九月二十三日(五日目) |
昨晩は船の中でかなり酔っ払ってしまった。日記ももっとうだうだ書くつもりだったのに、なんかあまりかかないで終わっている。大体旅行記と言うのは非常に面倒くさい。というのも雑文を書くのは好きで、思うが侭に現地で考えたこと、今考えていることを書くのが一番楽しいのであるが、人に見せる可能性のある文の場合、それを書く前に私がどういう行動をとって、どこに行き、それがどんな観光地なのかを説明しなくてはいけないのだ。私としてはそんな文はたいして面白くないのだが、書かざるをえず、しかもそれだけで手一杯になってしまうのである。
なんて余談を述べないで先へ行こう。思わず昨夜は蘇州行きの船の中で夜更かしである。今朝はしかも6時に起きた。船が到着する時間がよくわからず、おそらく7時ごろだろうという各種の推測からである。しかしなかなかつかず結局ついたのは8時。
まずホテルを探す。華僑飯店を探すが、行き先を間違え、歓前路という、蘇州一番の繁華街へ訪れてしまう。しかたないので、楽郷飯店というところにする。フロントで交渉。何も言わないのに値下げしてくれた。
一休みして次の都市への切符買いへ。解放路沿いの歓前路から北へ15分ほど歩いたところに総合切符売場があり、ここで買えるらしい。次の都市へは、SちゃんとM先生が上海へ、私とI先生が南京へ行く予定である。前者を帰国組、後者を残留組と呼ぼう。前者はあっさり買ったが我々は少し迷う。軟座(グリーン席)がよかったのだが、乗りたい列車にそれがない。とりあえず、並んでいる客も少ないのでチャレンジ。そうすると「この車次はない、ない」と言われ、結構朝早くの列車ならあるという。「普通寝台は?」(昼だがお金さえ出せば寝台に乗れると思ったため)とか聞いてみるが、とにかくないと言われる。しかたないのでそれをとることにした。出発は26日である。
さてまだ10時過ぎである。今日は西側の観光地を行くことにする。私にとって興味が有るのは呉王コウリョが葬られているという虎丘ぐらいで、他にはない。寝不足でぼおっとした頭には程よいであろう。まずその虎丘へ。
虎丘の入り口の前には出店がたくさん並んでいる。それを抜けて入り口へ。さて、話は若干飛ぶがここでは「虎丘趣聞録」という中国語の冊子を買った。これは虎丘の見るところの説明がたくさん載っていてとってもお勧めである。とにかく、それで見たいといけないくらい見所が多い。ここのメインはコウリョが葬られて、多くの剣も埋められらたとされる剣池。ここには書で有名なオウギシ、ガンシンケイ、ベイフツの手になる字の石刻(ここが剣池だ!みたいなやつ)がある。こんなにそうそうたる有名人たちの手による書があるというのは流石にすごい。本当にコウリョが葬られたかどうかはともかくとして、そちらの方が感激である。
次には「第三泉」。茶に関する最初の論説書を書いた陸羽が絶賛した泉であるらしい。最近陸羽のことは読む機会が何度か有ったので興味深い。
有名な虎丘の塔もある。最初は五代だが、ちょっとした説明展示を読むと、どうもそのあと再建されたような感じがする。塔は傾いている。建設中から傾いたらしくそのため塔のデザインを変えたりしているようだ。いわば欠陥建築である。
さてこれ以降がだんだん怪しくなってくる。コウリョを受け継いだ夫差がコウリョの墓を作った際、千人の工匠をそこで殺したとされる千人石(他の伝説もある)、孫武に関係するとされる孫武亭、呉王が作った剣を試したとされる試剣石、越王コウセンが嘗胆をしたとされる仙人洞(別説有り)、さらには呉王が西施と遊んだとされる蓮池、などなど。なんだかここまで呉越の話の伝説があると思うと少々滑稽である。私の買った概説書「虎丘趣聞録」が怪しいのか、そういう伝説が本当にあるのかはよくわからない(その場所の説明文に書いてなくて、本書に載っている伝説も多い)。なおここでは一百人シリーズの皇后、僧、神仙偏を発見しゲット。結構本屋を回ったのだが見つからず、こういう所で見つかる。
