいけません.

清(1636-1912)
YOUSEI
 しかし次に中国を支配したのはまたもや塞外民族,満州族の清でした. やはりこの王朝も漢民族に対する差別はあり,思想統制などはひどかったらしいですが,それでもかなりの年月支配できたのは優秀な皇帝が多かったからでした.その一人である雍正帝は,皇太子を皇帝が秘密裏に決定し,皇帝の死後にそれを公表するという制度をつくることで,優秀な人材が後継者になる努力を行ったりしています.
 そんな制度や,非漢民族である緊張感や,偶然に助けられて,清の皇帝にはまともな皇帝が輩出.よっぽど漢民族皇帝よりも「漢民族らしい聖人君子的な」皇帝が出まくりました.しかし,あまりに中国化しすぎて,自慢の武力はぼろぼろになり,外国勢力の圧力が強まると反乱も起きて,潰れてしまったのでした.しかも出身地は,もはや中国なのか満州族の土地なのか区別もつかなくなっており,モンゴル族と違い,帰るところもなかったとか.まっ,典型的な中国化を果たしたのでした.

中華民国(1912-)
 再び漢民族復活の復権ですが,外国から革命思想の入ってきた中国ではもはや皇帝政治は復活しませんでした.孫文によって始められた革命ですが,袁世凱の野望や日本の侵略に翻弄され,それが終わった後は共産党との争いになり,戦い破れ,台湾に移ることになります(1949年).

中華人民共和国(1949-)
 マルクスの思想の影響を受けた真っ赤っかの中国共産党は,政策にゆれる国民党を尻目に確実に力を伸ばし,支持を受けていきます.そして毛沢東を指導者として,とうとう国民党を追い出し,中国の実質的支配をうちたてました.そののち「文化大革命」と言われる極左旋風が巻き起こり,自ら血を流した後は,すっかり「実務派」支配になって今に至ります.これからはどうなることやら...

 それはともかく,おい,早く正史を作れ〜.皇帝政府だろうが,共産党政府だろうが,議会政府だろうが,正史を作らない政府なんて,私は正当な中国の支配者と認めないぞーー.



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