皆様による人物紹介の頁
二百四十一〜二百六十

 書いていただいた方々、本当に有り難うございます(^^)。


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投票された人物について知りたいなら中国史人物雑伝

二百六十:Fri Jul 9 01:50:04 JST 1999

人物名:李常傑
投票者の方:奈辺人 < etusho >

李常傑(リ・トゥオン・キェット)。李朝大越国(北宋時代のベトナム)の将軍。代々李朝の重臣を出した家計の出身であったが、幼少のころ、姿形が優れていたために宦官とされ李朝太宗に仕えた。太宗の死後幼君をたすけ、北宋神宗とその宰相王安石が李朝攻略を計画した際、先手を打って国境地域を劫掠し、30万人の死者を出した。北宋による李朝攻略が開始されるや前線で応戦し、北宋軍を退ける。
ベトナム救国英雄と呼ばれる人物の一人。


二百五十九:Mon Jul 5 11:04:18 JST 1999

人物名:ウ帝
投票者の方:仰木まさや < 97l2028@andrew.ac.jp >

ウ帝は、舜帝の次に帝位についた人です。黄河を治めたことで有名です。どこで知ったかというと、一八史略や中国の神話の本からです。伝説の人物とされていますが、私は実在したと思っています。 


二百五十八:Sun Jul 4 15:42:36 JST 1999

人物名:湯王
投票者の方:ミリヲ < caramel@iriwo.net >

商王朝の始祖なんですけど、湯王ちゃん超カッコかわいいですッ!
某宮城谷先生の小説『天空の舟』とかにもでてますッ!!
呂氏春秋にもでばってるイケニエ志望のシャーマン君です。

孔子さんが「身長は二メートル九センチ」とか言ってらっしゃいますが、
多分冗談だとおもいますっ、たぶん!だってそんな!デカすぎます!!


二百五十七:Wed Jun 30 23:16:56 JST 1999

人物名:はんしょ
投票者の方: < >


二百五十六:Sun Jun 27 00:43:49 JST 1999

人物名:麹文泰
投票者の方:木内@時世経久 < cap44380@pop01.odn.ne.jp >

 六世紀初頭から七世紀半ばまで、現在の新彊ウイグル自治区・高昌を中心に独立を保った漢人国家、麹氏高昌国の第六代国王。父は伯雅。
 さて、文泰が王位について五年経ったある日。東方から奇妙な旅人が、シルクロードをゆく隊商とともにやってきた。玄奘と名乗ったその若い僧は、天竺へ教典をとりにゆく途上だという。 ためしに言葉を交わしてみると、若いながらも学識高く、なおかつ美形である。文泰はたちまちのうちに玄奘に惚れ込んでしまった。
「先生。どのくらいここに滞在されるのか」「一週間ほどで発とうと・・・・」
 こんな上玉・・・・もといご立派な方が私のそばで政務を助けてくれたらどんなに素晴らしいことか! と思ったのかどうかは知らないが、文泰は必死に玄奘を引き留める。
「ねえ、ずっとここで暮らしませんか?」「教典が私を待っています」「先生に、是非とも我が国の仏教を盛り上げてほしい」「もう充分盛り上がってます」「なんなら、国民全部を先生の弟子にしましょう。お布施がもーどっさり山のように・・・」「結構ですってば」
 埒があかん! そう考えた文泰はついに強権発動。「先生、私がその気になれば、貴方を強制送還することだってできるんですよ。お願いですから、天竺なんて危ないですよ」「いえ。私は仏の御心を学ぶために生まれたのです。王が肉体をとどめても、私の心は天竺に」
 崇高な使命感が玄奘の心をむしばみつつあると思った文泰は、ついに玄奘を監禁。しかし彼はハンストを敢行。文泰はようやくあきらめた。出発の許可をだす代わりに、ひとつの条件をだす。「先生。天竺から帰る途中ならゆっくりできるでしょう? 是非この国に立ち寄っていただきたい」「それならお安い御用です」
 かくて玄奘は西に旅立った。文泰は失恋・・・いや、名残惜しさに襟元を涙でぬらしたという。だが、玄奘は文泰に再会することはなかった。その十二年後、麹氏高昌国は唐の大軍の遠征を受け滅亡する。遠征の原因は、オアシス都市間のいざこざが唐太宗の耳に入ったからだった。高昌国は、貿易国家として生き残るため度々他都市と紛争を繰り返していた。それが唐を怒らせたのである。太宗は謝罪の使者をよこせば許すと寛大な態度を見せたが、文泰は無視した。華やかだった隋にくらべ、唐は地味な政権である。唐には、かつての隋ほどの国力はないと文泰は考えていたのだった。結果、居城高昌城を包囲され、自身はあえなく陣中で病没したのであった。  修行を終え三蔵となった玄奘は、その一年後インドを発った。麹文泰が待っているはずの高昌国に向けて。
 ああ! もう涙なしでは語れない文泰と玄奘の一大恋愛叙事詩(冗談です)! 実際の麹文泰は、高昌国の利権を守るべく、孤軍奮闘したなかなかの君主でした。中華かぶれだった親父さんとは違って、なんとかシルクロードの貿易国家として高昌を維持しようとし、結局唐に敗れていったわけで、やっぱり涙なくしては語れない人物なのでした。