さて次に寒山寺へ。ここはカンザンとジットクが住職をしたとされる寺で楓橋が唐の張継に詠われて有名なところである。個人的にはあまり思い入れがない。「コソ文化精粋集」という日本語の本を買う。これは蘇州の観光地をかなり詳しく説明したもので、すごく行けている。蘇州に行ったら真っ先に手に入れるべきであろう。それによると張継の詩を写した石碑は、宋時代の王ケイ、明の有名な文徴明、そして前述したユエツに受け継がれて今に伝わっている。文徴明の文字は十字ほどだけが残っている。ユエツのものが現在では完全で、よくいろいろ引用されたりするらしく、拓本もたくさん売っていた。使いもしないのに、この碑のミニチュア墨を買ってしまった。
その詩以外にもカンザン寺に関係する石碑が結構あり、岳飛、陸ユウ(確認できず)、唐寅、コウユウイなどがあり、面白かった。岳飛の字はどこのを見ても力強い。さてそのあと楓橋と鉄嶺門へ行く。後者は倭寇から守るために明代に作られたもの。橋の前に関が立っているのだ。関の上には登ることが出来、仁環将軍の説明がしてあった。仁環将軍は倭寇退治に活躍した英雄である。明時代の武器の模型などが飾られていた。仁環将軍は、確かにそんな人物いたよなあ、という感じだったが改めて知ることが出来て面白かった。
さて、それから西園、留園という庭園に行きたかったのだが時間が無く、変わりにショ門へ行く。門が見つからず、ないだろうということになり、もうちょっとショ門をぶらつきたい私はそこで皆と別れる。万歳橋と言う橋がある。ここは宋代から賑わっていたことが有名なのだ。橋の前後の道の脇には店などがならんでいるが、夕方になり、さらに橋の両側に出店(茣蓙を敷いて)が並ぶ。野菜や日常雑貨を売っているのだ。橋を単に使うための人、店による人で、バイクと自転車と人でごった返す。車は少なくともこの時刻は通れないだろう。
なんという賑やかさ。もちろん、宋代の繁栄が今に続いているとは言えないだろう。今なら繁華街と言えば、両側にビルが立ち並び、人と車が行き交うような場所を言うに違いない。今の万歳橋の前後に立つ家はそんなものとは比較にならない、庶民の質素な家である。つまりは相対的には取り残されたような所かもしれない。しかし絶対的な尺度で見るならこの庶民の賑わいこそが宋代の同じ、ここ、万歳橋の賑わい、蘇州の反映を代表するそれだったに違いない。人々は何百年と変わらず、この橋の前後で、もはやショ門は見守ってくれていないが、賑やかなときを過ごしているのだ。私はぶどうを買って、食べながらその橋を二度ほど往復したり、橋の上に座ってときを過ごした。ゴシショが工事をして作られたここのへん。宋代には清明上河図の橋の上のような賑わいをみせたこの橋。その後没落した明時代。乾隆年間、橋が作られたとき、庶民が万歳を叫んだというこの橋。その営みは二千年もの間、人と建物を変えながらも続いたのだ。すごいことである。そんな思いにふけりながらそこを後にする。
さて次に盤門である。ここにも橋があるが、もう暗くなっていて、雨も降り出し非常に寂しい。あとで聞くとそうでもないようだが、ともかく、橋の上で万歳橋のように賑わうことはあるまい。それにしても盤門はすごい。水門と陸門が合わさった形式で元時代の残りである。他の門もこうだったらしい。登ることが出来るが、とにかく面白い。明るいときに見れなかったのが残念でもう一度来ようと思った。
そしてホテルへ。VCDの店で、東映動画の白蛇伝とアヘン戦争頃のドキュメンタリを買う。本屋によると「中国皇帝大辞典」という、でっかい厚さ十センチほどの上下の辞典が!!それでは始皇帝から清までの全皇帝の経歴が載っている。ほしい〜!!しかしこんなに重たいのを残りの旅行で持ち運ぶ気にはなれずとりあえず諦める。
夜飯はパン。一人になるとどうも面倒だ。私のほうが帰るのが早かった。