二百一〜二百二十 |
書いていただいた方々、本当に有り難うございます(^^)。
人物名:何無忌
投票者の方:木内@時世経久
< cap44380@pop01.odn.ne.jp >
字は不詳。東海の人。東晋末の人物。
桓玄と争い敗死した鎮北将軍劉牢之の甥(妻の弟)にあたる。東海王司馬彦章に仕えるが、その彦章は桓玄に殺された。劉牢之までもが殺され、桓玄が帝位を簒奪すると、かつて劉牢之の元でともに戦った劉裕(のちの宋武帝)と密かに結び義兵を挙げる。桓玄をして「舅の劉牢之によく似た非才」と言わしめた武才は桓玄討伐の際に縦横無尽に発揮され、江陵に桓玄の一族桓謙を撃破し東晋の安帝を奪回するという勲功をあげた。この功をもって予州、楊州および五郡の都督となり、その後鎮南将軍にまで昇進した。
その後東晋の朝廷では、桓玄討伐・安帝の帝位奪回に最も功績のあった劉裕が実権を握る。何無忌がそれをどう思っていたかはわからないが、彼はやはり東晋に忠誠を誓っていたのかも知れない。
ある時、劉裕が慕容氏の興した南燕を伐つべく北伐軍を率い建康をたつと、その虚をつき建康を襲った人物がいた。かの妖賊孫恩(黄巾の乱を起こした張角みたいな人)の勢力を継いだ廬循という男である。廬順の麾下、徐道覆は全ての船が重楼という大艦隊を率いて建康に迫った。何無忌は少勢を率いてこれを迎撃する。彼の部下は、「ここは守りを固めて籠城し、敵の勢力が弱まったところを逆撃すべきです」と進言するが、何無忌はこの進言に従わず、真っ向から艦隊戦を挑んだ。眼前の徐道覆の軍は、あくまでも廬循軍の別働隊であり、長期戦になれば廬循軍の本隊が建康を襲うだろうと彼は考えたのだろう。実際、この時建康では廬循軍が到達する前から遷都の議論が巻き起こっている。
何無忌軍は少勢にも関わらず善戦した。しかし大艦の前では、何無忌軍の小さな戦船はあまりにも無力であった。自軍の崩壊後、何無忌は節(君主から授けられた旗)を握りしめ、なおも船上で督戦を続けたが、ついに押し寄せた賊兵数十人に討たれた。何無忌軍が敗れた後、廬循軍が建康を落とすかと思われたが、結局急を聞いて馳せ戻った劉裕軍が廬循軍を大破している。その意味では、何無忌の時間稼ぎが東晋を救ったとも言えるだろう(もっとも、この数年後には劉裕によって東晋は滅ぼされるわけだが)。廬循の挙兵がなければ、あるいは新王朝の宋の有力者として一生を終えたかも知れないが、多分東晋とともに滅び行く運命だったのだろうとも思う。地味だけど、王朝の滅亡時になるとこういういぶし銀的な野郎どもがワラワラ登場してくるので、僕は王朝の最晩期の歴史を読むのが結構好きです。それにしても、長々とすみません。
人物名:李白
投票者の方:川口夕貴
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盛唐の天才詩人。ですが、私の中では酔っ払いの神様。死んだ時も、酔って池に映った月を取ろうとして足をすべらせたってんですから、いっそのこと酒仙とでも呼ぶ方がいいんじゃないかなぁ・・・
人物名:リ姫
投票者の方:川口夕貴
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一般には悪女のように言われてますが、大好きなんです。最初にこのひとを知ったのが『小説十八史略』(陳舜臣)だったからですけど。
人物名:卓文君
投票者の方:川口夕貴
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卓文君は、前漢は武帝の時代に活躍した賦の名人司馬相如の奥さんです。裕福な家の娘さんだったのに、駆け落ち同然でまだ無名だった相如の許に嫁いだものだから、実家の親は激怒。新婚生活の資金援助もしてもらえず、食うに困った二人が始めたのが、なんと居酒屋。文君はホステス、旦那はふんどし一丁で皿洗い。生きるためならここまでやる彼女のパワフルさには脱帽します。この後は、親にも許され、相如も武帝の許で出世していったのですが、奥さんにはずっと頭が上がらなかったように思えます。(出典『史記』)
人物名:羅芳伯
投票者の方:
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清中期、西ボルネオ、蘭芳大総制、初代大唐客長、華僑はダメっすか?
