皆様による人物紹介の頁
一〜二十

 書いていただいた方々、本当に有り難うございます(^^)。


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投票された人物について知りたいなら中国史人物雑伝

二十:Wed Jan 8 23:08:02 JST 1997

人物名:霍去病
投票者の方:しげ < >

武帝の時代の人で、叔父の衛青と供に匈奴をけちょんけちょんにやっつけた人。
有名だよね?


十九:Mon Dec 30 05:50:37 JST 1996

人物名:李密
投票者の方:前川@考古研OB < >

てっきり,隋に代わる李ってやつぁ自分だと思ってたのにねえ.残念でした.結構いい線いってたのにね.
李世民や李靖やギチョウが載ってるのに,この人いないのは寂しかったので.僕としては.
残念賞あげる.(いらんな.)


十八:Fri Dec 27 12:28:05 JST 1996

人物名:諸葛亮(孔明)
投票者の方:土屋 篤史 < s96612at@sfc.keio.ac.jp >

これからも頑張ってください。 おもしろそうですね。


十七:Thu Dec 26 16:44:29 JST 1996

人物名:魏徴
投票者の方:楊 威利 < sako@orange.or.jp >

私の好きな人物は魏徴です。
何度も主君をかえざるをえなかったにもかかわらず毅然とした態度と節操を絶対に捨てず、最後の主君李世民をして「我が鏡」といわしめた人柄に心より敬服しています。

この家項の主催者の方へ。中国史に関するサイトがあるのはとても素晴らしいことです。加油。


十六:Dec 25 10:11:15 JST 1996

人物名:林則徐(清)
投票者の方: < >

「清史稿}香港が返るときこのひとを忘れるわけにわ行きません.


十五:Fri Dec 20 18:05:45 JST 1996

人物名:荊軻
投票者の方:伊藤@考古研OB < >

荊軻という名前を見て、思わず投票してしまいました。理由は北京の秦始皇芸術宮の中で、荊軻と始皇帝がターンテーブル上でクルクル回っていたのを思い出したからです。あのままいつまで経っても、荊軻は始皇帝の後を追っているのかと思うと感慨深いです。いつまでも殺せないのですから、彼もさぞかし残念だろう。ちなみに秦始皇芸術宮では、鶏も二羽、クルクル回ってました。


十四:Sat Nov 30 03:54:20 JST 1996

人物名:岳飛
投票者の方:沙水伯彪 < aki_74@mbox.kyoto-inet.or.jp >

「盡忠報國」背に刻みたる四大字、精忠岳飛ここにあり。
中国史上最高の英雄、岳飛を忘れてはいけません。


十三:Sun Nov 24 22:46:31 JST 1996

人物名:丁汝昌
投票者の方:伊藤@考古研OB xxx@yyy

北洋艦隊の水師提督.威海衛が陥落した時に,服毒自殺.「広辞苑」にも載ってます.ちなみこの人はもともとは陸軍軍人です.なんで提督になっていたのであろうか?ね,面白い人でしょう?


十二:Sun Nov 24 18:39:26 JST 1996

人物名:董卓(後漢)
投票者の方:瀧(紅蘭恋恋27) < taki_1991@cap.bekkoame.or.jp >

う〜ん、ご厚意に甘えて二票目を入れさせていただこう。

こいつが好きな人はいないと思うんだけど、私も嫌い(なんじゃそりゃ)。
でも、世間の評判通りに読み取っちゃいかんと思うのうよね。
以前、自分のページでも彼のことを取り上げたんすけど、まだまだ勉強不足でしたよ、アレは。
最近になってようやく彼の物の見方がなんとなく見えてきたような気がしますよ。
「知らずして評価するなかれ」
娯楽で歴史やってる私の、自分なりの歴史観です(なんかえらっそうですね、てへ)。


十一:Sun Nov 24 01:56:06 JST 1996

人物名:荊軻
投票者の方:yuri < blur@mcgroup.or.jp >

荊軻とセットで、高漸離も好きです。
「風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず」が大好きなんです。
刺客列伝が、とにかく大好き。
予穣の、「士は己を知る者のために死し〜」と迷っちゃいました。


:Sat Nov 23 12:09:43 JST 1996

人物名:伍子胥{伍員}
投票者の方:伊藤尚人 < t93i216g@times.info.eng.niigata-u.ac.jp >

 このような家頁があったとはまったく知りませんでした。
 伍子胥という人物のことは、は陳氏の「小説十八史略」を読むまでは、 まったくしらなかったのに一度よんだら、この伍子胥という人物のことを とても気にいりました。あまり彼のことをいい様に書いている本はないで しょうが、私は伍子胥のことが好きです。