二百五十五:Sat Jun 26 01:56:36 JST 1999

人物名:玄奘三蔵
投票者の方:ちほ < chiho@kitanet.ne.jp >

「西遊記」の三蔵法師のモデル。
実在の人物。実はこの人が般若経も翻訳しています。
私のイメージの彼は高僧というより立派な冒険家。
西遊記のひ弱な三蔵と彼を比べてみるのも楽しいです。
おすすめの本>「玄奘西域記」漫画です。忠実な史実ではないですが、
インドでの玄奘のことも描いてあり、なかなか読み応えがあります。
プチフラワーコミックス・全4巻


二百五十四:Fri Jun 25 05:43:24 JST 1999

人物名:張良
投票者の方:あきらこ < >

やっぱりこの人でしょう!
隠居して仙人修行だなんて、ス・テ・キ・・・。(笑)それがたとえ保身のためであったにせよ、そのしたたかさがよいですね。(^^
若い頃に始皇帝を暗殺しようとした無鉄砲さもその容貌に似合わず面白いって思います。


二百五十三:Thu Jun 17 15:15:19 JST 1999

人物名:雍正帝(清・世宗憲皇帝)
投票者の方:丘 英華 < s6112247.ic.daito.ac.jp >

理由はいろいろあるのですが、一番に「バカ」の字をつけてもいいくらいの誠実さでもって政務に没頭したからでしょうか。宮崎市定先生の言うところの「善意に満ちた悪意」のことです。(満漢両文で書いた)彼の書簡を見ても、それが感じられるようでホント、痛々しいくらいです。
だからなのでしょうか、私としては彼ほど誠実で、かつ哀れな人間というのはあまりよく見かけないように思われるのですが……