人物名:君王后
投票者の方:田中恵子
< keitanaka@ha.bekkoame.ne.jp >
はじめまして。
史記を読んでこの人のファンになりました。戦国策にもエピソードが載っています。
燕の将軍楽毅が斉を攻撃しビン王は殺され、太子法章は姓名を隠して太史キョウの家の傭人となります。太史の娘は彼を常人ではないとしてよく世話をし、二人は結ばれます。法章は王(斉の襄王)になり娘を王后とします。この人が君王后といわれ、襄王亡き後も斉を支えます。しかし彼女の息子の王建の代に斉は始皇帝に滅ぼされます。
史記に出てくる女性の中で一番のお気に入りです。
人物名:徐福
投票者の方:チンジャオロース
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徐福に関して、わたくしチンジャオロースは 大変有能な人物だと思います。 始皇帝を前にしての、あの度胸、大胆な振る舞い、 かの「荊軻」に匹敵すると思うのです。 刺客と道士の違いはあれど、彼等には 共通の男らしさを感じるのです。
人物名:徐福
投票者の方:匿名
彼は、非常に神秘的で、中国古代史の中で、特に際だつ人物だと思います。 当時は、みんなお金がないので、彼はうまくやったと思います。 僕は、彼の功績は、もっと高く評価されるべきだと思います。
人物名:王琳
投票者の方:木内@時世経久
< cap44380@pop01.odn.ne.jp >
南朝梁の武将。字は子[王行]。会稽山陰の人。父の顕嗣が湘東王に仕えており、さらに 二人の姉妹が湘東王の側室となっていたため、若いながらも王の側近となり、将帥となった。 侯景の乱の際、23歳ながら一軍を率い、王僧弁の麾下として活躍。武功も多く、侯景を都 建康から逐った際は総大将である王僧弁に匹敵する武勲をあげる。しかし、建康占領後の 王僧弁軍は暴虐を働き、民衆の支持を喪った。部下たちを統率できなかった王僧弁は、その責任を王琳に押しつける形で湘東王に讒訴。あるいは武功著しい王琳の権勢伸長を警戒しての行為かとも思える(このあたりはすべて推測)。王琳は投獄されるが、これに憤った王琳麾下の陸納らが叛乱を引き起こし、彼は無事釈放されている。その後も王琳の湘東王(この時はすでに即位しており、元帝となっている)に対する忠誠に変わりはなかったが、しかし元帝は王琳を警戒し、彼を南方に遷した。この時王琳は号泣したという。br その元帝も、突如侵攻してきた西魏軍によって殺される。王琳が江陵に馳せ参じたときは、すでに梁の情勢は一変していた。王琳が西魏軍と戦う間にも、梁の権力者は王僧弁から陳覇先に変わっていく。その陳覇先は、傀儡とも言える敬帝を立て、王琳にも忠誠を求めたが彼はこれを拒否。北斉を頼り陳覇先と対立する。陳覇先は、麾下の双璧とも言うべき二将、周文育・侯安都を主将とする討伐軍を差し向けるが、王琳の水軍はこれを完膚無きまでに撃破。その将才を見せつける。その後も陳軍を幾度となく破るが、しかししだいに劣勢となってゆく。陳建国時の、最大の障害とも言うべき王琳の勢力も、北斉の朝廷が乱れるに従って次第に衰退。さいごは見捨てられるように寿陽に孤立。陳の呉明徹率いる討伐軍に善戦するも落城し、これに降伏した。この時、援軍として王琳救援にやってきた北斉の将、皮景和は結局日和見に終始し、陳軍と一戦も交えることなく撤退している。はじめは王琳の助命を考えていた呉明徹であったが、王琳麾下の将や、民衆がこぞって王琳の助命を求めるのを見、変事が起こることを恐れついに王琳を処刑する。王琳、享年47歳。その死を知り、落涙する者数千を数えたという。王琳は穏やかな容貌を持ち、財を軽んじて部下を愛する人物であった。そのため部下からの信頼も絶大であった。 また、梁から陳に王朝が変わる際、その忠節をもって梁再興のために戦い続けたのは、実質彼だけだったといえるだろう。南北朝時代を代表するに足る名将だと私は考えている。br 書きたいこと半分も書けませんでした。ごめんなさい。次は「何無忌」だ!
人物名:張儀
投票者の方:玲
< rein@nasu-net.or.jp >
初めまして。色々な方が中国史に興味があるのですね、驚きました。
さて私のお薦めなのが張儀です。何せ口先だけで、天下に出てしまうのですから。しかも、あちこちで都合のいい事、まるで、自分の生き様のようで、思わず感情移入してしまいます。
人物名:張
投票者の方:
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人物名:白起
投票者の方:
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人物名:重耳(晋の文公)
投票者の方:Yama
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春秋5覇の一人。 タイプ的には、劉邦のように度量の大きさで勝負するタイプ。 業績としては 1)軍隊の制度を整えた 2)楚の軍隊をうち破り、天下3分の事実を確立した。 といったところか。 もし、晋が分裂せずに時代が推移したならば、その後の中国史も大きくかわったのではないか。
人物名:爾朱天光
投票者の方:藤棚