:Wed Nov 20 12:20:20 JST 1996

人物名:周公旦
投票者の方:佐藤寛記 < sato@eps.nagoya-u.ac.jp >

占い嫌いなところが好きです。


:Tue Nov 19 18:29:09 JST 1996

人物名:張良
投票者の方:渡辺 高志 < watanabe@ueda.info.waseda.ac.jp >

面白いです。本の関連がいい。


:Wed Nov 13 23:48:08 JST 1996

人物名:劉基
投票者の方:Y・H < >

一流の軍師といえば太公望と劉基と王猛の三人だけですね。


:Wed Nov 13 00:16:13 JST 1996

人物名:仲由{子路}(春秋)
投票者の方:高崎 真哉 < stakasa@mxw.meshnet.or.jp >

 彼は孔子の弟子です。学校の授業で論語を読んだだけの時には、孔子集団と言うと 仁や徳を振り回す、なよなよとした理論家の人達というイメージがありました。 しかし、たしか中島敦の短編『弟子』を読んだとき、そのイメージは一変。 特に愛すべきキャラクターである子路の名は忘れられなくなりました。
 道場破りに孔子の所へ行き、逆に弟子となってしまったという竜馬のようなエピソード、 彼が弟子になってからは孔子を馬鹿にする者がいなくなったという口より先に手が 出るような性格、そして最後の節を守った壮絶な殉死。堅苦しいイメージが強い孔子の弟子、 それも筆頭に挙げられるような弟子として、 彼のような直情径行の人物がいたというのは実に面白いものです。


:Tue Nov 12 22:42:06 JST 1996

人物名:厳嵩
投票者の方:大石隆夫 < toishi@jsn.justnet.or.jp >

(前略)訪問者記帳ページに放言したことについてわざわざ懇切丁寧なご返事をいただきまことに有り難うございました。
まだパソコン通信をはじめて1ヶ月もたっていないので不明な点も多いのですが今後もよせていただきます。
ところで今回の投票に関してですが、余人が絶対に入れないような人物に一票。明末の悪徳政治家(張居正よりは前の人)なんですが日本では本どころか専論さえないと言っていいでしょう。
中国では張顕清『厳嵩伝』(1992,黄山書社,合肥)などが出ていてそれを山根幸夫先生などが紹介しているのですが…。自分でもこんな男はくだらないと思うんですがなんせそれをネタに論文を書いたもんで。
より近世的な世界、言い換えれば『三国志演義』などが描いている濃厚な人間関係の直接のモデルになった社会にもっと注目が集まればよいと思って入れてみました。それではまた。(早々)


:Sun Nov 10 16:09:41 JST 1996

人物名:李斯
投票者の方:みけ < >

秦の始皇帝に仕えた李斯は、かの悪名高い「焚書・坑儒」の提案者でも あり、韓非子を殺害したともいわれる人物です。しかし、当時の状況を考えると、単に暴挙とも言えない部分があると思います。 「史記」列伝には、彼は黄色い犬を飼っていたとありました。薄茶色の犬 のことでしょうか・・・


:Sun Nov 10 10:14:27 JST 1996

人物名:朱全忠{後梁太祖}(後梁)
投票者の方:前川@考古研OB < HQI00142@niftyserve.or.jp >

すでに記帳されている人物だけど,いいのかな?記帳して.
すでに投票されている人物の中からだと,これかなあと思って.悪者なんだろけど,なんか本能的に支持したく思える人の一人です.(それほど「好き」でもないけど.)李克用よりゃこっち.
記帳の趣旨に反していますかね.これ.


:Sat Nov 9 22:24:38 JST 1996

人物名:朱全忠(後梁)
投票者の方: < taki@urban.or.jp >

一番好きってわけじゃないです。ただ、ここ最近のマイブームなもので。
陳舜臣さんなどはこの人のことを悪く書いたりしてて、そうなるとかえって「ほんとに?」とか思っちゃうのが私の悪いところだわなあ。調べた結果、やはりすごい人であることが判明。
後の宋が開封を首都としたのも、実に朱全忠の政策によるところが大きかったりします。前王朝を簒奪したというので朱子学の見地から悪し様に評価される彼ですが、冷静な現実主義の人だったのですね。


:Sat Nov 9 06:49:14 JST 1996

人物名:趙匡胤{宋太祖}(宋)
投票者の方:高崎真哉 < takasaki@mech.kyoto-u.ac.jp >

 建国者としては目立たない彼ですが、とってもいいやつだと思います。
 宋王朝では彼によって伝えられた石刻遺訓というのがありました。 皇帝となったものは、密かに王朝に伝えられていたその石刻を見て、胸に刻みつけるわけです。
それに書いてあったことは2つ。禅譲により受けついた前の皇帝一家を後々まで保護すること、 士大夫を言論により殺さぬこと。多くの王朝の交代があり、前王朝の皇帝家は尽く殺されるのが 当たり前だった五代十国において、前者の遺訓はまさしく「人間らしい」王朝の出現を証明したものでしょう。 また後者によって活発な言論活動が行われるようになりました。このことだけを見ても彼の優れた人間性と先見の明が 分かるというものです。
 彼は軍人出身にも関わらず、皇帝となった後は歴代最大の文官国家を作り上げました。 人は自分の生き方に拘ってしまうものですが、そうならなかったところも気に入っています。 逆に武の弱い王朝となり、他民族に滅ぼされてしまいました。歴史って悲しいねえ(;_;)。
 ちなみにネタ本は陳氏の「中国の歴史」です。


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