二百五十二:Tue Jun 15 23:56:56 JST 1999

人物名:呉明徹
投票者の方:木内@時世経久 < cap44380@pop01.odn.ne.jp >

 字は通昭。秦郡の人。南朝陳の武将。
 汝南に住んでいた大学者、周弘正先生に天文・孤虚・遁甲その他を学び完璧にマスター、自分は英雄だと自称し、知己だった陳覇先に呆れられる。自称英雄はその後、王僧弁との戦いでそこそこ活躍。ところが、梁再興を旗印に長江でがんばる王琳を攻めたところ見事大敗。復讐を心に誓う明徹だったが、武帝(陳覇先)を嗣いで文帝が立つと国内の叛乱を収めるのに忙しく、なかなか王琳に復讐を挑めない。そのうち、明徹は文帝の弟陳【王頁(サ)】にお近づきになり親交を深める。
 文帝の死後、子の廃帝が立つが、叔父の陳サが謀略を巡らして帝位を奪う(宣帝)。明徹はもちろん廃帝引きずり下ろし運動に積極的に参加。陳サの帝位略奪運動に対抗して立ち上がった到仲挙らの悪口を言って彼らが獄死するきっかけを作った。宣帝即位後は、いつの間にか淳干量に次ぐ実力者として朝廷に君臨。
 ここまで昇れば、あとはにっくき王琳を仕留めて頂点に登り詰めるまでと言うことで、積極的に手を挙げてついに北伐に出陣。北斉軍と戦いながら寿陽まで攻めると、北斉が寿陽の守備に送り出したのはかの王琳。やったぜコンニャロとばかり、夜襲やら水攻めやらで攻めまくり、ついにこれを落とす。はじめは王琳を助命するつもりだった明徹。しかし、王琳は兵たちに慕われる人格者だった。一方の明徹は、頑固で融通が利かない不人気者。このまま生かしておけば、いつ叛乱が起きるかわからない。被害妄想気味の想念に至った明徹は、あっさりと方針を変えて王琳を殺してしまった。なんて奴だ!(この辺かなり私情が入ってます)
 ともかく、陳朝始まって以来の難敵、王琳を滅ぼしたことで明徹は朝廷随一の武将となり、生涯で最高の時を迎える。その数年後に起こった、ほとんどヤケっぱちの大博打である諸葛亮ばりの大北伐では最高司令官に任命され得意満面。勇躍北周に攻め入るが、北周の上大将軍王軌の計略に引っかかり、清口で半分自滅気味に大敗。あっけなく捕まって長安に連行され、そこで病死してしまった。六七歳。
 宣帝は「あの李陵だって弓がなくなって降伏したし、干禁は水攻めで降伏したけど、二人とも用兵上手の名将だったもんね。呉明徹は運が悪かっただけだもーん」とのたまったが、この戦いに参加していた陳末期の名将、蕭摩訶なんぞは形勢を読み切って見事に脱出しているわけだから、呉明徹の指揮がモウロク気味だったのは明白。乾坤一擲の大北伐が不発に終わったことで、ただでさえ狭い陳の領土はさらに激減してしまいましたとさ。  というわけで、なんでこんな奴に王琳は負けちまったんだという私怨八割五分の呉明徹伝でした。ホントのことを知りたい方は『陳書』を読んでね〜(無責任)。


二百五十一:Wed Jun 9 17:59:02 JST 1999

人物名:秦始皇帝
投票者の方:黎昊 < >

秦始皇帝の姓名は瀛政です。中国人は今も日本を東瀛と呼んでいる。 だから、瀛政の祖先は弥生人かもしれない。


二百五十:Wed Jun 2 22:11:02 JST 1999

人物名:張良
投票者の方:舜の父親 < tmura@plum.ocn.ne.jp. >

中国史上最高の戦略家で、多分政治や経済の世界に進出しても名声を得ることができたと思う。その才能を軍事だけに費やしたあたりがハンレイ(春秋の越)と違って涼風を感じさせる男。


二百四十九:Wed May 26 22:07:22 JST 1999

人物名:荀子
投票者の方:fge < fge@mb.kcom.ne.jp >

先日投票した時に記帳しはぐっちゃいまして (^^;
程・朱に嫌われたせいか、あまり振り向かれませんね、荀子は。先秦諸子の体系者であり、その功績は決して小さくないはず。それもただ鵜呑みにするのでなく、儒家も含めてメッタ斬りですし、礼に対する姿勢から「頑固ぢぢぃ」的で、かえって微笑ましくもあります。
その客観性・合理性に満ちた議論は現代でも読んでうなづけるところがありますし、弟子の韓非子のように即物的すぎないところも評価ポイントです。