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爾朱天光は北魏末の六鎮の乱を平定し、大きな勢力を持った爾朱氏の一族です。爾朱氏の首領爾朱栄によって関中地方平定のために派遣されましたが、爾朱栄が北魏の孝荘帝によって殺され高歓(後の東魏の実権者)が自立をし始めると、せっかく平定した関中を放棄して引き返してしまいます。それで、一族とともに高歓と戦ったのですが敗れてしまいました。
人物名:顔真卿
投票者の方:中根大輔
< soryuu@mail.goo.ne.jp >
王羲之と並ぶ中国書道の偉大な人物。どうも誰も投票しておられないのようなので書いておきます。
書家としてだけではなく、武将としても実力は相当なもの。なにしろ安史の乱のとき、バタバタと敗走し、
或いは反乱軍に寝返る唐軍にあって、一人河北平原城で反乱軍を迎え撃ち、見事に勝利を収めた上、敵の補給路
を絶ってしまったのですから大した物です。このとき玄宗皇帝は「河北二十四郡一人の義士も無きか!」といって
悲しんでいた時だったので、「わしは顔真卿なるものは知らぬが、とんでもない奴がおったわい」といって大喜びしたとか。
その迎撃戦で他の城を守っていて戦死した一族の若者を弔った文章の直筆がまだ残っている(!)のですが、
この筆跡が達筆で、しかも悲しみにあふれているので、これを見ると感動して涙が出そうになります。
・・・こんな凄い人物が、なぜか無名なのは悲しいことです。でも最近、NHKの「故宮」でもとりあげていたので
ちょっとは知られるようになったかも。
あ、そうそう、この人の筆跡が元になって活字の明朝体ができてますね。現代の僕たちも顔真卿の恩恵を被って
いるわけです。
人物名:ドルゴン
投票者の方:うにめし
< scarlet@mva.biglove.nejp >
前の記帳から日があまり経ってないのが難なのですが、清朝マニヤの私としては、彼に一票も入ってないのが気になって。何と言ってもこの人が居なかったら、清朝が中国の王朝の歴史に名を連ねる事は無かったかもしれませんから。その決断力、その洞察力、いよいよ長い中国史上にあっても、五指に入るべき名政治家だとには思うのですが、いまいちマイナーでせつないです。
人物名:段韶
投票者の方:娑姫羅
< saila@mail.goo.ne.jp >
「だん しょう」と読みます。北斉の武将。北斉の皇帝たちの母后・婁昭君の姉を母に持ち、北斉の皇室と姻戚関係にある。
若い頃から叔父である高歓にかわいがられ、その武才を発揮する。玉壁の戦いのとき、斛律金、韓軌といった宿将たちに推され、高洋(後の文宣帝)とともに首都・業(ほんとは旁におおざとがつくけど、字がないので)を守る。南朝の梁の武将・陳覇先が攻め込んできた時に追い払い、北斉で重臣が謀反を起こしたとき、これを鎮めた。
北周・突厥との戦いでも数々の功を挙げる。563年に北周・突厥が手を結び、それぞれ洛陽、晋陽(北斉の副都)に攻め込んだときは武成帝とともに晋陽を守っていたが、洛陽の戦況の不利を知ると千騎を率いて5日で洛陽近くまで応援に駆けつけ、先に北周軍と対峙していた斛律光、蘭陵王高長恭と合流し、北周軍を追い払った。(詳しくは、「中国劇画 孫子の兵法」第五巻を見てください)
571年、汾水付近の北周との国境線をめぐる攻防戦で、病をおして出陣するが悪化し、蘭陵王に策を託して業に戻り、亡くなった。
私は北斉で1、2を争う名将だと思ってるんですが、あんまり本で名前を見たことがないので悲しい。「中国劇画 孫子の兵法」で見出しに名前を見つけたときは嬉しかったです。
女好きで、しょっちゅうお忍びで出歩いていたため、ある戦でみつけた美女を高澄に差し出そうとしたら、誤解されて自分がもらう事になってしまったとか、ものすごいけちで、葬式だろうが何だろうが、金子や物をひとつつみたりとも持っていったことがないほど徹底しているとか、なかなか濃いキャラクターでもあります。
北斉後期の北斉軍の強さは、この段韶と斛律光の2人で支えられていたといっても過言ではないと思います。面白いことにこの二人は妙に対照的で、斛律光は寡黙な不言実行の典型的な武骨のタイプ(の割には、けっこう詩的な才も持ちあわせている感もありますが)で、段韶はわりとおしゃべりというか弁が立ち、人当たりもいいタイプだったようです。
人物名:雍正帝
投票者の方:うにめし
< scarlet@mva.biglobe.ne.jp >
理由は色々ありますが、とりわけ徹底した合理主義に魅力を感じます。伝統より実際の結果を重んじるって、儒教の国にあってはなかなかできない事だと思うので。異民族出身の皇帝だったというのもあるとは思いますがやはり。また、寝る間も惜しんで地方官の報告状にきちんとチェックを入れたというのも、他人に厳しくまた自分に厳しい実直な人柄が忍ばれて好感が持てます。
人物名:李秀成
投票者の方:藤棚
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忠王李秀成は太平天国の名将です。天京事件で主要な幹部を失い弱体化した太平天国を 英王陳玉成とともに支え、太平天国の勢いを再び盛んにさせました。蘇州、抗州など江南の主要な城を落とし、上海にも迫るなど太平天国の力を東に広げました。しかし、西洋の近代的な武器を多く持った湘勇や常勝軍などの部隊によってしだいにおいつめられ、天京(南京)の洪秀全とその一族も役に立たず、天京陥落後に捕らえられ後に殺されてしまいました。悲劇的な人物といえるでしょう。
人物名:shugensho-min
投票者の方:
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