私の心の木 |
西暦二〇〇〇年 正月朔日
人の心の中には木があります。
人生とはこの木を育てていくようなものです。人によっては家族が一番中心の幹かもしれません。
人によっては仕事が幹、あるいは一番太い枝かも知れません。取り立てて「これは!」という太い幹は無いけれど
たくさんの枝を持っていて
それらの集まりとして一つの木を成り立たせている人も多いでしょう。
何か一つの太い幹を持ち、
その幹だけを支えに一生を生き抜く人もいるでしょう。本当に人それぞれです。
人が自殺をしてしまうというのは
この木の大事な部分が燃えて無くなってしまったり、
育てたい木がどうしてもないからかもしれません。
自殺はいけません。
命という根っこさえ残っていれば必ず芽は出せます。
でも一方で、幹を失った人、育てる気になれない人に対して、
どうしたら芽が出てくるのか、どういう言葉を与えればいいのか、
未だに私は分かりません。さて私は。
中学生の時に小さい芽が生えた中国史への興味は、
高校時代を経て、大学時代に積極的に育てるようになりました。
それは確実に大きく、太くなっていきました。「古代」だけだった枝は
「中国全史」にまで太くなりました。その枝からは「中国旅行」という枝も生えてきました。
その枝に関連して「中国」という枝も生えてきました。
さらには別な枝だった「インターネット」と絡み合い、
お互いが助け合って大きくなっていきました。「文物」という枝も生え、
いろんな博物館・美術館を訪れて楽しむようになりました。もともとあった「読書」の枝は
完全に「中国史の枝」に吸収されてしまいました。以前別な関係で少し生えていた「古本屋巡り」の芽は
これに関係して枝として育ちつつあります。気がつくと、「中国史の枝」は
様々な枝を生やしている
太い太い幹にまでなっていて、
心の木の中で主要な部分を占めるにまでなっていました。私は外面上は技術系の人間でした。
でも小学生の頃に確実に育てていた「技術系の枝」は、
中高を経て大学入学後、ほとんど全然育っていませんでした。
考えてみれば、育てる気持ち自体もあまりなくなっていました。もちろんその中で知り合った多くの人々は
大事な「枝」になっています。でも、でも、でも
私の中で一番大事な部分、一番育てたい部分は
中国史の幹だったのです。
そのことにようやく気がついたのは
大学理系を6年間経て、
技術系の人間として就職してしまってからでした。それから二年弱。
自分なりに悩んで足掻いた結果は
中国史の幹をより大きくしただけでした。
そしてその結果、私は「技術系の枝」を
切り落とし、木を植え替えることにしました。不器用な私にとって、
体裁上きちんと育てるべき「技術系の枝」と
一生かけて一番育てたい「中国史の幹」を
両育させることは、困難だったのです。技術系として選んだ会社は、
自分の中の「技術系の枝」を育てるためには
本当に満足で素晴らしい土壌でした。
今でもその土壌を選択したことを誇りに思っています。でもでも...
誇りに思う分、
その土壌で「中国史の幹」を育てる気にはなれませんでしたし、
そうすべきでもありませんでした。もちろん、切り落とした枝からしか生えない
「失われた可能性」の枝もたくさんあったことでしょう。
でも残された「中国史」の幹と、
そこからまだまだ生えて来るであろう、いろいろな枝に比べると
落とした枝は私にとってささやかなものでした。どのような将来が待っているのか想像もつきませんが
中国史の幹を育てるためなら
どんな生活、境遇、面倒なことも厭わないつもりです。最後に。
私は今までその時々で一生懸命やってきたつもりです。
でも結局は
今まで「技術系の枝」を育てるのに尽力して頂いた
諸先生、上司、先輩、学校、会社、そして家族を
裏切ることになってしまいました。
大変大変大変申し訳なく思っております。切り落とした枝も
肥やしとなってこれからの成長に
役立つ部分はきっとあると、確信させて頂いております。また、このことに関して、励まし、アドバイス等々を下さった皆様、
本当に有り難うございます。さあ、ようやくすっきりとした気持ちで迎えられる
新しい年が始まりました。
頑張ります(^_^)。