二百四十八:Tue May 25 19:24:43 JST 1999

人物名:張世傑
投票者の方:和 < kazsan@earth.interq.or.jp >

…すいません。かぶっちゃいました。よかったらさっきのは消しといて下さい。

さて、俗に「闘将」と呼ばれる人々がいます。
この人もそう云う類の人ですね。
何か、戦い方がどうこうじゃなくて、戦い振りが凄いという…。 (勿論、陸戦主体の元軍の出身(で、いいのかな?)なのに、崖山の戦いの指揮振りは十分名将の名に値すると思いますが)
でもやっぱり、この人を語るときに欠かせないのが…死に際のエピソード。
一敗地にまみれ、南に落ち延びる途中、嵐に合った船の上で只一人…

「おお!天が宋朝を滅ぼすつもりであるならば、今すぐこの船を覆したまえ!!!!」

どっぱ〜〜〜〜〜ん!!!!!!

……カッコ良すぎる……漢(おとこ)だぜ!世傑!!!(涙)

…冗談はさておき、彼が他の人々を巻き込まずに死んだのは、評価に値しますね。
でも或いは、一人でも多く宋朝復興の為に生き残って欲しい、といったような思惑もあったのかもしれません。王朝に殉じる人間なんて少ないほうがいい…なんていう現代的道徳観から、彼の業績を評するのはやや的外れかもしれませんね。

この人なんかを見てるとき、時代に逆流しているかもしれない人、遅れている人、或いは時代に殉じる人、後世からそう評される人でも、十分に人の心を打つことが出来る…ってことを実感します。歴史は開明的勝者だけで作られる訳では無いって事ですね。

さて、時代の流れに殉じて、南海を舞台にして戦い続けた人物…と、言えば「あの人」も出てくるんですが、それは次の記帳の時にしましょう。僕は彼も好きなんです。ふふふ。


Sat May 22 02:33:12 JST 1999

二百四十七:人物名:韋孝寛(叔裕)
投票者の方:娑姫羅 < saila@mail.goo.ne.jp >

北魏末〜西魏〜北周〜隋初の名将。名は叔裕ですが、字の孝寛で通っています。
西魏においては玉璧を守って東魏の高歓をさんざん悩ませて退却に追い込み、
北周においては間諜を使って北斉の宿将・斛律光を後主と離間させ、
隋においては文帝の命にしたがって、尉遅迥を亡ぼしました。
この戦乱続きの時代にあって、これだけ活躍しながら長命で、
しかも畳の上で死ねたという数少ない人物でもあります。
子孫は唐で[員β]國公の爵位を継いでいってます。


二百四十六:Wed May 19 23:45:28 JST 1999

人物名:張公謹
投票者の方:ていとく < teitoku@ipc-tokai.or.jp >

 唐の太宗に従った武将の一人。  主に副将としての活躍が多く、果断で剛直なひととなりだったようです。  エピソードとしては、「玄武門の変」のさい、気弱になった李世民が結果 を占おうしたため、部屋に突入し拝壇を蹴散らして「今さら何を迷うこと がありますか」と叱咤した、とか、李靖の突クツ攻撃の際、使者が敵と交渉 中なのに攻撃を敢行しようした李靖を止めようとしたり、というものがあり ます。  もっとも、李靖は攻撃を強行して大勝利を納めるのですが。


Wed May 19 13:02:22 JST 1999

二百四十五:人物名:馬援(伏波将軍)
投票者の方:マイトレーヤ < maitreya@tkf.att.ne.jp >

雑記を見ていてこの人がいなかったので、追加しました。
どちらかと言えば、馬援を指して「大器晩成」と曰った
お兄さんの方が好きですが・・・


二百四十四:Tue May 18 15:50:22 JST 1999

人物名:馮驩
投票者の方:澤村相如 < >

投票では字を間違えてしまいました……。ご存知孟嘗君のふところ刀(というか成り行きでそうなった)。この人は有名な割に一票も入ってない。なぜでしょうかねえ……。私はちょっと残念です。特に有名なエピソード。財政難に陥った孟嘗君が借金の取り立て役という貧乏籤に三千の食客の中で問題児かつ無法者である馮驩を指名したところ、領地に行った馮驩は借金の証文を焼き捨て領民を呼んで飲めや歌えやの大騒ぎ。孟嘗君は帰ってきた馮驩に「先生は何か買ってこられたかな」と聞くと「このお屋敷には何もかもそろっておりますが『義』がありません。そこで証文を焼いて『義』を買ってきました」と言い放ったので孟嘗君は不機嫌になってしまった。後に猜疑心の強い斉王に地位を追われ食客もことごとく去った(馮驩一人残った!)失意の孟嘗君を待っていたのは薛の領民の歓待だった…。何度読んでも馮驩のユニークで破天荒な、しかも侠気がある活躍振りに爽快さを覚えます。筋書きが『史記』とは若干違いますがいろんな本の記述を総合して勝手に自分でこう思ってます。それにしても得票率の高い人物は床の間に飾るような立派な人(実際は違ったかもしれないが、そういうイメージで語られてきた人)ばかり。他にも淳于コン(髟兀)みたいなユーモアのある人なんか私は割合好きなんですけどね。これは私見ですが、中国の偉人というのはは他の国の英雄(織田信長、カエサル、ナポレオンなど)に比べるとことさら聖人君子的に描かれる傾向があるようです。まあ、それも魅力の一つなんですが。


二百四十三:Sat May 8 13:37:37 JST 1999

人物名:馮道
投票者の方:和 < kazusan@earth.interq.or.jp >

結構異色ですよね、この人。
遼の皇帝に向かって、
「民を救うのは、神様でも仏様でもなく、貴方様だ!!!」
みたいな事言った人ですよね。
そんなこと言うから、後世の宋学の知識人達にボロクソに言われるんですよ……
バカですねぇ。(笑)
でも、そんな事は意にも介しない、飄々とした人物だったんでしょうね。
前に、明の永楽帝の時もそうなんですけど
僕は後世の評など気にしない、ダイナミックな人物が好きなんですよ。
自分の時代にいたら、迷惑この上ない人が多いでしょうけど(笑)
歴史ってのは後世から楽しむモンですからね。
「豆食いながら、歴史上の人物をこき下ろすのが最高の楽しみだ…」
…ってあれ誰が言ったんでしたっけ?
ところで、明の異端歴史家、李卓吾がこの人を絶賛してますね。
僕、李卓吾も好きなんすよ。


二百四十二:Sat May 8 12:23:21 JST 1999

人物名:孫堅
投票者の方:飯塚 < >

 孫堅パパ、好きなんですよ。「すでに何票入っているかな?」と、結構楽しみにして
みたのですが、結果はさんさんたるモノでした。哀しかったです。やはり周瑜のような
綺麗どころやNHKの人形三国志などで知名度の高い孔明先生などがすぐにイメージされて
しまうのでしょうか。嗚呼、孫堅みたいな親父だったら毎日さぞかし楽しかろうに…


二百四十一:Fri May 7 17:43:18 JST 1999

人物名:張邦昌
投票者の方:藤棚 < >

 北宋末の進士。永静軍東光(河北省)出身。
 金の開封攻撃の時、 和議の使者の一人として派遣されました。それが縁で北宋が滅びる と傀儡国である大楚の皇帝に無理矢理立てられてしまいます。金も 戦争には強くても傀儡国つくりはあまり上手くなかったことも あって大楚国の形成は不安定なものでした。張邦昌は結局32日で 退位して高宗(南宋初代皇帝)に会い帝位につ即いてしまった罪を謝しました。しかしその 甲斐なく、後に讒言に遭い殺されてしまいました。

 話としては結構面白いですが、彼自身は時代に翻弄された気の毒 な人物であるといえるでしょう。


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